[#表紙(表紙.jpg)] アリス 中井拓志 [#改ページ]  一九九五年、八月。快晴、微風。  午後三時十二分、東晃大学医学部第二研究棟、通称「瞭命館《りようめいかん》」に突入した百八名の消防隊員は、そこで壮絶な景色を見た。廊下、階段、研究室、いたるところに、施設関係者らが奇怪に身体を歪《ゆが》めて倒れ伏していた。朦朧《もうろう》として消防隊員の呼びかけに応じない者もいれば、危険な全身|痙攣《けいれん》を重積させて床を跳ね回る者もいた。辛うじて立っている者も、奇声を発して激しく錯乱していた。まともな神経を保っている者は、そこには一人もいなかった。隊員の一人は、後に「悪魔が通り抜けたかのような景色だった」と告白している。  意識障害、あるいは中枢神経系障害の同時多発事故だった。「生物・化学的危機」対応装備に身を包んだ消防隊員らは、最終的には六十を超す障害患者の群れを館外へ引きずり出すことになった。百名ほどの医師・看護婦が館の前で待機し、被害者の処置にあたった。あちらの障害からこちらの障害へ、無数の白衣が駆け巡り、その合間を厳重装備の消防隊員が縫って走り……夏休みのキャンパスは一時騒然となった。  状況から考えて、何らかの原因物質が館内に充満したのに違いなかった。これだけ大量の人間が、同時刻に、同じ場所で、同じものに襲われたのだから、他に理由は考えられない。ところが消防の検査器には何も引っかからない。医師団の血液検査からも何ひとつ出てこない。悪魔でなければこうはいかない、というくらいに、館内からも患者の身体からも何も検出されなかった。手がかりのないまま、翌朝未明、最初の死亡例が現れた。その最期は、急性致死性緊張病と呼ばれる症状に酷似していた。患者が急激な興奮状態に陥り、分裂病性の精神運動興奮とも脳炎から来る中枢神経系障害ともつかないうちに、死亡に至る。現在の発達した医学にも原因の掴《つか》めない、稀有《けう》な症例のひとつだった。  これが、後に、というかすでに当日の夕刻の報道特別番組からその名で呼ばれていた、「瞭命館パニック」のはじまりだった。  原因究明は消防から警察庁科学警察研究所の手に渡って、結局そこでも手詰まりになった。警察庁は、広範な専門家の意見を求めて当時の科学技術庁に応援を求めた。こうして科技庁に「東晃大学事例調査委員会」が設置される。調査委員会は、生物・化学物質|漏洩《ろうえい》の線はもちろん、実験機器からの放射線|被曝《ひばく》説、研究員による医薬品の麻薬的乱用説、恐ろしい何かを目撃したことによる心理パニック説、テロ説まで、考えられるすべての可能性を探った。が、やはり、何の証拠も挙がらないのだった。瞭命館内部の壁、床、実験機器からダクトの埃《ほこり》まで、何をどうひっくり返しても、化学物質漏洩の痕跡《こんせき》は見つからなかった。患者の血液、尿、髪の毛、死亡者から摘出された内臓器など、あらゆるものが生検対象になったけれど、微生物感染を裏付ける証拠は何も見出《みいだ》せなかった。患者の身体がガイガーカウンターに反応することもなかったし、薬物常習を臭わせる腎機能・肝機能障害もなかった。心理パニック説は学術的に看破されて、そしてテロ説は、どんなに疑いたくても物的証拠が挙がらなければどうしようもなかった。  手がかりのないまま二例、三例と死亡例が積み重なっていく。残りの六十数名も、朦朧・昏睡《こんすい》といった意識障害から回復せず、あるいは発作的な錯乱の繰り返しから抜け出せず、精神的に荒廃していく。そこに中枢神経系の障害の疑われる全身痙攣が加わるため、調査委員会は事故の原因を特定できないばかりか、被害者の病状すら特定できなかった。唯一、調査委員会が決断したのは、被害者を国内に十数カ所しかない「高度な生物的・化学的危機管理能力を備えた医療機関」に分担送致することだった。おそらくほとんどの医療機関にとってその高度な危機管理能力を試す最初の例となったはずだが、とにかくこれは、隔離政策だった。  二年後。調査委員会は中間報告を仕上げる。それによると——被害総数六十八名。事故当時瞭命館内及びその近辺にいたすべての人員。そのうち、事故後一週間の間に死亡した例が、四件。いずれも中枢神経系障害の疑われる症例。その後半年の間の死亡例は、七件。二件は痙攣重積による全身衰弱が原因と思われる、多臓器不全。あとの五件は中枢神経系障害の疑い。さらにその後の二年間で、衰弱死一件、中枢神経系障害の疑われる死亡例が五件。これで事故から二年間の死亡例は、十七に上る。  存命者は五十一。そのうち四名は昏睡状態。自律的な呼吸ができず生命維持装置に繋《つな》がれている。残る四十七名は、生命維持装置の必要こそないものの、そのほとんどがいまだに意識障害に苛《さいな》まれている。昏迷、朦朧などの続いている者が、十二名。彼らの意識レベルは、外からの呼びかけに対し、言語以外の方法で——身体の一部を動かす、などによって——わずかに反応する程度である。発作的な錯乱を繰り返す者が、十七名。こちらは二年にわたる発作の連続によって、精神的・肉体的に消耗し、統合失調症末期の様相を呈している。  意識混濁、傾眠程度まで回復した者が、十六名。彼らの場合、外からの呼びかけに対して、昏迷・朦朧の患者よりは明確な反応を示すが、しかしコミュニケーション能力は戻っていない。言語によっても、他の何らかの手法によっても、彼らとの意思疎通は不可能である。彼らは言葉を発しないし、理解もしない。稀《まれ》に何かを口走ることがあるが、意味のない、濁音の羅列のような奇声に終始する。コミュニケーション能力と同様に、記憶も破綻《はたん》している。長期記憶のテストで、被害者の慣れ親しんだ景色や人物像がスライドに写され、それに対する反応が調べられたが、情動的な反応の現れることは一度もなかった。短期記憶に関しては、彼らの意識状態からしてテストの実効性自体が保てない。  結論として、存命している被害者のほとんどが、精神的に荒廃し、かつてのパーソナリティを失い、朦朧とした世界に閉じ籠《こ》もっている。  被害者らは現在、当初の高度隔離施設を離れ、全国にあるいくつかの神経科・感染症専門の病院もしくは研究施設に収容されている。親族の面会も謝絶している状態なので、施設名を明かすことはできない。ちなみに、精神的・肉体的にある程度回復した例が、二件ある。彼らからは有効な情報を得ることができたが、内容が個人的なものになる上、彼らも依然閉鎖施設に収容されている状態なので、これも中間報告では詳細を差し控える——  結局、中間報告の内容は被害者の追跡調査ばかりで、事故原因の特定に関しては「今後も調査を継続する」に留《とど》まった。二年が過ぎてもやはり、「悪魔が通った」説以上に説得力のある話は、何もなかった。中間報告は全国紙の一面に「進展なし」の見出しで掲載された。十七人が死亡、五十一人が人格荒廃というすさまじい顛末《てんまつ》に、一時は世間も騒然としたけれど、話題がそれしかなかったのでそう延々と騒いでもいられなかった。やがて、牛丼とハンバーガーが一層安くなるという報道に食われて、「瞭命館パニック」は人々から忘れられていった。  そして、事故から七度目の夏が来た。  避暑地の空にも夏の太陽が昇って、雑木林には蝉の声が立ち込めていた。  長野県|上松《うえまつ》町、「国立結核・感染症研究センター、長野支局」。施設の扱うものが扱うものだけに、人里離れた山奥の、しかも県道から二百メートルも入ったところに、ようやく正門を構えていた。その鉄筋二階建ての研究施設から、さらに雑木林を百メートル分け入った先に、研究施設よりもひとまわり大きなサナトリウムが待っていた。研究所そのものは厚生労働省の直轄だったけれど、サナトリウムに関しては、文部科学省(旧文部省・科学技術庁)関係者の出入りの方が多かったし、施設の一部は文科省の予算によって改築されていた。  というのもここは、全国にいくつかある「瞭命館パニック」被害者を収容した専門病院もしくは研究施設のうちの、ひとつだった。  ちょうど東晃大学事例調査委員会が中間報告を発表した頃、調査委員の入れ替えが行われて、その際ここ長野支局出身の感染症専門家が委員に入った。彼は、「瞭命館パニック」被害者らの高度隔離政策が解かれるのを待って、患者の一部を自分の手元へ引っ張ってきた。もちろん、研究材料として使うためである。そのために、研究材料として扱いやすい被害者——比較的症状が軽く、発作的な錯乱もなければ生命維持装置の必要もないような被害者——だけを選別して受け入れる、という念の入れようだった。が、これまでがそうであったように、ここ長野支局でも被害者たちは研究者に何の情報も提供しなかった。支局の調査は三年に亘《わた》って続けられたけれど、結局最後は支局出身の調査委員が委員会を抜けて、研究活動は中止された。こうして、支局に収容された被害者らの研究材料としての価値は、ゼロになった。ついでに、治療法らしい治療法も見出せなかったし、七年も過ぎた今ではこれ以上の回復も見込まれなかったから、患者としての意味もゼロだった。「国立結核・感染症研究センター、長野支局」に収容された二十七名の被害者たちは、もはや誰からも期待されず、何の希望も見出せないまま、いつまで続くとも知れないターミナル・ケアに身を委《ゆだ》ねていた。  午後三時。サナトリウムの周囲には、ひたすら蝉が鳴き交わすばかりだった。裏庭に面した広いデッキに、馬鹿げた色使いのパラソルが幾つも立てられ、そこに二十数台の車椅子が並べられた。天気も上々だし、いい風も吹いているので、日光浴にしましょう、という支局研究員らの粋《いき》な計らいだったが、その研究員らは、車椅子を整列させてそのひとつひとつにお揃いの白い帽子をかぶせると、とっとと研究施設に戻っていった。  槌神《つちがみ》五月《さつき》は、デッキの隅の手すりに寄りかかり、車椅子の群れをぼんやりと見凝《みつ》めていた。  そこに日光浴らしい賑《にぎ》わいはなかった。爬虫《はちゆう》類の日光浴ですら、これほど気配を失うことはないというくらい、静まり返っていた。動く者は一人もいない。時々強い風が来て、白い帽子がいっせいに波打つのだけれど、悲鳴も歓声も上がらない。風に帽子をさらわれても、誰一人振り返りもしないから、きっとみんな自分が帽子をかぶせられていることすら知らない。もちろん会話はどこにもなくて……唯一、三つ隣のパラソルのふもとで、誰かが延々独り言を繰り返していたけれど、独り言では会話にならないし、よくよく耳を澄ませば「独り言」ですらなかった。解読不能な、妙な節を伴った濁音の群れ。異次元が混線してきたみたいな、意味のない何か。中間報告に記載された「奇声」だった。  その奇声も、長野の森に立ち込めた百万ほどの蝉の声に呑《の》まれて、デッキは古いフィルムのモノトーンのように静まり返った。派手な原色に染め抜かれたビーチパラソルばかりが、場違いに奇抜だった。  きり、と五月の背後に軋《きし》みが聞こえた。振り返ると、二十五台の合間を縫って、二十六台目の車椅子がデッキへ進み出た。合間を縫って、というよりは、左右を蹴散《けち》らしながら突き進んでくるのだけれど、どうせ蹴散らされて文句を返すような人間は一人もいなかった。二十六台目は、最後の車椅子をあさっての方向に押しやると五月の脇に陣取って止まった。小柄な初老の老人が、朗らかな笑顔で五月を見上げる。五月は笑顔を嫌って庭の芝生へ視線を逃がした。二十五台の車椅子は、二度と自分からは立ち上がらないであろう人々をあっちやこっちへ運ぶためのものだったけれど、この二十六台目だけは、乗り手が自分の意志であっちやこっちへ動くためのものだった。この老人は、七年前に東晃大学医学部第二研究棟を襲った「悪夢」から帰還を果たした、幸運な二人のうちの、一人だった。 「七年が過ぎました」老人が唐突に呟《つぶや》いた。  五月は無視した。ちょっと腕を組みなおし、不機嫌なため息をつく。七年前のことは、思い出したくなかった。思い出すとまた引きずり込まれるような気がするから……とすると彼女は彼女で、例の幸運な二人のうちの、二人目だった。  老人はちょっと声色を明るくして、続けた。「七年、というのがどういう意味かわかりますか?」  質問の意味すらわからずに、五月は老人を振り返った。 「西欧のおとぎ話によくあるストーリーです。未来を約束されたかのような、美しい少女が生まれる。光を持って生まれてきた、などといわれるタイプの子供ですね。それが、七歳のときに、黒い女にさらわれる。二人は黒い女の城で暮らす。百ある部屋のうちの、九十九は自由に使っていい。けれど、最後の部屋だけは絶対に踏み入ってはならない。六年間、少女は言いつけを守りつづける」  老人はちらりと、五月へ微笑んでみせた。 「けれど七年目、最後の部屋を開けてしまう」  で? と五月は小首を傾げる。 「その後のストーリーはまちまちです。部屋の中で、少女は黒い女が白くなっていく姿を見たり、あるいは黒い男たちを見たり、殺されたたくさんの子供たちを見たり……しかし少女が中で何を見ようが、七年の意味にはあまり関係はない。問題は、少女が七歳のときに連れ去られ、その七年後に最後の扉へ踏み込む点です」  五月の表情が暗くなる。なんとなく、老人が何を言いたいのかわかってきた。 「これは子供の生理学的な成長過程にぴったり合致する。子供が、言葉を操ることを憶《おぼ》え、前社会的な環境——ま、子供社会です——に参加するための準備を終えるのが、七歳。それから、一度獲得した社会性に大きな危機の訪れるのが——というのは、思春期における精神的・肉体的変容のことなのですが——、だいたい十四歳、七年後です。人の成長には、ほぼ七年おきの周期があるのです。おとぎ話は、その成長周期を感覚的に捉《とら》えていたのでしょう」  五月は庭へと向き直った。老人の言いたいことは、もう察しがついた。 「あの娘[#「あの娘」に傍点]は、今年で十四です」  もう察しはついていた、にもかかわらず、五月は微《かす》かに肩を震わせた。 「最後の扉[#「最後の扉」に傍点]を開く頃です」  最後の扉…… 「『もうひとつの世界』への扉です。忘れたわけではないでしょう?」  確かに。忘れるわけがない。その世界は、今も五月の目の前にある。二十五台の車椅子に並べられて、忽然《こつぜん》と静まり返っている……七年前、あの八月の瞭命館を、確かに「人ではないもの」が通り抜けた。そしてそこにいた六十八人を、「もうひとつの世界」へ引きずり込んだ。時間も、空間も、言葉の意味も、「わたし」という概念も、何一つ通用しないような、「もうひとつの世界」……あの、「化け物」の生まれた場所へ。 「……権藤《ごんどう》さんに警告を入れろ、と?」五月は気の進まなさげに尋ねた。「そうおっしゃるのですか?」  ひょい、と老人は肩をすくめた。「そんな事務的なことを言っているつもりはなかったのですがね。とにかく、あれから七年、あの娘は十四歳、目を醒《さ》ますには適当かと思ったものでね」 「勘、ですか」生みの親の勘、だ。 「いえ」生みの親は否定した。「そういうものは捨てました。あの娘の世界と一緒にね。忘れたわけではないでしょう? わたしは、わたしの中のあの娘を『切除』したのです」  切除、という言葉自体が、他の言葉から切除されたみたいに、冷たく研ぎ澄まされて響いた。 「もうわたしには、あの娘の世界を見ることはできない……それにしても、あの娘ももう十四なんですね」  ええ、と五月は虚《うつ》ろにうなずいた。 「美しくなりましたかね?」  五月は微かに表情を歪《ゆが》めた。まるで娘の成長に嫉妬《しつと》する生みの母のように、皮肉交じりに誇張する。「それはもう……化け物並みでしょう」 「化け物? それは違う」  ちらり、と車椅子の老人が表情を綻《ほころ》ばせた。 「右半球の[#「右半球の」に傍点]化け物、です」  三つ隣のパラソルに続いていた異次元の混線が、はたと止まった。  庭に、ぎょっとするような黒アゲハが迷い込んでいた。 [#改ページ]   We are such stuff   As dreams are made on.    (人は、夢と同じところから生まれてくる) [#地付き]——the TEMPEST, act IV・sc.1—— [#改ページ]  Alice in the right hemisphere[#「Alice in the right hemisphere」はゴシック体]     一、  二〇〇二年、八月。快晴、微風。  千葉県|多喜津《たきつ》市上高倉にある、通称「かみたかくらアカデミック・エリア」。隣接する木更津《きさらづ》市・富津《ふつつ》市との共同出資で造成された、「二十一世紀の知的財産を育《はぐく》む学術都市」。要は山を削って民営や国営の研究所を誘致しただけなのだが、このアカデミックなエリアの片隅に、「国立脳科学研究センター」があった。  設立六年。文部科学省直轄。国内研究者の残した脳研究に関する特筆すべき成果を収集し、検索しやすいかたちに編纂《へんさん》し、将来的には国内の研究者に広く利用してもらう予定、らしい。  センターに勤めて二年になる元看護婦、三谷直子は、この施設のいったい誰が国内の特筆すべき成果を収集しているのか、知らない。誰が編集しているのかも知らないし、将来的には、と呼ばれる将来がいつ来るのかも知らない。そうした作業は誰かがどこかでやっているのかもしれないし、結局やっていないのかもしれない。  とにかく、彼女にわかっているのは、この施設がとある不思議な少女を「管理」していて、彼女はその少女を介助するために雇われている、ということだけだった。  午後五時五十二分。シフト交代の時刻が迫っていた。三谷は少女を幽閉した巨大な鳥かご、通称「ドーム」に続く準備室へと入った。ドームへ進む前に身辺のチェックをしなければならない。ドーム内には、色のついたもの、あるいはピアスなど光を反射する装飾類は、持ち込めないことになっている。少女を刺激しないための措置、らしい。刺激するとどんな厄介なことが起こるのかは、知らない。腕時計を外し、棚に預けたところで、彼女は次の部屋へと進んだ。  準備室の次は、前室。一・五メートル四方程度の小さな部屋で、正面にはドームへ続く重い鉄扉が閉じている。取っ手をひと捻《ひね》りしただけでロックを解除する音が五つも六つも響き渡るような、馬鹿げたシロモノだ。おまけに遮音性が抜群で、ドーム内の音はこれっぽっちも漏れてこない。三谷は部屋の隅にクリップで吊《つ》るしてあるカルテを、手に取った。少女の今日の様子が記してある。「活動レベル」というわけのわからない項目に、「Aaa」と記入されていた。  トリプルA。最高レベルの警戒態勢だ。トリプルAが発動するときは、少女が最も「覚醒《かくせい》」に近づいたときであり、接触には最大限の注意が必要になる。が、三谷には、トリプルAの何がそんなに恐ろしいのか、さっぱりわからない。A評価の基準は、「閉眼時の脳波において、背景活動のθ派からα波への移行が見られ、かつ高電位徐波が散発的に現れる」状態。これに「三回/分以上の頻度で、やや自律的に四肢を動かそうとする傾向」が加われば二つ目のAが与えられ、「『指差し遊び』が見られ」はじめるとトリプルAとなる。ちなみにA評価の基準となる脳波は、健常な成人に照らすと「うとうとしている状態」に相当する。子供の脳波は成人のものより不安定なのでそのまま当てはめることはできないのだけれど、それでも「ようやく目を覚ましたような感じで」「四肢を無意味にばたつかせ」「ときどき妙な方角を指差し」はじめれば、それが少女の最も活発な状態であり、最も危険な瞬間だというのだ。  さっぱりわからない。いったい何を「最大限に注意」しろというのか。少女の活動レベルにはだいたい一ヶ月ごとの周期があって、月に一度はトリプルAがやってくる。三谷はこれまでに何度もトリプルAを経験したけれど、特に危険を感じたことは一度もない。二年も過ぎた今となっては、トリプルAが発動したからといっていまさら身構えることもなかった。  三谷はドームを封じた鉄扉の脇にある、真紅に塗られた仰々しいボタンを殴った。まるで核ミサイルでも飛び出しそうなボタンだったけれど、これは入室の準備が整ったことをコントロールルームに知らせるボタンだった。これを押して、しばらく待てば、ドームの封印が解除される。三谷は直立して待った。ちなみに……そう、Aの上にはSがある。スクランブルのS。Sの基準は、トリプルAに加えて、「少女が笑う」、そして「歌、あるいは喘《あえ》ぎ声のようなものを唱える」。三谷がこの施設に来て二年、というよりこの施設ができて六年、Sが発動されたことは一度もない。だから三谷は、少女が笑いながら歌うことの何がそんなに恐ろしいのか、さっぱりわからない。  とにかく、彼女にわかっているのは、この施設が不思議な少女を「管理」していて、彼女はその介助のために雇われている、ということだけだった。  ごん、と腹の底に響くような音をたてて、鉄扉がわずかに跳ねた。三谷は取っ手を握った。そういえば、今回のトリプルAは少し周期が短いかもしれない、なんてことを頭に過《よぎ》らせながら、三谷はひと捻りで六つのロックを操る重厚な取っ手を引き下げた。  コントロールルーム。  二十基を越すブラウン管と、Windows を表示する数台の液晶画面の並んだ、いわばモニターの小部屋だった。ブラウン管は、準備室や前室、ドーム内に設置された監視カメラと繋《つな》がっていて、液晶画面はPCを介してドーム内の端子へと繋がっている。コントロールルームは、ドームへ近づくことなしにドームを見張るための監視塔であり、最前線へ送り込まれる歩兵——看護婦——の行動を管理する司令塔だった。  午後五時五十三分。シフト交代の時刻が迫っていた。森嶋大は、今夜の相棒とともにコントロールルームへ入室した。前任の二人とおざなりな挨拶《あいさつ》を交わす。前任からカルテを手渡された。前の八時間に測定された、脳波、血圧、脈拍数、食事の有無と排泄《はいせつ》の有無、投与された栄養剤の量、投与されたジフェニルヒダントインの量、フェノバルビタールの量、そして、活動レベル。  トリプルA。  いまさら、特に驚くこともなかった。毎月一度は巡ってくることだ。森嶋はジフェニルヒダントイン、フェノバルビタールの投与量を再確認し、トリプルA時に投与すべきとされる基準量と一致していることを確かめて、カルテをデスクへ放り出した。  モニターの群れへ目を移す。半径十メートル、高さ十メートルの半球形の巨大な密室が、様々な角度に切り刻まれて、ずらりと並べられていた。そのうちの四つほどが、床に投げ出された白い塊を、それぞれの角度から捕らえていた。ワンピース、というか膝《ひざ》まで届くサイズ違いのTシャツを着せられた、華奢《きやしや》な身体に髪ばかりやたらと長い少女が、手足を乱暴に投げ出して、床にべっとり伏せていた。  アリス。  この施設の関係者は、ほとんどの場合、省略してAと呼ぶ。Aとアリスでは、省略というほどの省略でもないのだけれど、Aの方がしっくりくる。この少女を、「アリス」なんて人間的な名前で呼んでも、意味はない。この少女には、表情がない。言葉もない。隣に誰かがいても気づきもしない。およそ外の世界に興味など示さない。といって内なる世界が存在するようにも見えない。結局、何もない。ただひたすら、月の半分を眠り続けて、ときどきこうして目を醒《さ》ます。言い換えれば死なない程度に眠りつづける、それだけだ。文科省からこの施設に出向してきて三年、ついに森嶋は、この少女が人間には見えなくなった。名前で呼んでも、無駄だ。A、と記号で呼ぶ方が、似つかわしい。  ぐら、とAの身体が揺れた。腕をこねくる。肘《ひじ》の関節がありえないような方向へ捻《ねじ》れる。それがどちらへ捻れようが、少女がそれを気にすることはなかったし、たぶん自分に腕が生えていることにも気づいていなかった。結局、自分がこの世に存在することすら、知らないのだろう。とにかく、「三回/分以上の頻度でやや自律的に四肢を動かそうとする傾向」を確認した。森嶋はAを捕らえたカメラから視線を逸らした。  残りのほとんどのカメラは、何もないドームの一角をじっと睨《にら》んでいるだけだった。ドームは、少女の生活のすべてなのだけれど、中央に置かれた白いベッドと、外へ通じる扉以外、何もなかった。便器もなかった。どうせ少女は一人では排泄もできないし。浴槽もなかった。水の手触りや、飛沫《しぶき》の弾《はじ》ける音は、少女を刺激しかねない。色もない。刺激を避けるためドーム内はすべて白で塗りたくられている。音もなかったが、これはコントロールルームがドーム内の音を拾っていないためだった。まあ、拾ったとしても何も聞こえないだろうが。少女が声を発したことは今まで一度もなかったし、もし発したとすれば、それはスクランブル、Sに相当する緊急事態だ。  鉄扉の脇に看護婦が突っ立っている。少女への刺激を避けるため、長袖《ながそで》の白衣に身を包み、白いスラックスで膝下を隠していた。長い黒髪も白いキャップの中に収まっている。デッキシューズのゴム底が足音を殺し、口元に装着した白いマスクが表情を殺す。少女を刺激する何もかもが排除されていた。彼女は医療機器やタオル等の備品を積んだキャスターを脇に置いて、シフトの交代を待っていた。交代時には扉のすぐ横で待機し、すみやかに入れ替わることが義務付けられている。ちなみに扉は、内側から開くことはできない。内側には取っ手がないのだ。  コントロールルームにブザーが鳴った。前室にいる後任の準備が整ったようだ。コントロールルームの四人は、ちらと目配せして、うなずきあった。看護婦のシフト交代にはコントロールルームの前任・後任あわせた四人の確認が必要になる。そして、「一七・五八、シフト交代します」、コントロールルームの誰かがマイクに宣言する必要がある。この宣言は、ドームを監視するビデオに録音され、ビデオはしばらく保存される。一方でコンピューターには、マイクにスイッチの入れられた時刻が忠実に記録される。これも危機管理の一環、航空機にボイスレコーダーが備わっているのと同じ理屈だ。  封印解除のボタンが押された。コントロールルームの天井に、赤い警告灯が回転しはじめた。ドームが外の世界へ開放されるこの一瞬は、この施設にとって最も危険な瞬間だ。まあ、三年も繰り返せば「危険な瞬間」も「日常茶飯事」と大差なくなっていたが。森嶋は、再び少女を映したモニターへ目を戻した。少女はちょうど、三回/分を試しているところだった。ぐらりと肩が揺れて、潰《つぶ》れなおすみたいな感じで、少女は今度は仰向けに転がった。天上のカメラがその顔立ちを捕らえる。  均整。少女の顔立ちはぞっとするほどのシンメトリーの中に閉じ込められていた。ほとんど魔物のような美しさだった。  が、そこには恐ろしいほどの均整があるだけで、他には何もなかった。血の気はないし、視線に生気もない。紫色の唇は、白く乾燥してささくれ立ち、半開きのままぴくりとも動かない。圧倒的に失われているのは「変化」で、少女の顔立ちは美しい均整の中に完全に凍りついていた。顔立ち、というよりは、まるでからっぽの節穴だった。  三年前、はじめてこの表情を見たときには、森嶋はちょっとばかり打ちのめされた。こんな表情は見たこともなかった。なにしろ人の顔を見ている気がしない。「人」を感じさせるものは、何ひとつ見当たらない。何ひとつ見当たらないものだから、かえって何かとてつもないものを秘めているように思われたくらいだ。この表情の裏にはいったい何が隠されているのかと、森嶋は当初|怯《おび》えながらその顔立ちを覗《のぞ》き込んだ——モニター越しに——。が、三年で愛想も興味も尽き果てた。結局、その表情には何もなかった。というか、もともとそれは表情ですらなかった。  A、だ。  後任の看護婦が新しいキャスターを押しながらドーム内へ進入する。その背後で鉄扉が閉じ、ドームは再び封印された。  血圧、脈拍、呼吸数、脳波。シフト交代時に採取すべきデータを、三谷は黙々と掻《か》き集めた。  脳波測定時には少女に目を瞑《つぶ》ってもらわなくてはならないのだけれど、「目を閉じて」と少女に頼んでも無駄だった。少女が人間の言葉に反応することはないし、だいたいドーム内では一切声を発してはならない。どっちにしても、こっちでむりやり瞼《まぶた》を下ろしてしまえば、少女はしばらくされるがままになっているので、苦労はなかった。映画やドラマで刑事が死人を眠らす要領と、同じだった。  脳波測定、終了。すべてのデータは、壁の端子を介して、コントロールルームに送られる。ちなみに脳波は、右半球のデータだけを採取すればいい。なぜ左半球はいらないのか、知らない。三谷は少女を床に転がして、オムツを取り替えた。主食は栄養剤の点滴か、良くて流動食なので、オムツが汚れることもほとんどない。やってる間に少女の目が開かれた。そういうギミックの施された人形みたいなもので、その目で何かを見ている気配もなかった。三谷は二年、少女に付き添っているけれど、本当の意味で少女に見られたことは一度もなかった。その視線はいつも、何もない虚空を見凝《みつ》めるか、さもなければ何も見凝めないままただ開かれているだけで、残りの大部分の時間は閉じていた。  オムツ終了。少女を引きずり起こす。自分ではまるっきり起きあがろうとしないので、ぞっとするほど痩《や》せているくせにやたらとかさばる。少々荒っぽく吊《つ》り上げて、腑抜《ふぬ》けのような上体をベッドに寄りかからせた。ジフェニルヒダントイン、フェノバルビタールを経口投与する。この二つは、普通、てんかんの大発作のコントロールに使われる薬剤だ。どうしてそれがこの少女に必要なのかは、知らない。三谷は、少女の下あごを引っ張り出し、薬品を放り込み、ストローの先をねじ込んだ。蒸留水の入ったタンクの横っ腹を潰して、少女の喉《のど》に水を流し込む。少女はちょっと噎《む》せながら、視線をじっと三谷の眉間《みけん》へ向けていた。けれど三谷は知っている。その視線も、実際のところ三谷を突き抜けて、彼女の背後の何もない虚空で焦点を結んでいる。少女が三谷を見つけたことは一度もないのだ。  少女の背中を叩《たた》いて、げっぷをさせる。このとき、少女を正面から抱き上げてはいけない。少女に心臓の音を聞かせてはならない、という規則があるのだ。これについては、三谷は理由を聞かされたことがある。「心臓の音には、規則的な繰り返し——秩序の側面——と、その繰り返しのわずかなずれ[#「ずれ」に傍点]、揺らぎ——無秩序の側面——が存在する。規則性の中に不規則な要素が潜んでいる状態——こういうものは、アリスを強く刺激する危険性がある」。結局、理由を聞かされてもさっぱりわからなかった。とすればあとは言いつけに従うだけだ。三谷は、しっかり少女の背後に回って、げっぷを叩き出した。次、栄養補給。今日のように目を覚ましている場合は、流動食を経口で与えるのが普通なのだけれど、トリプルAの相手にそう長々と付き添うことは危険なので、点滴で済ます。少女の陶器のような二の腕に静脈を探し、サーフロー針を突き立てた。ぴくり、少女が振り返った。この痛みにはさすがに気づいたらしかったが、少女が振り返ったのは自分の腕ではなく、天井近くの何もない虚空だった。で、そのまま痛みのことは忘れてしまって、あとは呆然《ぼうぜん》と天井を見凝めるか、さもなければ何も見凝めていなかった。  針を固定し、少女の脇にキャスターを立て、栄養剤のパックを吊るした。これで、当面やるべきことは片付いた。三谷は少女のそばを離れ、少女から最も遠い壁際へと退いた。そこに突っ立って、少女の挙動を延々見守ることが、これからの数時間三谷に課せられた任務だった。活動レベルがBに留《とど》まっていたならば、三谷は少女を介助して歩かせたり、腕を引っ張り上げたり折り畳んだり、要するに筋肉を腐らせないための「運動」らしきものを施さなければならないのだけれど、Aになると必要以上の接触は禁物だ。  少女はぐったりベッドに寄りかかって、しばらくは動かなかった。白いドームは微動だにせず静まり返った。空調が低く唸《うな》りつづけていたけれど、これは四六時中同じ調子で唸りつづけるのだから、何も聞こえないのと同じだ。何もないし、何も聞こえないし、白しか見当たらない奇妙なドーム……この少女は、三谷が知っているだけでも二年、話によるともう六年、ここに幽閉されている。いい加減精神的におかしくなってもよさそうなものだ——もちろん、この少女に「精神」があるのなら、の話だが——。ずる、と少女の上体が滑って、そのまま床へ頽《くずお》れた。と思った直後、ぴんと左腕を頭上へ掲げ、虚空のあらぬ方角を指し示した。  指差し遊び。A評価の最後の基準だ。  言葉を憶《おぼ》えたての子供が、何かを指差しながら、その名前を口にする。その仕草に似てなくもなかったけれど、実際まったく別物だった。二年も相手をすればそれがまったく別物であることは明白だった。なにしろ、顔はまるっきり別方向を向いている。指がどちらを指し示しても、視線はとんちんかんな方角を漂うばかりで、見向きもしない。もちろん、何かの名前が呼ばれることもない。だいたい、指し示した先に名前を呼べそうなものは何もない。結論として、この動作のどこにも意味は見出《みいだ》せない。きっと、こういう作法を以前誰かに訓練されて——おそらくは、この奇妙な子供に「言葉」を教えてみよう、といった無駄な努力が以前にはあったのだろう——、その残滓《ざんし》がときどきこうして意味もなく少女を衝《つ》き動かすのだろう。  発作的に突っ張った少女の左腕は、誰にも相手されないまま、やがてぐにゃりとしおれて床に落ちた。また沈黙。と、唐突に、悪魔に操られたみたいな勢いで少女は上体を起こした。そのままひょっこり立ち上がる。介助して立たせようとしてもちっとも力を入れないくせに、自分ではときどきこうして立ち上がる。立ち上がってはみたものの、すぐに膝《ひざ》を笑わせてふらついた。ぺたぺた、あらぬ方角へとよろめいていく。顔があさってを向いているので、次はどっちに進むのやらさっぱりわからない。三谷は壁際を離れ、点滴のキャスターを引きずって少女の背後に付き添った。少女は、ぺたぺたぺた、五歩ほど勢いよくつんのめって、六歩目でついに足を絡ませた。ぺたりと床に正座して座る。で、ひょっこり虚空のあらぬ方角を指差し、視線は別のあらぬ方角を漂っている。  まったく、取り付く島もない。そのままぐったり床に伏せてしまったので、三谷は再び壁際へ退いた。  結局この娘、何者なんだろう? この施設に採用されて二年になる三谷は、その二年間何度も繰り返された質問を、もう一度試してみた。静まり返ったドームの壁際で、じっと少女を見凝めながら……体格は、小学校低学年、七歳、八歳。けれど、三谷が見凝め続けた二年間、恐ろしいことにこの娘はまったく成長していない。まあ、点滴が主食じゃ仕方ないのだろうけれど、これではいつから成長を忘れているのかわからない。子供じみた体格に、顔立ちだけがやたら大人びていて、それが推定年齢をますます混乱させる。愛想もへったくれもないこの少女は、ほとんど人間離れを感じさせるほど均整のとれた顔立ちをしていて、それはもう「かわいい」を通り越して、「美しい」のだった。  けれどその「美しさ」は、泣きも笑いもしない。この少女に表情はない。人間味すらない。お人形のような顔立ちのまま、死なない程度に眠りつづける、それだけだ……このセンターは、この少女のためだけに設立された。半径十メートルの巨大な「ドーム」が、この少女のためだけに建造された。音響メーカーも腰を抜かすほどの「遮音」が、この少女の何かを封印するためにドームに施された。この少女のためだけに、ドーム内のすべてのものが白に塗りたくられ、この少女のためだけに、たくさんのわけのわからない「規則」が用意された。そしてこの少女のためだけに、「国内研究者の残した脳研究に関する特筆すべき成果を収集し……」なんて嘘っぱちなプロジェクトに、国からの予算が投入され——まあ、この少女自身が「国内研究者の残した脳研究に関する特筆すべき成果」だったとしたら、確かに収集していることにはなるが……  ぎくり、と三谷は肩を跳ね上げた。  白いのか蒼《あお》いのかわからないようなドームの中央に、ありえない光景が展開されていた。  少女が、再び立ち上がった——ずっと見ていたはずなのに、気づかなかった。少女は左腕をすうと掲げ、ドーム内の一点を指差した——ずっと見ていたはずなのに、気づかなかった。  少女が確信を持って指し示す先に、三谷がいた。  あてもなく漂うばかりだった視線が、三谷を捕らえた。  少女がはじめて、三谷を「見つけた」。  そして、少女の顔に貼りついた魔物じみた均整が、砕け散った。 「……おいおい」  午後十八時三十一分。  同僚がへんてこりんなうめき声を上げるまで、森嶋はうっとり頬杖《ほおづえ》を突いて、「南フランスを旅してみたい」なんてことを考えていた。  同僚に肘《ひじ》でつつかれて、頬杖から——南フランスから——滑り落ちながら、森嶋は隣の同僚を振り返った。彼は正面のモニターの群れへ食い入っていて、照り返しで眼鏡のレンズが白く光っていた。その視線の先を追ってみる。  一基のモニターが、ドーム内の看護婦を捕らえていた……様子がおかしい。股《また》を不恰好《ぶかつこう》に開き、膝を折り、なんだか地震に堪《た》えるような姿勢で、なんとか立っている。上体はぐらぐら揺れていて……いや、震えている?  森嶋は別のモニターに別の景色を見つけた。Aがいる。突っ立っている。画面の手前にある何かを、まっすぐ指差している。顔もそちらを向いていて……それ以上のことは、カメラが天井近くから見下ろす角度にあるせいで、どうも判然としない。森嶋はモニターに突っ伏した。虹《にじ》色の走査線が数えられるほどに食いついた。少女の、濡《ぬ》れたように黒い長髪の奥を、覗《のぞ》き込んだ。  面食らった。  少女が笑っていた。  森嶋は腰を抜かしてふらついた。鈍器でぶん殴られたかのような衝撃だった。というのも、少女の笑顔……完璧《かんぺき》だった。これほど正確無比な、見た者を一撃で打ちのめしてしまうような笑顔は、森嶋は見たことがなかった。森嶋はその笑顔の見事さに——その笑顔の、笑顔すら超越したような見事さに——、食い入った。  ダイナマイト・スマイルだ——流行歌の文句ではない。自閉症や発達障害の子供に稀《まれ》に見られる、意味も脈絡もないのだけれどとにかく見事な笑顔のことを、小児精神科医がそう表現することがある。その笑顔は治療者の心を一撃で虜《とりこ》にする。そして治療者は、その笑顔が何を求めているのかもわからないまま、ただひたすら、その笑顔のために奔走することになる。その笑顔を守るためなら、すべてを投げ出しても本望なんて気持ちに襲われる。  ダイナマイト・スマイル。人を食う笑顔。それが炸裂《さくれつ》していた。  モニターの中で看護婦が半狂乱に陥った。顔を歪《ゆが》め、その歪みでマスクを弾《はじ》き飛ばし、大きく開いた口に何かを迸《ほとばし》らせた。が、コントロールルームには何も聞こえなかった。コントロールルームはドームの音を拾っていない。代わりに、PCの一基が落ち着き払った感じで警戒音を響かせはじめた。ドーム内に異常な音が発生すると、これが鳴る仕組みになっている。 「……Sだ」森嶋の相棒が、呆然《ぼうぜん》とPCを振り返った。「AがSを発動している……」  が、森嶋はPCの警戒音を振り返らなかった。AがSを、という相棒の絶句にも、振り返らなかった。彼はひたすら、モニターの片隅の見事な笑顔に食い入っていた。とすればもはや、彼のほうがその笑顔に食われていた。  看護婦の身体が、ぐにゃりとゴム人形のようにしなびて潰《つぶ》れた。と思ったら激しく突っ張り返し、反動でカメラの外へ吹っ飛んだ。別のカメラが、背後の壁に激突して頽《くずお》れる看護婦の姿を捕えた。彼女はそのまま床に潰れ、四肢を釣られた魚みたいに躍らせながら、半径二メートルの範囲にのたうちまわった。  相棒が泡を食って跳び上がる。どうしましょう、と森嶋へ泣きついてきたけれど、彼は相棒の泣きっ面を肘で突き返した。ドームのコントロールパネルへ飛びつく。封印解除のボタンを殴った。他のすべてのボタンが吹っ飛んでしまいそうな、尋常でない一撃だった。コントロールルームの天井を赤い光が走りはじめた。 「……森嶋さん? どうするんです?」  知ったことではなかった。森嶋はコントロールルームを飛び出した。  もし宇宙人と遭遇したら、きっとこんな感じなのだろう。  三谷はそんなことを考えた。目の前に立ちあがった少女は、三谷を指差し、三谷を見凝《みつ》め、そして笑っているのだけれど、それらが何を意味しているのかまったくわからなかった。相手が笑顔なのだからこちらも笑顔、なんてやり方が通じる相手のようには、見えなかった。  とにかく……Sだ。Sが発動しようとしている。その場合、……看護婦は、まず少女から離れる。そしてできるだけ扉の近くに待機する。そこでドームの封印が解かれるのを待つ。外の誰かが扉を開けてくれるのを、待つ。その間、必ず少女から目を逸《そ》らす。耳も塞《ふさ》ぐ。何も見てはならないし、聞いてもいけない。  そんな言いつけにどの程度のご利益があるのか知らなかったけれど、とにかく三谷は、言いつけに従った。従おうとした。  が、動けなかった。三谷はすでに、見てはいけないものを見てしまっていた。少女の笑顔は、実際のところ笑顔なのかどうかも怪しいようなシロモノだったのだけれど、とにかく見事で、見ないわけにはいかなかった。母性本能だか、帰巣本能だか知らないが、そういう名前のついた本能よりももっと深いところにある生々しい本能を、わしづかみにして、引きずり出してしまうような、そんな笑顔だった。三谷は、自分が何に衝き動かされているのかさっぱりわからないまま、とにかくその笑顔が、いとおしくて、悲しくて、惨めったらしくて、見捨てるわけにはいかなかった。見捨てたりしたら、呪われてしまいそうで、そういう意味では、怖いほどの笑顔なのだった。  確かにそれは、人を食う笑顔、だった。  少女は笑顔で三谷を釘《くぎ》づけにしたまま、ひた、ひたと進み出た。その笑顔から目の離せない三谷には、笑顔が迫るのだか、自分が笑顔に吸い寄せられるのだか、それすらわからなくて……悪い夢でも見ている感じ、なんて考えているうちに、その悪夢みたいな笑顔はもう三谷の鼻先に迫っていた。そして三谷の鼻先に、この二年、あるいは施設ができてから六年、ひたすら沈黙を続けていた少女の唇が、震えながら開かれた。  ——※[#濁点付き「あ」]・※[#濁点付き「う」、unicode3094]・※[#濁点付き「わ」]——  ※[#濁点付き「あ」]・※[#濁点付き「う」、unicode3094]・※[#濁点付き「わ」]……やっぱり、悪い夢か何からしい。なにしろ、何のことだかさっぱりわからない。が、その何だかさっぱりわからないものが、猛烈な勢いで、三谷の脳裏を駆け巡りはじめた。※[#濁点付き「あ」]・※[#濁点付き「う」、unicode3094]・※[#濁点付き「わ」]、※[#濁点付き「あ」]・※[#濁点付き「う」、unicode3094]・※[#濁点付き「わ」]、意味のないものが意味のないまま三谷の脳裏に空回りして、三谷の思考を粉々に破壊していくのだった。※[#濁点付き「あ」]・※[#濁点付き「う」、unicode3094]・※[#濁点付き「わ」]に続いて、似たような表記しようのない何かが次々と流れ込んできたけれど、三谷にはもうどうしようもなかった。同じものを一緒になって唱えるしかなかった。呪文《じゆもん》は次第にスピードを増し、つむじのように駆け上がって、それが摩擦でも起こすのか、視界に激しい稲光が走った。そしてつむじの向こうから、けたたましい炸裂音とも腹を震わす重低音ともつかない、壮絶なファンファーレがなだれ込んできた。  ああ、これが、「歌」、なんだ。 「歌」が世界を引き裂いた。異次元の大合唱のようなものが、ばりばりと稲妻を放ちながら、こちらの世界を打ち砕いた。「こちらの世界」を構成する、意味が、言葉が、「わたし」という概念が、ことごとく崩れ落ちて……その裏側から圧倒的な虹色が押し寄せた。 「無限」によって「永遠に」覆い尽くされた、圧倒的な虹色が、「こちらの世界」を引き裂きながら、その全貌《ぜんぼう》を顕《あらわ》した。  ——「もうひとつの世界」——  それは蝶《ちよう》だった。  百億ほどの真っ白な蝶が、虹色の鱗粉《りんぷん》を撒《ま》き散らしながら、世界を覆い尽くしていた。     二、  転がるような勢いで、森嶋大は階段を駆け下りた。  国立脳科学研究センターは、外から見る限り地上二階のこぢんまりとした施設で、半径十メートルのドームを収める余裕はない。ドームは地下に埋まっていて、ドームへ続く準備室へ入るには地下三階まで下らなければならなかった。  彼はその地下三階を目指していた。自分が何をしに行くのかは、知らない。とにかく、あの「笑顔」だ。あの、異次元から舞い降りてきたかのような、とびっきりの笑顔。まずはあれをこの目で直《じか》に拝まなければ、何もはじまらない。  館内に非常警報が鳴り響いた。時間外の技師・看護婦に応援を求めるサイレンだ。コントロールルームの相棒がスクランブルを発動させたのだろう。が、森嶋の知ったことではなかった。  準備室へ続く廊下へ降り立つ。カードキーで強化プラスチックの検問扉を開放する。短い廊下を駆け抜けて、準備室を封じた重い鉄扉を引きずり開ける。  はた、と森嶋の動きが止まった。  何か聞こえる。  前室の扉の向こうからだ。ということは、ドームから……馬鹿な。ドームには莫大《ばくだい》な資金を投じて徹底的な遮音を施したはずだ。それに、じっと耳を澄ましてみても、これといった何かが拾えるわけでもない。にもかかわらず、やっぱり何かが聞こえてくる。耳というより、頭蓋骨《ずがいこつ》を直接震わすような感じで。  森嶋は前室の扉へと迫った。ちら、と脳裏に奇妙な虹色が閃《ひらめ》いて、彼はくっ[#「くっ」に傍点]と歯軋《はぎし》りした。前室の扉を開く。狭い室内に、赤い警告灯が駆け巡っている。彼がコントロールルームで開放した封印は、まだそのまま放っておかれているらしい。森嶋はドームを封じた扉へ飛びつく。が、その手が取っ手に届く前に、またあの奇妙な虹《にじ》色が脳裏に閃いて、彼は空振りのままつんのめった、けれど……とにかくあの笑顔を、あれを、見なければ、あのとびっきりの……  やっているところに、両肩を背後から羽交い締めにされた。 「どうするんです? 森嶋さん?」  同僚の呼び集めた応援が、五、六人、束になって準備室に飛び込んできたのだった。 「ダメですよ、扉は開けられません。看護婦を救出するのはアリスのSが収まってからです」  看護婦? 何のことだかさっぱりわからなかった。  だったら中の看護婦はどうなるんだ、とか、もうどうにもならない、とか、そんな押し問答が森嶋の背後ではじまった。が、森嶋はそんなやり取りには耳を貸さなかった。貸していられなかった。なにしろ彼の頭には、例の、聞こえるとも聞こえないともつかない妙な何かが響き続けていた。そして、その聞こえるとも聞こえないともつかない何かは、森嶋の頭の中で、見えるとも見えないともつかないような光となって、ちりりと虹色を放っては消えていくのだった。まるで、ガンマ線が水を通過するときに放つといわれる蒼白《あおじろ》い閃光《せんこう》のように——その放射線を人が浴びると、水に満たされた眼球の中に、蒼い閃光が走るらしい——。そんな怪しい光——音なのかもしれないが——の向こうに同僚らのやり取りを聞いても、なんだか意味を感じなかった。雑踏のざわめきのように、遠くてとりとめのないものに聞こえた。自分だけ、別の世界に捕えられたような心地だった。  ちょっと待て、何か聞こえないか? と誰かが注意を喚起したけれど、それもやはり森嶋の耳には届かなかった。羽交い締めが緩まったのをいいことに、彼はぐいと前へ進み出た。封印扉の取っ手へ手を伸ばす。が、その手がぎくりと震えて止まった。  扉の表面から、ふわりと何かが現れて、森嶋の鼻先に舞った。  蝶だ。真っ白な蝶。それが鋼鉄の扉を貫いて現れた。  と気づいたときには、もうその姿は夢のように消え失《う》せて、あとには虹色の鱗粉が微《かす》かに棚引くだけだった。  前室と準備室に詰めかけた面々が、愕然《がくぜん》と言葉を失った。彼らもまた、森嶋と同じもの……かどうかはわからないけれど、とにかく何かを見るか、あるいは何かの気配に気づいて、言葉を見失ったらしい。仙人でも通ったみたいな静寂にかこつけて、森嶋は封印扉の取っ手に飛びついた。ひと捻《ひね》りで六つほどのロックを解除するその取っ手を、引きずり下ろした。内部の音を全て遮断する重苦しい鉄扉を、力任せに引っ張り出した。  とてつもないものが待っていた。それは森嶋が扉を開ききらないうちから、すでに隙間を縫って迸《ほとばし》り、前室の面々へ襲いかかった。森嶋は背後へ吹き飛ばされ、鋼鉄の封印扉も一気に解き放たれ、その裏側から……  百億の蝶が、濁流のようになだれ込んできた。  蝶の濁流は、金属的なけばけばしいフレーズを伴いながら、森嶋や同僚達の脳裏を貫いた。貫きながら虹色の閃光で彼らの思考を消し飛ばした。蝶に蝕《むしば》まれながら、彼らが目撃したものは、時間も、空間も、言葉の意味も、「わたし」という概念も、何一つ通用しないような、「もうひとつの世界」だった。     三、  参った。とんでもないことになってしまった。  コントロールルームに取り残された森嶋の相棒——下川徹は、目の前のモニターの映し出す景色に、愕然と立ち尽くした。  あのモニターやこのモニターに、人がぶっ倒れている。  ドームの中には看護婦がぶっ倒れている。前室には六名のセンター職員がぶっ倒れている。森嶋大——あの大馬鹿野郎は、まだコントロールルームのPCが警戒音を響かせているうちに、ドームの扉を開け放った。おかげで彼と、遅れて現れた五人のセンター職員が、どうやら中の看護婦と同じものに襲われた。今では狭い前室に折り重なって倒れ伏し、おまけに森嶋の頭がつっかえて、ドームの扉が開きっぱなしになっている。  で、最後まで立っていたドームの主——A、あるいはアリス——も、やがて床にぺたりと座り込んだ。これでモニターに動きはなくなり、PCの警戒音も途切れた。  ……にしても森嶋大、どういうつもりだったのだ? 「S発動中は絶対にドームを開放してはならない」というのに。だいたい「Sが発動した場合、コントロールルームの職員はその場に待機してSの停止を待つ」という規則なのだ。なのに、あの男、血相を変えて飛び出しやがった。ドームの鍵《かぎ》はかけなおしておくべきだったのかもしれない。けれど、まさか野郎がSの発動中に開けてしまうなんて思わなかったし、Sの停止を待ってからすみやかに看護婦を救出するために、開放したのだと思っていたし……  なんて、始末書の文面を推考していてもはじまらない。いちおうSは収まったけれど、まだ事態は収拾していない。下川は頭の中のマニュアルに次の手順を探した、けれど……どうもうまくいかなかった。実は、森嶋大がドームの扉を開放した瞬間から、なんだか頭がうまく働かなくなってしまった。脳裏にちらちら、妙な虹色が瞬くような気がして、それがひとつ瞬くたびに考え事がひとつずつ、うっかり消えていくのだった。同僚たちが次々とぶっ倒れていく様を見せられて、パニックに陥ったのかもしれないが……あの瞬間、何か不思議なものが聞こえた、ような気もする。その聞こえた何かがちらちら光るような気がして……いや、これじゃ聞こえたんだか見えたんだか、無茶苦茶じゃないか。  とにかく、マニュアルだ。マニュアルマニュアルマニュアル……その「マニュアル」という名前にも、いまいち現実味が感じられない。繰り返せば繰り返すほど、「マニュアル」が何だったのかわからなくなってくる。そしてまた脳裏に虹色が閃いて……下村はチッと舌打ちすると、背後の戸棚から分厚いファイルを引っ張り出した。思い出せないなら読むしかない。「S発動時」の項目を開く。読んでもやっぱり、どうにもピンと来ないのだけれど、とにかくマニュアルの指示通り、まずはマイクに「S停止」の宣言を吹き込んだ。一八・四三、S停止、一八・四三、S停止……六時四十三分? いつの間に十分も経過したんだ? 時間感覚もどうやら怪しくなっている。PCの警報音の停止からS停止宣言までのタイムラグを、始末書にどう説明したものか……なんて考えている余裕はない。マニュアルには次の手順が記されている。壁の電話をひったくり、事務室に一報を入れる。人的被害を報告。救急車を要請。容態は、「てんかん発作」——マニュアルにそう告げろと書いてある。消防にもそう告げるよう事務員に指示してから、下川は受話器を戻した。  さて、……本来なら、続いてドームが封印されていることを確認し、ドーム内に人的被害がある場合は、Aの活動レベルが1A以下に落ちたことを確認してから技師・看護婦が救出に入る、という手順になるのだけれど、Aはいまだに2Aレベルの活動を保っていておまけにドームの封印には森嶋の頭が引っかかっている。言わば、どうしようもない。で、そもそもS発動時には扉に触れないのが規定なのだから、「半開き」なんて事態に関してマニュアルが言及しているはずもない。誰かが森嶋の頭を蹴飛《けと》ばしに行くしかなさそうだけれど、AがいつまたSを再発するかわからないし、下川はコントロールルームから動けないし……  緩慢な頭であれやこれやと悩んでいるうちに、悩んでもどうしようもないような景色が、モニターの中に映し出された。  Aが——アリスが、幽霊のような足取りで、前室を捉《とら》えたモニターの中へ滑り込んだ。半開きの封印扉に点滴のキャスターを引っ掛けて、肘《ひじ》からサーフロー針が弾《はじ》け飛んだけれど、そんなものには目もくれないまま——だいたい、前室に倒れ伏した六人の大人たちにも、彼女は一瞥《いちべつ》もくれなかった——、やがてその白い影はモニターの片隅へと消えていった。     四、  午後六時を過ぎて、事務室に残っているのは西崎直美一人だった。  彼女も元看護婦だったけれど、ドームに直接関わる技師や看護婦としてではなく事務員としてこのセンターに雇われた。職員らのタイムカードや休暇申請や領収書をあっちやこっちへひっくり返すのが、彼女の仕事だった。今宵《こよい》もその残務に追われていたのだが、やっているうちに館内に警戒警報が鳴り響いた。隣接の宿舎から時間外の技師たちが駆けつけて、やがてコントロールルームから救急車の要請が飛び込んだ。で、今はこうして、センターの正面玄関前に出て、救急隊員の到着を待っているところだった。  今宵の残務は貧乏|籤《くじ》だったのかもしれない。西崎は、このセンターが「国内研究者の残した脳研究に関する特筆すべき成果」を集めているという建て前が、嘘っぱちなのを知っている。かわりに得体の知れない患者を一人、管理しているということも知っている。けれど、それまでだった。それ以上のことは、技師はともかく事務員には何も知らされていなかった。警戒警報がどういう事態なのかも知らないし、技師たちが泡を食って館内へ駆け込む理由もわからなかった。ただ、このなんだか知らないが厄介な事態がとっとと片付いてくれればいい、と願うだけだった。  やがて救急車のサイレンが、夕焼けに燃える「かみたかくらアカデミック・エリア」の高台へ登ってきた。センターの正門には周囲の研究施設から野次馬が集まりはじめていたが——なにしろ警戒警報はかなり景気良く轟《とどろ》いてくれた——、たいした数ではなかった。「学術都市」となるはずのアカデミック・エリアだったけれど、まだ研究施設より更地の方が目立ったし、国立脳科学研究センターの周辺は際立って何もなかった。多喜津・木更津・富津三市の目論《もくろ》みは、頓挫《とんざ》しかけているのかもしれない。  野次馬を押し退けて救急車が敷地に飛び込んできた。ロータリーを巡ったところで、けたたましいサイレンを止めて、停車する。機関員——運転士——を車内に残し、二名の隊員がストレッチャーを引きずりながら飛び出してきた。ここが要請の場所で間違いないか、手短な確認が交わされる。 「で、患者は?」 「下ですけど」 「下ってどれくらい?」 「地下三階」 「三階、なるほど、エレベーターの広さは?」おそらくストレッチャーが収まるかどうかを確かめているのだろう、が、 「エレベーター? ありません」  西崎の返答に隊員らは軽くずっこけたが、気を取りなおして、ストレッチャーを布製の担架に取り替えた。てきぱきと動く隊員らを眺めながら、西崎はちょっと困ってしまった。館内は、基本的に部外者は入れない。さらに地下フロアは、許可証か何かを持った人間でないと訪問できない。ましてやドームへの入り口のある地下三階は、強化プラスチックの検問が待っていて、センターの事務職員ですら立ち入れない。隊員らは担架を抱えていよいよ館内に乗り込んできたが、西崎は少し待ってもらった。事務室へ入り、コントロールルームに相談を入れる。後から入った技師たちが地下フロアにいるはずだから、そっちに聞け、と突っぱねられた。  電話の向こうの邪険な態度に臍《へそ》を曲げながら、西崎は隊員らを館内へ招き入れた。地下へ入るには、まず潜水艦の気圧室のような分厚い鉄の二枚扉を通過しなければならない。地下フロアで発生した音を地下に閉じ込めるための設備、らしいのだが、なぜそんなものが必要なのか西崎は知らない。実はエレベーターの不備も同じ理由なのだけれど、理由の詳細を知らされていない西崎にいわせれば、ただひたすら不便なだけだ。二名の救急隊員は、二枚扉をもの珍しげに眺めながら通過した。扉の内側には下りの階段が待っていた——上りは待っていないという、これまた奇妙な構造だった——。静まり返った階段を、地下三階まで下ってみると、階段の袂《たもと》に九人の技師・看護婦がたむろしていた。で、壁際に息を殺して縮こまっている。どうしたんです、という西崎の問いかけに、九人が九人顔を痙《ひ》き攣《つ》らせて振り返った。 「静かに。Aがドームから出てきてしまったんです」  と、小声で囁《ささや》かれても、西崎にはさっぱり事情がつかめなかった。  救急隊員が到着したこともあって、技師らは小声でどうしたものかと相談をはじめた。話によると、負傷者の救出に行きたいのは山々だけれど、どうやらAとやらが検問扉の向こう側に陣取っているらしい。で、そこまで移動してきたということは少なくとも2Aだから、接触はできない。といって廊下には、ドームのような監視カメラもないから、コントロールルームが1Aを確認することはできない。誰かが直接1Aを確認しなければならないのだけれど、それをやろうとすると2A状態のAに接触することになってしまって……  Aだか何だか知らないが、とてつもなく煮え切らない会議だった。待っているのも馬鹿馬鹿しくなって、西崎は一人階段を下り、ひょいと廊下を覗《のぞ》き込んだ。技師たちが泡を食って飛びついてきたが、彼女は彼らに素っ気なく教えてやった。 「寝てますよ」 「……寝てる?」 「女の子でしょう? ガラス扉の向こうで寝てます」  寸胴《ずんどう》なシャツを着せられた少女が、強化プラスチックの検問扉にべったり半身をもたせ掛けて、眠っていた。 「そのまま観察を続けて」技師の一人が西崎へ指示する。「もし何か動きを見せたら、こちらに合図して」  技師たちは、たっぷり五分、西崎に少女の監視を続けさせた。それによって彼らは「三回/分以上の頻度で、やや自律的に四肢を動かそうとする傾向」が認められないことを確認し、仕上げに全員で「1A確認」を復唱して念を押した。  で、ようやく一同は地下三階に降り立った。それから技師らは、九人揃って馬鹿げた差し足で検問扉へ忍び寄った。彼らはしばらく、ガラスにほっぺを押しつけて寝入っている少女の横顔を、近寄り難そうに見下ろしていた。それから誰かがカードキーで扉のロックを解除したのだけれど、そのときロックの発した微《かす》かな電子音にさえ、九人揃って縮み上がる有様だった。扉は、少女が寄りかかっていたものだから、ロックが外れると自然と手前へ開いた。そのままの勢いだと少女は廊下へ頭をぶつけてしまう。九人の技師らは、少女を派手に倒さないよう、じわじわと少しずつ扉を開いた。誰かが少女を支えてやればすむことなのに、誰も少女へ触れようともしないのだった。  ようやく扉が開かれ、少女は検問扉を遮るかたちでぐったり横向きに伏せた。やっと技師らの動きが速くなった。彼らは救急隊員を引っ張って、廊下の奥へと急いだ。看護婦が一人少女の見張りに残り、あとの二人の看護婦が少女の薬を取りに医務室へ駆けた。ジフェニルヒダントイン、たっぷりぶち込んでやれ、と技師が指示するのを西崎は聞いた。このままでは検問扉が閉じられないので、西崎が少女を動かそうとすると、技師からとてつもない剣幕で詰《なじ》られてしまった。  だったら何もしませんよ、と西崎はぶっくれて少女の脇に突っ立った。技師らの背中が準備室の鉄扉へと消えていく。やがてその奥でどよめきが起こる。救急隊員がレシーバーを使って、地上で待機している機関員に隊員の増援を頼んでいる。またどよめきが起こった。今度は悲鳴に近かった。心肺停止、という声が、どよめきに紛れて聞こえたような気がした。思わず、西崎は廊下の奥へ歩を進めた。  が、二歩目が動かなかった。動く前に、何かが彼女の足首へ飛びついてきた。  びっくり飛びあがって振り向くと、逆に、まっすぐ眉間《みけん》へ向けられた人差し指に見凝《みつ》め返された。少女が、何とも知れない曖昧模糊《あいまいもこ》とした表情を浮かべて、西崎を見上げていた。曖昧模糊ではあったけれど、この世のものとは思えないくらい、均整の取れたルックスだった。その魅力に惹《ひ》きつけられて、西崎は腰を屈《かが》め、小首を傾げて、どうしたの、と尋ねてみた。  途端に隣で悲鳴が上がった。見張りに残された看護婦が、少女と西崎の様子に気づいて、顔を痙き攣らせながら壁際へ飛んでいった。あんまり派手に痙き攣ったもので、かえって笑っているような顔になった。としてもとてつもなく醜い笑顔だったが。  ヘンな人。西崎は再び少女を見下ろす。するとそこには、看護婦の笑顔など比較にならない、とびっきりの笑顔が待っていた。  どうなっている?  どうなっているんだ? 最悪じゃないか!  下川徹は狭いコントロールルームに、頭を抱えて立ち尽くした。  十八時五十二分、救急隊が到着した。事務所からの電話で確認している。それから、何に手間取ったのか知らないが、約八分後、彼らはようやく技師らとともに準備室・前室へ入った。監視カメラでその様子を確認している。彼らは前室で倒れた技師らをあっちやこっちへ転がしていたが、そのうちやおら慌しくなった。救急隊員が、森嶋大の身体に飛びついて、その口元に顔をうずめた……呼吸の有無の確認? あるいは、人工呼吸? もう一人の隊員は、ドーム内に進入して、こちらもドーム内に倒れた看護婦へと慌しく飛びついた。  それが、ある瞬間、みんな揃って吹っ飛んだ。  もんどりうって、醜いまでの痙攣《けいれん》に襲われはじめた。  無音のモニターに、ぞっとするような景色が展開された。コントロールルームのPCが、再び無慈悲な警戒音を響かせた。そして事態を呆然《ぼうぜん》と見凝める下川の脳裏へ、再び何かが押し寄せた。きらきらと、金属的に反射する、奇妙な虹《にじ》色。それがじわりとコントロールルームへ紛れ込んで、下川の視界に——あるいは脳裏に——ちらちら光を投げかけた。きらきら星に取り囲まれながら、彼はしばらく呆然と立ち尽くした。  ようやく我らしい我を取り戻し、はたと時計を確認すると、もう十九時十三分になろうとしていた。  そうして彼は、モニターの中にさっきの二倍の被害者を見つけ、おっかなびっくりモニターからあとずさり、頭を抱えて立ち尽くしたわけだった。しかも、すでにA——アリス——の姿はどのモニターにも見当たらない。こうなるともうコントロールルームでは捕まえようがない。それに、二度目の虹色は——虹色、というか、色のような、音のような、不思議な何か——、今度こそ確かにコントロールルームへ飛び込んできた……Sだ。アリスのS。聞いてはならないアリスの歌。それがこのコントロールルームでも、確かに聞こえた。この地下フロア全体が、ドームほどではないにしても、かなりの遮音を施されているにもかかわらず、だ。そしてこのコントロールルームは、もしもの際の避難場所として、ひときわ厳重な遮音が施されているにもかかわらず、だ。  Sだ……全部貫いてここまで飛び込んできた。とすると、もしかしてすでにこの施設全体が……下川は事務室に電話を入れてみた。事務所は地上フロアにある。地上フロアと地下フロアの間にも、これまた相当な遮音が……誰も出なかった。下川は携帯を取り出し、同僚の技師・看護婦らの番号を、知っている限りあたってみた。この建て物は、地下フロアからでも電波の飛ばせる小粋《こいき》なモバイル環境になっているはずだ……が、連中は携帯を持ち歩いていないか、さもなければ出られない状態にあった。  二度目のSのときには、時間外の技師・看護婦らも地下フロアに集結していたはずだから……もしかすると、館内で動けるのは、もう下川一人なのかもしれない。  彼は再度マニュアルをひっくり返した。が、どうやらそこにはこれ以上ためになる話は残っていなかった。さらにややこしいことに、必死に覗き込むマニュアルの紙面に、ちらちらといたずらな虹色が飛び込んでは、下川の必死をからかうのだった……Sだ。その残響、あるいは残像、なんだか知らないがとにかくいまだに下川の脳裏に棚引いている。光がひとつ瞬くたびに、自分が何をやっているのか、わからなくなる。頭の芯《しん》がきりきりと痛い。何かがきりきり軋《きし》んでいるような気がする。きりきりが、彼の視界で虹色に弾《はじ》けて……それが彼には、何かに見えた。よく知っている、何か。虹色を棚引かせながら、ひらりと風に乗っていく、ガラス細工のように繊細な、四枚の翼……  ……蝶《ちよう》?  蝶が見える……  呆然と、コントロールルームを見渡す。二十数基のモニターが、しんしんと静まり返っている。そのしんしん[#「しんしん」に傍点]は、頭の中の残響のようにも聞こえて……で、蝶? 蝶だと? この地下フロアに? 遮音の施されたコントロールルームに? こんなところに蝶なんか……  いるはずがないのだけれど、確かに蝶は、視界の先とも脳裏の片隅ともつかないどこかに、ふわりと現れては、ひらりと消えていく。  ……Sだ。どうやら本格的にヤバくなってきた。  ばた、とマニュアルを閉じる。裏表紙に電話番号が載っていた。特にどういうときに使えとは書かれていないから、もうどうにもならないときに使うべき番号だった。下川は震える指で、携帯にその番号を打ち込んだ。  文部科学省を呼び出した。     五、  ちょうどその頃。  赤紫の西日を浴びた国立脳科学研究センターの正面玄関に、二台目の救急車が到着して、さてどうしたものかと困り果てていた。  なにしろ、「被害多数、中枢神経系障害の恐れあり、応援求む」の声に応《こた》えて駆けつけたのに、誰もいない。正面玄関は静まり返っているし、正面玄関奥の事務室はカラだし、呼びかけても誰も出てこない。最初の救急車の機関員に事情を尋ねても、本部に連絡を入れようとしたら云々《うんぬん》、と口籠《くちご》もって、あとは両目をしばたたかせるばかりで、どうも判然としない。正門前に野次馬が集まっているのだけれど、これがまた、よくわからない。野次馬のわりには、やけにぽかんと静まり返って、野次馬らしい景気の良さはどこにもない。彼らに事情を尋ねても、やっぱりすぐには返事が返ってこない。やっと聞けたと思ったら、十分ぐらい前に警報が鳴って、と告げた後に自分の腕時計を覗《のぞ》いて、おっかなびっくり三十分前に訂正する。  誰も彼も、警報というよりUFOにでも遭遇したかのような、虚を突かれたたたずまいなのだ。で、そのうち野次馬たちは、建て物から何か聞こえたとか、聞こえないとかやりはじめて、そのうち一人が、 「聞こえた、聞こえた、きこえた、キこえタ、きコエタ……」  無意味に繰り返しながら、不気味な夕焼け空の下、くらりとよろけてぶっ倒れてしまった。  ……ヤバい感じだ。先に入った隊員たちは、中枢神経系障害の恐れ、という言葉を使っていた。センターの建て物は、赤紫の西日に包まれて、忽然《こつぜん》と静まり返っている。聞こえるのは周囲の更地で鳴き交わす秋の虫ばかりだ。二台目の隊員たちが迷っているうちに、三台目、四台目の救急車が列をなして到着した。五台目が現れたところで、隊員らは意を決した。まず、野次馬に付近から離れてもらう。それから、警察に通報する。四名の機関員には、警察が来るまで付近の整理にあたってもらう。そして残りの八名で、館内の捜索に当たる。  十九時二十七分。  都立第一女子医科・歯科大学、神経生理学科大脳生理学研究室。担当教授の槌神総一郎が、院生らの博士論文の進行状況に目を通していたところに、携帯の呼び出しが割り込んだ。  相手は、文部科学省科学技術・学術政策局計画官、現「東晃大学事例調査委員会」担当、権藤勲班長。とするとその電話は、都立第一女子医科・歯科大学神経生理学科教授にあてたものではなかった。東晃大学事例調査委員会・現委員長にあてたものだった。 「アリスがSを発動したようです」  がたん、と槌神は椅子から立ちあがった。  受話器にあれこれと状況説明が続いた。多喜津の施設では、単にSが発動しただけではなく、同時に何かややこしいことも起こっているらしい。が、槌神はまるっきり聞き流した。携帯をデスクに放りだし、背広に片袖《かたそで》を突っ込みながら同時にカバンへ書類を叩《たた》き込んでいた。 「要するに現場に行けというのだな?」 「いえ、とりあえず霞ヶ関の方に……」 「行けというのだな?」  槌神は携帯をたたんでポケットにしまった。これで、すべての身支度が整った。仕上げにちょっとネクタイを整えて、彼は教授室を飛び出した。学生たちの論文は、つけっぱなしのクーラーのそよ風の中に置き去りにされた。  救急隊員らは館内で地獄を見た。  地下二階までは何ともなかったのだ——まあ、地下へ下るための階段を見つけるのに、少々てこずったが——。問題は、地下三階。階段を降り立った途端に、まず二名の、看護婦らしき女性に遭遇した。二人とも周囲に医薬品をぶちまけてぶっ倒れていた。一人は意識|朦朧《もうろう》。隊員らの呼びかけに反応しなかった。もう一人は、全身を激しく波打たせながら床を跳ねまわっていた。その口元に血の筋が見える。舌を噛《か》み切っているらしい。危険な全身|痙攣《けいれん》の、重積状態だ——そういえば、最初の救急隊員らは「てんかん発作」の通報で駆けつけたはずだ——。幸か不幸か、看護婦らの周辺にはジフェニルヒダントイン——抗てんかん剤——が転がっている。が、静注のスピードには注意が必要だし——ジフェニルヒダントインの場合、速く与え過ぎると心停止を起こす——、痙攣重積の即効薬にはジアゼパムの方が適当だし、二度目の通報が「中枢神経系障害の恐れ」だったことを考えると闇雲に抗てんかん剤を投薬するのもどうかと思われて、結局、どれもこれも救急隊員の下すべき判断ではなかった。隊員としては、患者を担架に縛り上げて一刻も早く運び出すだけだった。  で、この二人ばかりにかまけている場合でもなかった。地下三階の廊下は、すぐにガラス製の検問扉に遮られて、その奥に再び廊下が続くのだけれど、恐ろしいことにその廊下のそちこちに誰かが倒れ伏したり、奇怪にもがいているのだった。まるでそこを、人を狂わす恐ろしい何かが通り抜けでもしたかのように……検問扉のすぐ裏には、女性が二人——一人は看護婦で、一人はどうやら事務員の制服を着ている——、ぐったりと潰《つぶ》れていた。少し進んだところに男性が一人。こちらは痙攣に襲われて廊下を跳ねまわっている。その少し奥にまた男性。壁に寄りかかって呆然《ぼうぜん》と天井を見上げていた。廊下の突き当たりには男が一人仁王立ちしていて、天井へ向けて、奇妙な、なにか濁音の羅列みたいなものをまくし立てていた。救急隊員らがガラス扉のこちら側から呼びかけても、まったく気がつかないので、どうやらこの男も尋常な意識状態ではない。彼の足元にはもう一人、男がうつ伏せに潰れていて、これでこの廊下に確認できる被害者は六人になった。  この廊下、検問扉に封じられていたのだけれど、幸い朦朧とした看護婦のポケットから身分証——兼カードキー——が発見された。検問扉を開放し、奥へ踏み込む。まずは、とにかく突き当たりの男の奇声がとてつもなく喧《やかま》しかったので——それはもう、黒板を爪で引っ掻《か》いたみたいな、神経を逆撫《さかな》でする何かだった——、隊員たちはこれから手をつけることにした。けたたましさに歯軋りしながら、床へ引きずり倒す。猿ぐつわで黙らせた頃には、逆撫でされた脳裏にちかちか光が飛んでいた。で、ようやく男を黙らせたところに、検問脇の二名の被害者を診ていた隊員が怒鳴った。  両名とも、心肺停止、対光反射なし。  次第に修羅場と化してきた。しかも修羅場はまだ終わらない。廊下の突き当たりには次の扉が待っていて、その奥ではどたばたと物音が響いている。扉を開くと、若い男がミイラのように顔を痙《ひ》き攣《つ》らせて暴れていた。男を廊下へ引きずり出し、二人がかりで取り押さえる。小部屋の被害者はこれだけではなかった。他に四人の男女が倒れ伏していた。四人とも、意識朦朧、混濁、あるいは痙攣——何らかの意識障害や中枢神経系障害の疑われる痙攣に襲われていた。ここまでですでに被害者の数は十三に上り、そのうち二人は心肺機能を停止させている。もはや八名の救急隊員でどうにかなる話ではなくなっていたが、まだ続きがあった。小部屋の奥に次の扉が閉じている。扉を開くと、再び小部屋。天井に赤い警告灯が駆け巡っている。戸口にいきなり二名が倒れていた。そして奥にまた二人。そのうち一人は、彼らと同じ救急隊員だった。もう一人の男の上に覆い被《かぶ》さって、がたがた痙攣に震えている。同僚の変わり果てた姿を見せられるのは、隊員らにはショックだったけれど、彼らは自制して同僚を抱え起こした。下の男は、鉄扉に頭を挟まれたまま心肺機能を停止していた。  で、男の頭のつっかえた鉄扉が、どうやら最後の扉だった。それにしても大げさな扉で、厚さが三十センチもある上に、二の腕ほどの太さの仰々しい蝶番《ちようつがい》に支えられていた。よほどの何かを封じ込めていたのに違いない。隊員らは——ら[#「ら」に傍点]、というか、そちこちで誰かを介助しなければならなかったのでもう二人しか残っていなかったのだけれど——、扉の仰々しさにちょっと気圧《けお》されながら、奥へ踏み込んだ。途端に、誰の残したいたずらなのか、戸口に待っていた点滴のキャスターをけたたましく蹴飛《けと》ばす羽目になった。その音が、広い空間に割れんばかりに響き渡る……そこは半径十メートルの巨大なドームの内側だった。そこではすべてが白に塗りたくられ、慣れない隊員らはとたんに目を焼かれた。うろたえながら室内を見渡したのだけれど、何もない。中央にぽつんとベッドがあるだけだ……しかし、こんな白ずくめの大部屋の、しかもど真ん中で、眠っていられるとしたらそいつはちょっと神経がおかしい。どっちにしてもベッドは空だった。ドームの片隅に、看護婦が倒れていた。今まで見てきた看護婦とは違って、全身を白い着衣で覆い隠し、ほとんど周囲の白にとけ込んでいた。その脇に救急隊員が倒れている。二人ともぴくりとも動かない。隊員がバイタルサインのチェックに走る。そして、ぎくりと身を退いた。  両名とも、心肺停止。対光反射なし。  二名の救急隊員は、蒼《あお》いドームに凍りついた。これで、心肺停止は何人目だったか……うち一人は、同じ救急隊員だ。こうなるともう、今いる人員だけではどうにもならない。これは「てんかん発作」なんかじゃない。中枢神経系のダメージが疑われる、意識障害。しかも頭に「集団」がつく。何らかの原因物質が拡散したと思われる、事故、災害だ。  隊員の一人がレシーバーを手に取った。地上の機関士と連絡を取る。消防本部へ、「特殊な災害現場での運用を目的とした最新鋭車両」を要請しなければならない。警察への通報にも、事態の緊急性を大幅に追加する必要がある。     六、  豪勢な黒タクの後部座席に身を沈め、腕を固く胸に結び、槌神総一郎はきりりと前方を睨《にら》んでいた。  比室《ひむろ》アリス。ついに目を醒《さ》ました。  月並みな言葉だが、「このときを待っていた」。  宵の口の東京をヘッドライトの列が流れていく。黒タクは渋滞を逃れようともがいていた。何度か槌神を運んだことのある運転手は、渋滞よりもむしろ槌神の癇癪《かんしやく》を恐れていたが、幸い今日の槌神はそれどころではなかった。  槌神総一郎。七年前の「東晃大学事例調査委員会」発足当時から委員に名を連ねる、神経生理学の専門家だった。調査委員会が中間報告を発表し、同時に委員の入れ替えを行った際には、見事委員長の座を射止めた——まあ、他に誰もその座を求めなかったわけだが——。この七年間、継続して委員を務めたのは、彼一人である。  だから、彼はすべてを知っている。中間報告の際に、文科省と調査委員会は公表すべき事実とすべきでない事実を選り分けたことを知っている。彼は、「瞭命館パニック」の秘められた真相を知っている。事故当事、そこに六十九人目の人間がいたことを知っている。その六十九人目が、パニックの震源であり、「化け物」であることを知っている。  既存の科学的知識では「化け物」には触れられない——だからこそ、初代の委員たちは槌神を除いてすべて辞めていったのだ——。それ以降に採用された委員たちは、どれも単なるカモフラージュに過ぎない。「瞭命館パニック」はいまだ謎であり、あらゆる科学的検証が今も続いている、ということを示すための、カモフラージュ。中間報告の際に「公表すべきでない」と判断された事実については、彼らは何も知らされていない。連中はせいぜい自分の専門範囲内でもがけばいい。槌神総一郎だけが、すべてを知っている。  ただひとつ、知らないのが、比室アリスの正体だった。  それが炸裂《さくれつ》させるといわれる、原始の笑顔——ダイナマイト・スマイル——を、槌神総一郎は見たことがない。  それが瞭命館の六十八名を吹き飛ばす際に解き放ったといわれる、「もうひとつの世界」というものが、槌神総一郎には理解できない。  六十八名を呑《の》み込んだといわれる、時間も、空間も、言語も、「わたし」という概念も、何一つ通用しない世界、というものが、槌神総一郎には想像もつかない。  結局、彼が得ているのは「情報」ばかりで、実体は何も知らないのだった。彼の目撃した比室アリスは、「抗てんかん剤|漬《づ》けで眠りつづけるお人形」に過ぎなかった。初代調査委員たちは、そのまま「化け物」を永遠に眠らせることに決めた。その実体を科学的に検証する、という試みを、放棄した。それほど恐ろしかったのだ。  が、目を醒ました。  ——見せてもらおうじゃないか、「化け物」の「化け物」たる由縁を——  もうひとつの世界、を。  黒タクは二十三区内を離れた。仕事を終えて房総半島へ脱出していくマイカーの列へ合流する。ということは、霞ヶ関はとっくに無視されていた。  槌神総一郎は、「かみたかくらアカデミック・エリア」を目指していた。  ちょうどその頃。  都内にある光凜《こうりん》大学医学部生理学科、「大八木微生物学研究室」助手、本間和輝は、狭い研究室に居残ってコンピューターと睨めっこしていた。彼は、研究室担当教授が製作中の論文の、基礎データ編集を言いつけられて、短い夏を棒に振ろうとしていた。 『川崎病患者における口腔《こうくう》内微生物の種類とそれに対する環境ホルモンの作用』が、大八木教授のテーマだ。川崎病はいまだ原因不明の疾患で、調査対象となった微生物も環境ホルモンも膨大な数に上る。その三年がかりで掻き集められた膨大なデータを編集しなおし、そこに何か特徴的な傾向を見出《みいだ》して、学術的に説明できれば論文は完成……なのだけれど、本間はそこまでやれとは言われていなかった。彼の役まわりは、集まったデータを整理し、編集し、特徴的な何かを見出すための下準備をこしらえたところで、終わりだった。ということは、完成する論文に彼の名前は載らない。彼はいわば、大八木の論文にボランティアで参加していた。  まあ、本間はそんなことを根に持つタイプではなかったが。  本間和輝は楽天的な人間だった。彼自身、自分の前向きな資質を努めて前に出すようにしていた。これにはちょっと理由がある。医師免許を取った後、彼は一度は臨床の現場を目指しながら、結局医局の研究室に鞍替《くらが》えした。こういう人間は、内向的で臆病《おくびよう》だと見られやすい。積極性や冒険性を旨とする彼には、こういう評価は耐えられない。研究室の彼は、「楽観性」を「積極的」に発揮して、それでけっこう成功していた。担当教授からは、能力よりも人柄によって愛されたし、その担当教授の助力で日本感染症学会の認定医になることもできた。ただし、その愛すべき人柄のせいで、自分の名前の載らない論文の為に一夏を潰《つぶ》す羽目に陥ったわけだが。  ——まあいい、こういう作業も、やってみればそれなりに、面白いところもあるわけだし、いつか何かに役立つはずだ——ポジティブ志向の本領発揮だ。  とはいえ、冗長なデータをひたすら切ったり貼ったりするうちに、さすがの本間も呆《あき》れはじめていた。いつか何かの役に立つ、かどうかは知らないが、とにかくこの作業には積極性や冒険心を発揮する場面はひとつもなかった。同じ手順を一万回ほど繰り返すだけの話だ。それでも楽天的に、よっしゃまかせろと請け負うのであれば……それは楽天的というよりバカなんじゃないのか?  とポジティブ志向に魔が差しはじめたところに、携帯の呼び出しが鳴り響いた。本間は携帯を取る。 「キミ、これから動けるか?」  藪《やぶ》から棒にそう尋ねられた。おかげで本間は、動けるかどうかを答える前に、あんたは誰だと尋ね返さなければならなかった。 「わたしだよ、わたし」結局相手は名乗らなかったが、声色と気忙《きぜわ》しい口調からして、どうやら担当教授の大八木だった。「キミ、原口先生って、憶《おぼ》えているか? わたしの昔の御師匠なんだが、実は先生、文部科学省関係で何とかいう名前の委員をなさっていてね。その委員会に召集がかかったらしい。明日にでも東京に来られるそうで……」 「出迎え、ですか?」本間は不満を隠さずに告げた。なにしろ、何とかいう名前の委員を務めるような権威的立場の先生の相手ほど、苦痛なものはない。 「いや。そういうことはわたしがやるが……」直系の弟子の口調にすら苦痛が漂っていた。「そうじゃなくてね、実は……ほら、先生は今山口におられるだろう?」 「でしたっけ?」 「こっちに来るには時間がかかるだろう? こっち方面で誰かに動いてもらうとしたら、うちしかいないらしくて……」 「動く?」本間は顔をしかめた。「何なんです?」  担当教授はしばらく、受話器の向こうで悩んでいた。やがて、絶対誰にも話すなよ、と念を押した上で、告げた。「キミには、千葉にある国立の研究施設に行ってもらいたい。そこで何かが起こったらしい。先生は、その何かに関係した委員会で委員をやっておられて……」 「何か何かって、先生、伏せ名だらけで何が何だかさっぱりわかりません」  しばらく沈黙が続く。本間の尋ねた「何か」を告げるには、少し覚悟がいるらしい。「……『東晃大学事例調査委員会』だ」 「東晃大?」 「憶《おぼ》えてるか? 六年前だか、七年前だか、東晃大学の研究施設で何かの漏洩《ろうえい》事故が起こって……」 「……なんとかパニック、とか呼ばれてたヤツですか?」 「『瞭命館パニック』。その原因究明にあたっているのが、東晃大学事例調査委員会だ」 「原因究明って、まだやってたんですか」 「『まだ』なんて言うなよ。先生はその調査委員会で委員をやっておられて、今も微生物感染の線から原因を探っておられる。その委員会に召集がかかった。千葉で似たような事例が発生したらしい……ああ、テレビなんかつけたって無駄だぞ。まだ表沙汰《おもてざた》にはなっていない」 「表沙汰にはなっていない?」そんな怪しげな話を、どうして私立大の研究室で論文データの編集をやらされているしがない講師が知らされなきゃならないのだ? 「わからんかな、キミ、千葉で、『瞭命館パニック』に似た事例が発生した。調査委員会にその連絡が入った。すると委員会の先生方は——そりゃ、感染症だけじゃなくて、化学《ばけがく》とか、薬学とか、いろんな専門家がいらっしゃるんだろうが——情報収集に誰かを現地へ走らすわけだ。イの一番に駆けつけて、パニックに襲われたばかりの患者の血とか建て物の空気とか、とにかく何かを手に入れられれば、そいつの勝ちだ。なにしろ、七年前の被害者らのデータは、もう散々引っ掻《か》きまわされて、いまさら新しいものは何も見つからん。それが見つかるとしたら、もう一度、同じ事が起こった際の、現場だ。早い者勝ちなんだよ。もうレースははじまっている」 「で、ボクにそのレースをどうしろと?」 「ところが先生は山口にいらっしゃって、部下を走らせたとしても明日になってしまう」 「それで、ボクを指名してきた?」  はは、と電話の向こうに笑いが響いた。「先生がキミなど憶えているわけがない。わたしに動けといってきたんだよ。しかしほら、わたしもけっこう忙しいのでね、キミに頼めないかと……」 「けど、ボクに何ができるってんです? まだテレビにも流れていないんでしょう? そんな現場、ボクが通してもらえるわけもないですし……」 「大丈夫だ。先生にはもうキミの名前を伝えてある。先生の方から、文科省の役人にキミの名前を伝えてもらう。キミは先生の代理、という立場になるわけだ。現地で文科省の連中を見つけて名前を告げれば、視察させてもらえるはずだ。あとは、建て物の調査に同行するなり、被害者を見せてもらうなり……やりながら、何かめぼしい物があれば全部かっさらってくればいい。それだけだ」  もう名前を伝えてある、ということは、どうやらすでに本間が行かされることに決まっているらしい。あまり気持ちのいい展開ではなかったが……「とすると、論文データの方はどうするんです? ずいぶん遅れることになりますけど?」 「そっちは心配ない」教授は自信たっぷりに請け負った。「先生の依頼の話は、二、三日でちゃっちゃと片付くはずだ。それからデータの追い込みに入っても、キミ、間に合うだろう?」 「……どっちも僕にやれ、というわけですか……」やっぱり、あまり気持ちのいい展開ではなかった。  とはいえ、だ。  かの有名な、『瞭命館パニック』——原因不明の集団パニックの現場に、真っ先に踏み込むチャンスが、転がり込んできたわけだ……積極性とか、冒険心とか言うのであれば、ここで尻込《しりご》みする理由があるか? 本間は電話の向こうの担当教授へ、千葉へ動く条件として編集作業を学院生と手分けできるよう取り引きを持ちかけながら——要するに、担当教授の足元を見ながら——、受話器を持たない方の手では早くも出陣の仕度をはじめていた。  さらに同じ頃。  国立脳科学研究センターに突入した救急隊員らは、地下三階で発見された十九名の意識障害患者——うち五名は心肺停止——を地上一階へとピストン輸送していた。さらに、館内に他に被害が出ていないか確認するため、数名を捜索に回した。ということは、何らかの原因物質が拡散している可能性のある館内に全員|留《とど》まったわけで、隊員ら自身が二次災害に襲われる可能性を覚悟しての行動だった。  隊員らは、心肺機能の停止した被災者から搬送することに決めた。今のところ救急車は五台しかないので、すでに呼吸を止めてかなりの時間が過ぎた被災者と、危険な痙攣《けいれん》重積に襲われている被災者と、どちらを優先的に処置させるかは難しいところだった。結局、単純に重篤度から判断したのだけれど、その優先させた五人を搬送しきらないうちに捜索チームから連絡が入った。  地下一階において、二十人目の被災者を発見。女児。隊員らの呼びかけに反応せず。朦朧《もうろう》、あるいは混濁程度の意識状態。ただしバイタルサインは良好。  隊員らの間で話し合いが持たれる。子供、という存在は、こういう災害現場ではドラマチックな効果を持つ。隊員たちの決心は早かった。この娘を最優先で病院に搬送すべきだ。幸い、意識障害の重篤度は他の十九人よりも軽い。何らかの原因物質が拡散した可能性のある館内にこれ以上留まらせて、症状を悪化させるわけにはいかない。  こうして、白い寸胴《ずんどう》なシャツを身につけ、腕に注射|痕《こん》を持ち、もしかしたら夜尿癖があるのかもしれない——なにしろオムツを着用していた——奇妙な少女は、これから搬送されようとしていた五人目の心肺機能停止患者——救急隊員だった——を差し置いて、最後の救急車へ運び込まれた。少女を乗せた救急車は、「かみたかくらアカデミック・エリア」の高台からふもとの上高倉町住宅街へと下っていった。それを見送り、再び館内での作業に戻った救急隊員らは、「子供の被害者」という現実に胸を打たれて、あるいはその女児のぞっとするような美しさに心を奪われて、しばらく作業に身が入らなかったという。     七、  午後二十時○八分。  文部科学省科学技術・学術政策局計画官、権藤勲が上高倉に到着した頃には、不吉なエメラルド色が立ち込め、そして現場にはちょっとした騒動がはじまっていた。国立脳科学研究センター周辺の更地を広大に取り囲んで機動隊の非常線が張られ——なにしろ「かみたかくらアカデミック・エリア」はほとんど虫食い状態なので、立ち入り禁止区域も好きなだけ取ることができた——、その内側に消防の特殊車両が殺到していた。非常線の周辺には野次馬やテレビクルーが集まりはじめていたが、非常線がやたら広く張られたおかげで、野次騒動を施設から遠ざけるのに成功していた。  権藤を乗せたセダンは野次馬を押し退けて非常線の内側へと進入する。空き地のひとつを駐車場がわりに、セダンはエンジンを止めた。権藤が後部座席の扉を開くのと同時に、斥候に送り込まれた権藤の部下が駆け込んで来た。同時に周辺警備にあたっていた警察官も駆け込んで来たけれど、部下が関係者であることを伝えて追い返した。 「状況は?」権藤は尋ねながら、部下へも警察へも目もくれないまま、すたすたと施設の正門へ突き進んでいった。 「なんとかウチで主導権を握ることができました」部下がその背中を小走りに追いかける。「警察と消防には、ウチの職員の技術的問題による事故、ということにして、『協力』してもらっています。警察は周辺警備をやっているだけですし、消防も、こちらが事実関係を掴《つか》むまでは、地下フロアには立ち入らないことになっています」 「にしては消防はやたら張り切っているようだが?」権藤は、センターを取り囲む塀の向こうに駆け巡っている、数え切れないほどの警告灯を見やった。 「ええ」部下は厄介そうに顔をしかめる。「連中、ちょっと苛《いら》ついてきてるんですよ。ウチが非協力的だからって。ま、一理あるんですけどね。この施設の責任者が誰なのかすら、はっきりさせられない状態ですから」 「だな」国立脳科学研究センターは、事務的には文科省研究振興局と科学技術・学術政策局の共同プロジェクトという手続きになっていて、いちおう両方の局に担当職員や「センター長」がいる。けれど便宜上名前を借りただけだったし、その名義の人間は普段霞ヶ関で別の仕事をしている。彼らが施設を訪れることはほとんどなく、それをもっぱらやっているのは「東晃大学事例調査委員会」の担当職員らだった。というわけで事実上の監督責任は彼らにあるのだけれど、「責任者出て来い」と言われて彼らが出ていってしまうと、この施設が「瞭命館パニック」に関わっていることがバレてしまう。といって研究振興局や科学技術・学術政策局の関係者を引っ張り出しても、何も説明できない。  施設には研究振興局、科学技術・学術政策局の若い職員が「技師」として常駐していて——医学部ではなく法学部・理工学部出身のエリート達だ——、その中にはいちおう「班長」もいるので、いっそのこと彼を「施設責任者」に祭り上げるという手もある。が、彼は彼で上から守れといわれた規則を守っていただけだし、自分がどんな「危険人物」を管理させられていたのかは知らないし、どっちにしてもSにやられて病院へ搬送されてしまった。結局、いったい誰がここの責任者なのか、責任者にすらわからないような状況なのだった。 「ま、そういうことはこれから大臣官房が決めるんだろう」権藤はあまり期待を込めずに呟《つぶや》いた。「で、被害は何人だ?」 「消防によると、二十三名」  がく、とつんのめるように権藤は足を止めた。「二十三?」声を裏返す。「二十三も?」 「そのうち五名は死亡が確認されています」  五名、と権藤は再び声を裏返そうとしたが、さっき裏返したばかりだったのできゅうと奇妙な喘《あえ》ぎが漏れただけだった。 「ええ、五名です」部下が繰り返す。「五名の死亡が確認されています。救急隊員が通報を受けて駆けつけたときにはすでに死亡していたと」 「すでに[#「すでに」に傍点]?」権藤は、喘ぐ喉《のど》からようやく言葉を吐き出した。 「ええ。救急隊員が発見した時点で……」 「死んでいた?」 「ええ」 「Sが発動して、救急隊が飛んできたら、もう死んでいた? 七年前だって最初の死亡例は十時間後だったんだぞ?」 「けど今回はもう死んでいたんです」部下は素っ気無く告げた。彼は権藤より一足先にたっぷり驚いておいたので、そろそろ開き直る頃だった。「うち一名は救急隊員です。コントロールルームの報告通り、Sは二度あったようで、最初に到着した救急隊員が二度目のSに巻き込まれたんです。それで消防も苛々してるんですよ。身内に犠牲者が出ているのに、ウチが自由に活動させないものだから……」  が、権藤は聞いていなかった。すでに[#「すでに」に傍点]、五人[#「五人」に傍点]、それだけが彼の頭に渦巻いていた……まるで七年前の、五倍の威力じゃないか。  ——化け物め、力ずくで眠らせたまでは良かったが、目を醒《さ》ましたらでかく[#「でかく」に傍点]なっていやがったか——  二人は国立脳科学研究センターの正門前に辿《たど》りついた。二人並んで踏み込もうとしたところ、消防隊員が備品を抱えて駆けつけた。防塵《ぼうじん》マスクに、ビニールの雨がっぱの上下、手袋、白い長靴……これらをすべて装着しないと施設の敷地には入れないらしい。二人が装備を着込んでいる間に、消防の男は権藤を管理職だと見抜いたらしく、ここの責任者は誰なのか、いつ事情が説明されるのか、いつになったら下の調査をはじめられるのか、矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。権藤が装備にかまけて無視してやると、やがて消防はあきれた風に肩をすくめて引っ込んでいった。 「死亡が確認されたものも含めて、被害者は全員市内の病院に搬送されています」消防の退散を見送って、部下が説明を再開する。「市立多喜津病院、野島第一医院、光世会総合病院。今夜のうちに二十三名全員を一箇所に集める予定です。その方がこちらで把握しやすいですから。とりあえず多喜津病院に集めて、そこからウチの指定した医療機関に動かしてはどうかと。それから、十名ほどの救急隊員が地下エリアに入ったのですが、彼らも多喜津病院に集めています。連中、『ドーム』を見てしまっていますし、そのことを消防に話されたら厄介ですから。幸い、彼らは彼らで『二次災害』を恐れています。『検診』名目で隔離すると、おとなしく従ってくれました……」  待ってくれ、と権藤は手のひらをかざした。防塵マスクの裏側で、悩ましげに顔をしかめる。「二十三、だったよな?」 「ええ、そうです、死亡者も入れて、二十三、です」 「この時間施設にいる職員は、事務員を入れても四、五人のはずだ。宿舎の技師や看護婦を入れたって、せいぜい十七、八のはずだぞ?」 「ええ。施設関係者が十七人。技師十一人、うち一人は死亡が確認されています。無事なのはコントロールルームにいた一人だけのようです。それから、看護婦五人、こちらは二名が亡くなられています。あと、残業していた事務員一人、これも死亡が確認されています。そして、最初の通報で駆けつけた救急隊員が、二度目のSに襲われて、三人。地下三階まで入った隊員二人と、外で待っていた運転士です。地下に入った隊員のうちの一人が亡くなられたわけでして。それと、最初のSの際の警報を聞きつけて、門の外に集まっていた野次馬が……」 「野次馬ぁ? 門の外の野次馬だと?」権藤は小首も声色もこれでもかというくらい裏返した。「それに、外で待っていた運転士?」 「ええ。運転士一人と、野次馬が三人。この連中はちょっとばかしふらついただけのようですが。全部足して二十三です」 「なんでそんな連中まで搬送されてしまう?」 「搬送されちゃマズいんですか?」  だから、と権藤は語気を強めた。「そいつらは施設の外にいたんだろう? まさか、アリスのSが、施設の外まで漏れたってのか?」  でしょう、と部下は軽くうなずいた。「残りの野次馬にも、いちおうウチの指示で病院に行ってもらったんです。野島第一医院。見たところ平気ですが、脳波を確認した方がいいでしょうし、どっちにしても外でべらべら喋《しやべ》られるのは……」 「とにかく、施設の外まで、アリスのSが、漏れたんだな?」 「外に漏れるのがそんなに不思議ですか?」  チッと、権藤は防塵マスクの裏側で舌打ちをした。「不思議どころか、驚異的だよ」 「でも、七年前もそうだったんでしょう? 瞭命館の外にいた人間にも、被害が及んだ……」  馬鹿を言え、と権藤は、防塵マスクをわざわざ外して部下へ直接|罵《ののし》り吐いた。「ここは『国立脳科学研究センター』だ。老舗《しにせ》大学の老朽化した施設とはワケが違うっ。ヤツのSを漏らさないためにどれだけ金をかけたと思ってるんだっ」  特にどれくらいとも思わないような感じで、部下はひょいと雨がっぱの肩をすくめた。「二度目のSはドームの外だったらしいですから、仕方ないですよ。野次馬が全滅しなかっただけでもマシなんじゃないですか?」  それはそうかもしれないが、しかし施設全体、ドームほどではないにしてもかなりの遮音を施したはずだし——やはり、比室アリスめ、七年前より明らかにビッグになっている——「で、比室アリスは今どうしている?」  はた、と部下の説明が止まった。 「どうした? どれくらい落ちついたか聞いてるんだ」 「それが……」 「まだ2A以上なのか? どうなんだ?」  どうもこうも、部下は忽然《こつぜん》と凍りついたまま、やがてどっぷり汗を噴きはじめた。 「……どうしたんだ?」権藤も部下の変容に気づいた。「あの娘はどうしている? ドームにいるんだろう? だから、消防を上に足止めしているんだろう?」 「というか……」 「というか?」 「いえ……問題はないと思います」 「何が?」 「問題はないと思うんですよ。すでに手は打ちましたから。もう数分で解決すると思うんですが……」  部下の言葉は要点を回避しながらぐるぐる回っている……ちら、と権藤の眉間《みけん》に癇癪《かんしやく》が走った。「何があった!」 「実は消防が二十四人目の被害者を搬送しているんです」部下は、口元の防塵マスクを外すと、二度目の雷が落ちる前に一気にまくし立てた。「二十四人目は、女児、間違いなく比室アリスです。連中アリスを外に運び出してしまったんです。しかし問題はありません。すでに手を打ってあります。車両をこちらへ引き返させるよう、消防本部に言ってありますし、受け入れを決めた病院にも何も触らずこちらへ戻すよう警告してあります。ですから問題ありません。そろそろ車両がこちらへ戻ってきます。消防への説明は難しいですが、とにかく戻って来次第ドームに放り込みます。救急隊員らの話では発見当時アリスは朦朧《もうろう》としていたそうです。活動レベルはB以下だったに違いありません。ですから、問題はないんです。すでに問題は解決しようとしているところでして……」  以下、部下の説明は「問題なし」の周辺を空回りし続けた。とにかく、要点は、「比室アリスは救急隊員の手違いで施設外へ運び出されてしまった」……  ふら、と権藤は背後へよろめいた。それから、どんな表情も取り繕うことができなくなって、くるり、とかっぱの背中を部下へ向けた。背中越しに、「……その救急車両は、あの娘をどこへ連れ出した?」、気も漫《そぞ》ろに尋ねる。 「……多喜津病院が搬送先ですから……」部下も、空回りを止めて、静かに答える。「ここのふもとの、団地をずっと下って、繁華街の方まで……」  権藤はかっぱ姿のまま正門前を離れた。公道を施設の外れまで歩いて行く。国立脳科学研究センターは、かみたかくらアカデミック・エリアの片隅にある。施設の外れはエリアの外れでもあり、そこから公道はふもとの市街地——上高倉町——へと一気に駆け下りていた。施設の外れに立つと、斜面を覆い尽くした建て売り住宅の群れ——「かみたかくらガーデニング・エリア」を、一望に見渡すことができた。湿気に蒸せた夏の夜空の下に、数万の光が瞬いている。夏も終わりに近づいて、子供の宿題をやっつけたり、やり残した花火をやっつけたり、そんなありきたりな幸福の群れだった。  そのどこかに、「化け物」が潜んでいる。 「……問題ありません」背後に追いついた部下が、申し訳なさげに繰り返した。「もうすぐ車両が戻ってくるはずです。それですべて、問題ありません」  部下の繰り返す「問題ありません」を、聞けば聞くほど、権藤の胸には暗雲が立ち込めてくるのだった。     八、  かみたかくらガーデニング・エリア。  ここ十年で急速に発展した住宅地で、多喜津市がアカデミック・エリアのプロジェクトと平行して進めた造成事業だった。とにかく役所は山を削って何かおっ建てる[#「おっ建てる」に傍点]以外に税収確保の手だてを思いつかなかったらしいのだが、ガーデニング・エリアはアカデミック・エリアと違って成功していた——あと数年で目標の居住者二万五千を達成するといわれている——。造成された斜面を四千五百の建て売り住宅が埋め尽くし、その群れはふもとの旧繁華街まで押し寄せ、繁華街は西へと下って東京湾沿いの工業地帯へ転がり落ちる。日が沈むと、その新旧造成地は、膨大な数の人工の光にびっしりと覆い尽くされた。  渡瀬春奈は、二階の自室の窓辺に頬杖《ほおづえ》をついて、海へと下る光の川をぼんやりと眺めていた。  ——燃えてしまえ——彼女は脳裏に、ぼんやりと、そう念じた。  そんな漫画をどこかで読んだ記憶がある。歯医者の待合室だったかもしれない。女の子が燃えてしまえと念じる。すると人口数万の街が一気に燃え上がる。悲劇のサイキック・ヒロイン。その後どうなったかは、忘れた。どうして燃えてしまえなんて念じたのかも、忘れた。とにかく、彼女が念じると、街が燃え上がった。  ——燃えてしまえ——  子供の宿題をやっつけたり、やり残した花火をやっつけたり、そんなありきたりな幸福の群れが、ちらちら瞬くだけだった。  はあ、と春奈はため息を漏らした。  渡瀬春奈。春に生まれたから春奈。今年で小学六年生。ということは、そろそろ「最後の扉」を開く年頃だった。最後の扉……開いてはならない百枚目の扉。西洋のおとぎ話が感覚的に捉《とら》えた、ヒトの成長における重要な局面。ヒトの成長七年周期説の、第二のピーク。思春期における、精神的・肉体的変容と、そこから生じるパーソナリティーの危機……  なんて屁理屈《へりくつ》を春奈が思いつくはずもなかったけれど、とにかく「自分」が奇怪に変貌《へんぼう》していくことだけは、彼女も自覚していた。募りはじめたのは、得体の知れない侮蔑《ぶべつ》と嫌悪と焦燥感……いつの間にか、若くて未熟な担任教師を馬鹿にするようになっていた——それは、彼女自身が自分の未熟さに気づきはじめたからかもしれない——。小市民的なみみっちい幸せばかりを追求する母親に、失望を覚えた——たとえば、ガーデニングとやらをはじめたり、「おしゃれな小皿」を手に入れるためにパンのシールを掻《か》き集めたり——それも彼女自身が、こっそりサイキック・ヒロインに憧《あこが》れたりする馬鹿げた自分に失望しているからかもしれない——。体型が崩れて汗まみれの白ダルマになっていく父親に、生理的な嫌悪を抱いた——それもまた、彼女自身の体型が血腥《ちなまぐさ》い何物かに変貌していくからかもしれない——。  今日だって、母親は宝塚だとかなんとかいって、とてつもなくめかし込んで東京へ繰り出していったのだけれど、春奈はその浮かれ気分が気に食わなくて泥でもぶっかけてやりたい心地だった——そしたらあの人[#「あの人」に傍点]はどんな顔をするだろう?——。父親は父親で、野球を横目にビールをかっ食らいながら、妻のいない夕べを楽しんでいる——あの不潔などて[#「どて」に傍点]っ腹[#「っ腹」に傍点]を蹴飛《けと》ばしてやりたい——。  で、結局そのどちらも試せないまま、春奈はすごすご自室に引っ込んで、窓辺の景色を呪っているのだった。  もうすぐ夏休みが終わる。勉強机の上には、夏休みの宿題の大半が、ちっとも手をつけられないまま、とっ散らかっている。あれをあのまま九月まで散らかしておくというのは、どうだろう? 街ひとつ燃やしてしまうのと比べると、ずいぶんちっぽけな抵抗だけれど。いっそのこと、九月から学校に行かない、というのは? そういえば、春奈のクラスには去年の春から学校に来ていない「お友達」がいる……いい加減、あの娘のことを「お友達」と呼ぶのはやめたらどうなんだろう? だって、「お友達」じゃないし。  なんて物騒なことを企《たくら》みながら、勉強机の脇に置かれた縫いぐるみの熊と睨《にら》み合う。熊はご機嫌そうに笑っていて……引き裂いてやろうかしら、と思ったけれど、思っただけで何もできなかった。だいたい、母親に泥をぶっかけもしなければ父親の横っ腹を蹴り上げもしない彼女に、お気に入りの熊を引き裂くなんてできるわけもない。  で、きっと九月になれば、毎日律儀に学校に通って、友達でもない誰かを「お友達」呼ばわりすることになるのだ。  ああ忌々しい[#「忌々しい」に傍点]っ——やっぱり、いっそのこと、なにもかも、燃えてしま……念じきらないうちに、けたたましいサイレンが割り込んできた。うるるうるると唸《うな》っている。道を空けろと怒鳴っている。おかげで付近一帯の飼い犬たちがあっちやこっちで喚《わめ》きはじめる。消防車のサイレンだ。なんだか夕方あたりから、しきりにこのあたりを駆け巡っている。上を目指して駆け上がっていく。春奈は窓から身を乗り出した。ガーデニング・エリアの頂きを見上げる。  びっくりした。こんなことになっていたなんて。山の上が真っ赤に燃えていた。  頂上付近に、消防車だか救急車だかの巡らす赤い光が、数えきれないほど集まっていた。それが湿気で蒸せた夏の夜空に乱反射して、山全体が燃え上がって見えるのだった。わあ、と思わず春奈は歓声を漏らした。二階から落っこちそうなくらいに身を乗り出す。火事かな? でも炎は見えない。それにあんな上には、民家はない。研究所だか何だかだけれど、子供たちにいわせれば、空き地がいっぱいあるにもかかわらずサッカーをしてはいけない場所、だ。そこが、人工の光で、赤く燃え上がっている。  わくわくしてきた。  もうひとつサイレンがやってきた。今度はずいぶん春奈の家へ迫ってくる。ぱーぷーぱーぷー笑っている。救急車だ。どうやらこれも上を目指している。もうすぐ春奈の正面へやってくる。そしてきっと、春奈の前を通り過ぎるとき、笑い声をちょっと悲しげに裏返すのだ——学校で習った、なんとか効果というヤツだ——、が……  やがて救急車は、春奈の場所からブロックひとつ挟んだ向かいの路地へと駆け込んで……一瞬、ちらりと、春奈の脳裏に妙な虹《にじ》色が過《よぎ》った。なに? と振り返ったそのとき、春奈は視線の先にとんでもない景色を見つけた。  ——……うそっ!——  路地裏に転がり込んだ救急車が、蝶《ちよう》の群れに襲われていた。  百億ほどの蝶の大群が、虹色の何かを棚引かせながら、救急車の背後に食らいついているのだった。まるで獲物を数にまかせて食い荒らそうとするかのように。さらに、その蝶たちが雄たけびでも上げるのか、この世のものでもないような奇怪なファンファーレが路地裏に響き渡っていた。蝶の襲撃を振り払おうとして、救急車は路地にスピードを上げた。リアがグリップを失って車体を左右に振り回す。けたたましいスリップ音とともに、路地裏にゴムの異臭がどっと溢《あふ》れた。そしてサイレンのぱーぷーぱーぷーは、誰かを助けにいく勇ましい掛け声というより、助けを求める絶叫となった。すべての音は、春奈の乗り出す窓の正面を通過した直後、絶望的なマイナーコードに転調した。救急車は自分の不幸を嘆きながら、右のブロック塀に衝突し、左の塀へ跳ね返され、しまいに路肩の電柱へ頭から突っ込んだ。ばこんと凄《すさ》まじい雷鳴が轟《とどろ》いて、春奈の家もみしりと揺れた。で、しゅう[#「しゅう」に傍点]う[#「う」に傍点]と何かを勢いよく吐き出したり、かんからから[#「かんからから」に傍点]と金属製の何かをぶちまけたり、ひとしきり物音を立てた後、静まり返ってしまった。  一部始終を見送ったところで、はた、と春奈は我に返った。  何だったのだ、今のは。  何だったのだ、今のは……百億ほどの、蝶の群れ。その蝶たちが喚いていた、異次元からのメッセージみたいな、奇妙な歌。それに、その寸前に脳裏に閃《ひらめ》いた、不思議な虹色……何だったのだ、と首を傾げてみたところで、とても理解できるような景色じゃない。おまけに、傾げる首の右左にも、まだちらちらと、虹色が瞬いては消える……何なんだ[#「何なんだ」に傍点]、こ[#「こ」に傍点]れは[#「れは」に傍点]。春奈は窓辺から立ち上がった。立ちあがった途端に、視界に虹色が迸《ほとばし》って、彼女はくらりとよろめいた。よろめきながら……蝶が見える。蝶が鼻先に閃いては消えていく。あるいは、鼻先どころか目玉の裏側、脳裏の片隅のどこかに……何なんだ、これは。春奈はちらちら、蝶を引き連れながら、部屋を横切った。薄暗い廊下に出て、階段を下る……わたし、どこへ行こうとしているのだろう? いまいち頭がはっきりしない。虹色が閃いては消えていくばかり。さっきの救急車みたいに、右や左の壁へ肩をぶつけながら、彼女は廊下を玄関へと進んだ。途中の居間で、父親がビール塗《まみ》れの床にのたうちまわっていたのだけれど、これっぽっちも気がつかなかった。そのまま彼女は、かちゃりと玄関を開放して、夜の街へと滑り出た。  そして彼女は、自分がどこに向かうのかよくわからないまま、ふらふらと事故現場へ足を向けた。     九、  とにかく、だ。  部下の説明を信じる限り、現在比室アリスを乗せた救急車がこちらへ取って返しているところなのだから、後は連中の頑張りに期待するしかない。それを待って、いつまでもこうして宵の口の住宅街を見下ろしていても仕方がない。権藤は動いた。センターの正門へと戻る。防塵《ぼうじん》マスクを装着して、施設の敷地内へと進む。 「どういう状況でSが発生したのか確認しよう」背後についてきた部下へ告げた。「コントロールルームの男は?」 「男は、下川徹、研究振興局情報課からの出向で……」 「プロフィールなんか訊《き》いておらん。今どこにおる?」  が、意外なことに、部下は肩をすくめて、さあ、と首を傾げるのだった。  権藤は行き交う消防隊員らの最中《さなか》に立ち止まり、部下を振り返った。「そりゃどういうことだ? どこにおるのかわからんというのか?」 「いえ、たぶんまだコントロールルームにいるんだと思うんですよ。けれど、ほら、コントロールルームは地下二階にあるでしょう?」 「だから?」 「だから、消防に下へ入らないよう言い付けている手前、我々も入れないんです」 「じゃ、まだ直接話も聞けていない?」  ええ、と部下はうなずく。  馬鹿馬鹿しい、と権藤は舌打ちした。「電話一本入れりゃすむことだろうがっ!」 「出ないんです」  ……出ない? どうなってんだ? と頭を掻《か》き毟《むし》ったところで、権藤は気づいた。そうか、施設の外にいた運転士や野次馬にまでSの影響が出たくらいだから、コントロールルームも……掻き毟った右腕で、そのまま頭を抱え込む。 「もういい。俺が下に入って見てくる」 「でも、消防の連中が階段の手前で頑張ってますよ?」 「何か適当なことを言って通してもらうさ。おまえは上にいろ。職員を何人か集めておけ。救急車が到着したら比室アリスを受け取って、とっととドームに放り込んでしまうんだ」  ひく、と部下は縮み上がった。「我々の手で、ですか? あのアリスを?」 「怖いか?」ぬ、と権藤は部下へ顔を迫らせた。「再処理工場で臨界が起こったときも文科省の連中が自分で冷却水を抜きに行ったんだ。おまえも覚悟しておけ」 「けれど……」 「施設の看護婦を呼んでおけばいい。どうしても怖かったら、まず看護婦にジフェニルヒダントインの緊急静注をやらせろ」 「施設の看護婦はみんなSで吹っ飛んじゃいました」  じゃ、やっぱり覚悟しておけ、と権藤は部下へ言い渡すと、まだ何事か質問をまくし立てる部下を無視して、センターの館内へ進んだ。  二十時二十一分。  アカデミック・エリアの非常線。事態を説明しろと詰め寄る報道陣と、知らないので説明できない機動隊員とが、険悪な感じで睨《にら》み合う人垣の中に、本間和輝の姿もあった。彼も、詰めかけた報道陣と同じで、非常線に足止めを食らっていた。本間はもう二十回くらい、こちらは関係者だと告げてみたのだけれど、機動隊員らは文部科学省がそれを確認しない限り通せないという。だったら文科省の人間を呼んでくれればいいのに、連中はちっとも動きゃしない。  困り果てていると、非常線周辺の人垣に悲鳴と罵声《ばせい》が上がった。人垣を押し退けながら、ヤクザか国会議員しか使わないような送迎用の黒タクが突っ込んできた。黒タクはそのまま非常線を引き千切る。「立ち入り禁止」の黄色いテープをぺらぺらと棚引かせながら、五メートルほど進んだところで、機動隊員らに取り押さえられて停車した。  ばん、と後部扉が開かれる。総白髪の大柄な男が、車内からすくと立ち上がった。男は、駆け寄る機動隊員らには一瞥《いちべつ》もくれないまま、更地だらけのアカデミック・エリアに吼《ほ》え上げた。 「ゴンドウ! ゴンドウはどこだ!」  喚きながら、そのままずかずか、脳科学研究センターへ向けて草ばかりの更地を下っていった。機動隊員らが、おっかなびっくり、どなたでしょうかとご機嫌を伺う。 「知らんのか! 槌神総一郎だ!」  ツチガミ……ソウイチロウ?  なんだか、どこかで聞いたような……大学関係者、だったように思うのだけれど、しかし同じ学会の人間からは、ちょっと思い出せないし……  一人で悩んでも答えは出そうにない。本間は人垣の合間にしゃがみ込み、携帯を構えた。大八木を呼び出す。 「槌神? 都立第一女子の槌神か? 神経生理学の? そいつは調査委員会の槌神だ。東晃大学事例調査委員会の、槌神総一郎委員長だよ。キミ、憶《おぼ》えてないか? 七年前のパニックで娘をやられて、それで原因究明に執着したとか何とかで、ちょっと有名になった……」  ……そうだった。第一女子だかなんだかは知らないが、最初の調査委員に被害者の肉親が入ったというニュースは憶えている。テレビ局はお涙|頂戴《ちようだい》に仕立て上げようとしたんだけれど、肝心の当人が、これが愛想もクソもなくて、「研究者として学術的に興味を覚えただけ」なんて言ってしまったものだから……  ヤクザか国会議員か、と思ったら大学教授だったわけだ。槌神総一郎はしばらく機動隊員ともめていたが、やがて身分が確認されたらしく、最後には解放された。で、さっき呼んでいた誰かの名前を連呼しながら、ずかずか更地を下っていく……これはチャンスかもしれない。  頃合いを見計らって、本間は生検用のサンプルを保存するクーラーを肩に引っさげると、非常線の下をくぐり抜けた。「先生! 槌神先生!」  思ったとおり機動隊員が飛んできた。本間は彼らへ、用意しておいたセリフを告げてやった。 「いえ、槌神先生が来られたものですから。だからわたし、文科省の人間に問い合わせればわかる、といったでしょう? じゃ、わたし先生のお世話をしなければならないので……」  それだけ一気にまくし立てると、機動隊員らの返事を待たずに、本間は更地を駆け下りていった。「槌神先生!」と呼びながら——けれど実際槌神総一郎に聞こえてしまうと「お前は誰だ」と言い返されてしまうので、相手に聞こえない程度に呼びながら。  権藤勲は、地下フロアへの階段の前で頑張っていた消防隊員らを説き伏せて——危険な被災現場に最初に入るのは文科省の人間でなければならない、なんて歯の浮くような犠牲精神を披露しながら——、地下フロアへと踏み込んだ。  静まり返った地下フロアの階段を、ひとり下っていく。消防は「警護」を申し出たけれど、その手には乗らなかった。それにしても……いつまでも連中をはぐらかしてはいられない。被害者の規模から考えても、いずれ何か説明しなければならない。どうしたものか……今のところ消防に伏せてある事実は、二点。ひとつ——ここで起こった災害が「瞭命館パニックパート2」であること。ひとつ——ここが七年前のパニックの「原因」を「管理」していたということ。最初の点に関しては、徹底的に伏せたければ、完璧《かんぺき》な嘘を編み出すか、さもなければ完璧に黙り込むかしかない。まあ、どっちにしても消防は、被災現場を調べようとするだろうが……すると連中は「ドーム」を見つけるだろう。この施設がただものではないことに気づくだろう。ひとつ目の秘密を隠そうとすると、二つ目の秘密が危うくなってしまう。どうしたものか……  ……いっそ、事態が「瞭命館パニックパート2」であることを宣言してしまってはどうだ? そして全権を、文部科学省「東晃大学事例調査委員会」で掌握する。事態が七年前のパニックの再来となると、どうせ消防には何もできない——七年前だって、何もできないまま科学警察研究所に頼って、結局旧科技庁に話が回ってきたのだ——。となれば、連中に被災現場を見せないまま、帰ってもらうこともできる。そう、この際、最優先で伏せるべき事実は、この施設に七年前のパニックの震源が管理されている、という点なのだ。それには、ひとつ目の秘密を犠牲にしたほうが、かえって好都合かも……  ま、最後は大臣官房の決めることだが、と責任を放り出したところで、権藤の胸ポケットに携帯が鳴った。部下からだろう。比室アリスが帰って来たに違いない。とすると、アリスを地下に入れるために消防の了解を取り付けるのも、またひと苦労だな、なんて考えながら携帯に出る。確かに相手は部下だった。そして誰かが施設に到着したという連絡だった。が、その到着した誰かが違った。比室アリスではなかった。槌神総一郎だった。 「なんであの男がこっちに来てしまうんだ!」権藤は静まり返ったフロアに悲鳴を上げた。「霞ヶ関に、と言ったはずだぞ?」  とにかく来てしまったものは来てしまったらしい。非常線で機動隊ともめて、それで部下のところに身分照会が入ったようなのだ。で、部下が身分を確認したものだから、槌神総一郎は検問を通過してしまった。もうすぐ脳科学研究センターに現れるだろう……で、何しに現れるんだ? あの男は「アリス」の存在を知っている。とすれば、今のアリスにはちょっとやそっとじゃ近づけないこともわかっているはずなのに。  さらに……これは少々マズい展開だ。槌神総一郎は、七年前の件で顔が知られている。娘をパニックにやられて、その敵討ちに調査委員会に入った、復讐《ふくしゆう》に燃える父親として——実際のところそんな情愛に満ちたキャラクターでもないのだが——。顔を憶えている人間がいるかもしれないし、そいつはその男の肩書きを思い出すかもしれない——東晃大学事例調査委員——犠牲にしたほうが好都合かと考えていたひとつ目の秘密が、勝手にバレてしまうわけだ。それもまた好都合、とはいかない。バレてしまうのとこちらから公表するのとでは、大違いだ。前者の場合、文科省による現場のコントロールが利かなくなる可能性がある。チッと権藤は舌打ちして、部下へ指示をまくしたてた。槌神総一郎を上で接待しろ。人目につかないどこかへ連れていけ。わたしが戻るまで時間を稼げ。それから、送り返されてくるはずの比室アリスを、奴には絶対に見せるな。あの男、人前で何を言い出すかわからん。あの男は、学者としてはそれなりらしいが、おかげで常識がない。気をつけろ、ときどき途方もなく子供じみたことをやらかすから……  と警告して、権藤は携帯を切った。どっとため息をつく。まったく、アリスが消えて槌神総一郎が現れるなんて、事態はどこに行こうとしているんだ? ところで、オレはどこへ行こうとしていたんだ?……コントロールルームだった。階段を地下二階まで下るだけで、すっかりくたくたになりながら、権藤はコントロールルームを目指した。     十、  静まり返っている。  下川徹は、静まり返ったコントロールルームの片隅に、膝《ひざ》を抱えて座り込み、そしてかたかた震えていた。  いつから自分がそうしているのか、もうとっくに忘れてしまった。文部科学省に通報を入れるまでは、なんとか自分を失わずにいられた。自分はこれから何をすべきだとか、自分はあのときああするべきだったとか、そういう自分にしがみついていられた。が、それからがマズかった。  通報が片付けば、後は待つだけだ。待つ間、上の人間にどう説明するか、文面をまとめておこうと思った。ところが、やっているうちに、するすると言葉が抜け落ちはじめた。練れば練るほど、自分の言葉に意味が見当たらなくなってきた。何度も冒頭に戻り、順を追って組み立てようとして、そして取りこぼした。気がつくと、自分が文部科学省に何を通報したのか、思い出せなかった。コントロールルームのモニター群には、奇怪に身体を捻《ねじ》って倒れ伏した人々が映し出されている。そこで何が起こったのか、下川は確かに知っている。ところが、じゃあ何をどう知っているのか、言葉にならないのだった。知っていることが言葉にならないなんて、一大事、なのだけれど、それすら言葉にならなかった。いったい何が一大事なのか、自分で自分に説明つけられないまま、下川はずるずるパニックに陥っていった。  彼はいわば、言葉のない世界へと、引きずり込まれていくのだった。  ……そもそも、ここはどこだった? 自分は、どうしてここにいる? そのモニターの並んだ小部屋は……「お馴染《なじ》みのあそこ」であることはわかる。けれど、どうお馴染みのどこなのか、まったく言葉にならない。言葉にならないものだから、お馴染みのあそこが、お馴染みのあそこのまま、得体の知れない何かに変貌《へんぼう》していく……  挙げ句の果てに……オレは、誰だ? 気がつくと、自分が誰で、なぜここにいるのか、それすら言い表せないのだった。わかりきったことだ、ということはわかるのだけれど……そもそも、名前は? オレの名前は?  名前すら、見当たらない。  名前の喪失は彼をパニックに陥れた。それ[#「それ」に傍点]を探して、彼は奇妙な部屋のあっちやこっちをひっくり返した。やっているうちに、どこのどっちをひっくり返しているのかわからなくなってきた。ざっと一瞥《いちべつ》で見渡せるほどの小部屋なのに、どこに何があって自分がどっちを向いているのか、振り向くたびに見失ってしまうのだった。それでも闇雲に探し続けたのだけれど、やがて、探しているそれ[#「それ」に傍点]が何だったのか、忘れてしまった。  こうして、誰とも知れなくなった彼は、見当もつかなくなった馴染みの部屋に、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。  ……これはヤバい。相当にヤバい。何かしようとするたびに、ぼろぼろ世界が壊れていく——何食わぬ顔で静まり返ったまま——。彼は動くのを止めた。動物的な直感で、これ以上動くと破滅する、そう感じた。彼は得体の知れない世界の片隅に、膝を抱えて座り込んだ。そうして何もせず、何を考えるのも止めてしまうと、もう自分がそこにいる気すらしなかった。恐ろしくて自分の膝にしがみついたけれど、それが自分の膝のようには感じられなかった。それは他の誰かの膝か、さもなければ膝だけが自分の膝で、しがみついているのが他の誰かだった……結局、誰がどこにいて膝がどこにあるのか、皆目わからないのだった。どうやら、動くのを止めたら止めたで、破滅はゆっくり忍び寄ってくるらしい。  やがてそれは、確かに忍び寄ってきた。  蝶《ちよう》。  虹《にじ》色の鱗粉《りんぷん》を棚引かせて舞う、不思議な蝶。  時間の途絶えたような「永遠」を、一羽、二羽、というか百億、要するに「無限」に舞い続ける、言葉にならない、何の感情も呼び起こさない、何の意味も感じさせない、おかげで「わたし」がそれを見ているような気もしない、ただ、誰もいない虚空を、誰にも見られないまま覆い尽くしていくかのような……  圧倒的な、蝶の群れ。     十一、  こちらも静まり返っていた。  すぐそこの路地裏で、あれだけのクラッシュが起こったのだから、野次馬だか何だかが飛び出してきてもよさそうなのだけれど、その街並みは信じられないほど静まり返っていた。まるで「街並み」でもなくなってしまったかのように……から、からと、つっかけの踵《かかと》を引きずりながら、渡瀬春奈は不思議な街をさ迷った。ちらちらと、妙な虹色を視界に棚引かせながら。なんだか夢の片隅にでもさ迷っていく心地だった。  夢見心地のまま、次の角を曲がってみると、その先に救急車がぶっ潰《つぶ》れていた。  救急車は、電柱を根元からへし曲げた上に、勢い余って半身を電柱へ乗り上げたところで、ようやく止まっていた。黒いタイヤ痕《こん》が、薄気味悪くうねりながらアスファルトを迷走していて、まるで引きずられた悲鳴をそのまま地面へ刻み込んだみたいだった。観音開きの後部扉が、右側だけ開いて、まだ衝突の衝撃が収まらないのか、風もないのに微《かす》かに軋《きし》んでいる。春奈は車両へ歩み寄った。救急隊のお兄さんが、ヘルメットの頭を奇天烈《きてれつ》に捻《ね》じ曲げて、原型を失った車内にパズルのピースのようにはまり込んでいた。その胸に、真っ白なシャツを着た、真っ白な肌の女の子が、真っ黒な髪を振り乱して、しがみついていた……まるで、死人の心臓を貪《むさぼ》り食うみたいに。  ふら、と少女が身体を起こした。心臓を……食い尽くしたのかもしれない。少女はそのまま、ずるずると隊員の胸を滑り落ち、やがてぺたり、素足でアスファルトに降り立った。春奈に横顔を向けて立ち尽くす。春奈はその透明な横顔を、濡《ぬ》れたような黒髪の隙間に覗《のぞ》き込んだ。その直後、つうと、こめかみから真っ赤な鮮血が流れ下った。その赤の強烈さにひくりと息を呑《の》む。その息を嗅《か》ぎつけられた。ぬ、と少女は春奈を振り返った。  これは——これはちょっと、ニンゲンじゃない——  とてつもなく美しい顔をしていた。しかもその美しい顔に、真っ赤な血が滴っているのだから、印象は強烈だった。けれど、その表情からは、何かが忽然《こつぜん》と抜け落ちていた。彼女のお気に入りの縫いぐるみが、命がなくても「笑っている」のとは正反対に、この少女、生きているのに何の表情もなかった。おかげでヒトと向き合っている気がしない。こんな表情の持ち主が、春奈と同じ赤い血を流すなんて、それすら信じ難いくらいだ。  不可解に静まり返った街角に、こんなものが待っているなんて……いよいよ、夢の片隅に迷い込んだ心地だ。  少女はぺたり、素足で一歩、春奈へ迫った。立ち尽くしても迫っても、ちっとも気配がないものだから、春奈は逃げることも思いつかなかった。やがて少女は、ふわりと柔らかに、春奈の胸へ抱きついた。その身体が微かに生暖かい……ということは、どうやら夢ではないらしい。なんてことを考えている場合でもなさそうだ。抱きつくまでは柔らかだった少女の動きが、抱きついた途端、一変した。背中へ回した両腕で、少女は強引に春奈を締め上げた。血の滴る額を、少女はしゃにむに春奈の胸へ押しつけてきた。きゅう、と春奈の肺から悲鳴が漏れる。お構いなしに、少女は春奈をさらに締め上げる。締め上げて、探し求める。やがて、見つけた。  心臓の脈動。  この瞬間——春奈は拘束の内側でもがいていたので気がつかなかったけれど——、少女の化け物じみた無表情が、砕け散った。  そして、少女の華奢《きやしや》な身体から、何かが猛然と迸《ほとばし》った。この世のものでもないような、とてつもないファンファーレ。その奔流に呑まれた瞬間、春奈の脳裏に、ぱっと虹色が飛び散った。けばけばしい虹色が春奈の脳裏を貫いた。途端に世界が震え上がる。虹色の閃光《せんこう》に縮み上がる。そして、震えて縮み上がりながら……  崩れ落ちていくのだった。  虹色が世界を打ち砕いた。春奈の世界が、春奈の見ている目の前で、ぼろぼろと崩れ落ちていった。見慣れた街並みから、「見慣れた」気配が崩れ落ちて、見覚えもなくなったと思ったら、「街並み」という呼び名すら奪われて、ついには虹色の彼方《かなた》に姿を消した。春奈自身もまた、いったい何が「春奈」なのだかわからなくなり、わたしは誰だと悩んでいるうちに、「わたし」が何だったのかすら見失われた。どこでもないどこかに「わたし」もいないような、圧倒的な空虚さが押し寄せて、あとにはただ、壮絶な虹色が立ち込めるばかりで……  その虹色を、蝶が覆い尽くしていた。  百億ほどの蝶の群れが、どこでもないようなどこかを、誰にも目撃されないまま、音もなく覆い尽くしていた。  その奇怪な何かが割り込んでくるまで、木原家には他愛ない日常が繰り返されていた。  長男の木原浩一郎は、居間のテレビを独占して、テレビゲームに熱中していた。山の聖霊の力を得るために「カイラス」と呼ばれる巨人を倒さなければならないのだけれど、どうやらそれにはまだレベルが三つほど足りなかった。攻略ガイド片手にとんとん拍子で話を進めたせいで、レベル上げを忘れていたのだ。というわけで浩一郎は、カイラスのいる聖山のふもとを徘徊《はいかい》して、野獣を見つけてはぶった切っていた。  一方家長の木原勇介は、カイラスだか野獣だか知らないがとにかくそんな異世界の連中にテレビを奪われて、読売ジャイアンツの中継ぎの調子を案じながら、朝刊をたたんだりひっくり返したりしていた。朝刊には、見たくもないような不景気な話題が満載されていて、それもまた二十一世紀初頭の日本における他愛ない日常の一ページだった。  母親の木原由佳里は台所で洗い物を片付けていた。彼女に言わせれば、カイラスも野獣もジャイアンツも不景気もすべて知ったことではなくて、とにかくこの「夏休み」という化け物が早く終わってくれることを願っていた。これ以上昼間の時間を子供たちに振りまわされるのは、耐えられない。  で、中二の長女——長男の浩一郎より四つ上だ——、木原早百合は、息子や父親のいる居間の片隅でピアノに向かっていた。このピアノが、木原家の他愛ない日常における他愛ない闘争の火薬庫となっていた。彼女はこの夏、ピアノ教師に言いつけられた課題曲の修練に必死なのだけれど、それを男どもがだらだらゲームを続けたりソファにふんぞり返ったりしている居間で続けなければならないのだった。中盤のテンポが変わるところでどうしても指が止まってしまうのだが、そのたびに打倒カイラスに燃える勇ましいBGMや、二十回めくった新聞をもう一度めくる乾いた音などが耳に入って、とてつもなく気に障った。四十回ほど同じパートでつまずいたところで、ついに早百合は練習環境改善のために立ち上がった。浩一郎へ、ゲームをやるならヘッドフォンを使えと言い渡した。ところが浩一郎は、振り返りもしないまま、早百合の最後通知を三回無視した挙げ句に、てめえのピアノは電気仕掛けなんだからてめえがヘッドフォンを使えと返してきた。これで早百合の堪忍が切れた。彼女は、演奏が上手《うま》くいかない忌々しさもあいまって、課題曲の楽譜を浩一郎のこめかみへ投げつけた。浩一郎がひるむ隙に、ずかずかと彼へ詰め寄り、ゲーム機のスイッチを切ってやると脅した。これには浩一郎も悲鳴を上げた。なにしろ、やっとレベルを二つ上げたばかりの彼にとってゲームのリセットは死活問題だ。セーブしてねえんだよぉぉ、とあまり緊迫感のない雄たけびを上げながら、彼は姉を迎え撃った。白兵戦がはじまる。父親は、いよいよ喧《やかま》しくなったらどちらかをぶん殴って黙らせればいい、なんてアメリカの大統領みたいなことを考えながら、紛争を無視した。台所の母親は、もちろん、夏休みという化け物が早く終わることを祈るばかりだった。  なんて調子でいつもの馬鹿騒ぎを繰り広げているところに、百億の蝶を引きずった救急車が駆け込んで来た。  突然、経済欄に目を通していた父親が、情けない悲鳴を上げた。彼の見ている前で、紙面に躍った不景気な記事の数々が、ほんの一瞬のうちに、解読不能な引っ掻《か》き傷の羅列に変貌《へんぼう》したのである。彼の悲鳴は、その引っ掻き傷の気味の悪さに総毛立っての悲鳴だった。彼はこの一大事を一家に報告しようとしたのだけれど、言葉が出てこなかった。新聞紙面と同じように、彼の脳裏からも、言葉が忽然と奪われていた。というわけで彼は、何を報告することもできないまま、愕然《がくぜん》とソファに凍りついた。  母親の方はもっと過激だった。救急車が妙なものを引きずりながら駆け込んで来た瞬間、彼女は濡れた手でコンセントに触れたみたいに跳ね上がった。そしてその救急車が、路肩の何かに突っ込んで静まり返る頃には、彼女は狭い台所にぶっ倒れてひくひくと奇怪に震えていた。  驚いたのは子供たちだ。自分たちの起こしたバカ騒ぎに、別のバカ騒ぎが割り込んできて、すると両親が壊れてしまった。父親はゴキブリでも見つけたみたいな悲鳴を上げたきり、あんぐり口を開いて動かないし、母親は床にじたばた暴れながら、収納の扉やレンジ棚をぽかんぱこんと蹴飛《けと》ばしている。そして姉弟は、取っ組み合いの途中のまま、何を巡っての取っ組み合いだったか、思い出せなくなってしまった。それでも子供たちは、両親に比べるとずいぶん正気な方だった。虚を突かれたような顔つきで、互いのことや両親のことを見渡すくらいの余裕はあった。見渡す以上のことは何もできなかったけれど。  しばらく、木原家の居間には、打倒カイラスに燃える勇ましいBGMが繰り返されるばかりだった。  そのまま約二分——二分といえば、もし誰かが救急車の事故を目撃して、その現場へ立ち寄り、そして被害者の誰かを胸に抱き寄せるとしたら、ちょうど二分くらいかかるはずだった——。その二分が過ぎた後、異常な何かの第二波が炸裂《さくれつ》した。第二波は、最初のものより格段に威力が上がっていた。父親は、もう口を開けたまま凍りつくこともできなくなって、がたがた[#「がたがた」に傍点]と気色の悪い身震いに襲われながら、新聞紙面に頭を突っ込んで頽《くずお》れた。惨めに震えることしかできなくなっていた母親も、その惨めな痙攣《けいれん》すら吹き飛ばされて、もうぴくりとも動かなくなった。そして子供たちは、蝶《ちよう》を見た。百億ほどの蝶の群れが、壁や窓ガラスを突き抜けて、木原家の居間へとなだれ込んできた。そして姉や弟の身体すら突き抜けながら、向かいの壁へと迸っていくのだった。蝶に蝕《むしば》まれながら、二人は世界の崩壊を目撃した。壊れてしまった両親が、誰だったのかさっぱりわからなくなった。勇者を勇気づける行進曲は、機械の放つ取り止めのない雑音に成り下がったし、課題曲の記された楽譜も、何を意味するとも知れない謎の象形文字と化した。ついには自分たちが何者なのかも見失いながら、二人はずるずる、床へへたれ込んでいった。  一方島崎家の二階の一室では、島崎千裕が夏休みの宿題をやっつけていた。  課題は、風景画。夏休みの思い出の一場面を絵に残せ、という趣向だった。四年生のときには、クレヨンで花輪を描いて上から黒い絵の具を塗りたくり、「花火大会」だと言い張って、どうにか乗りきった。が、二年続けて同じ手を使うわけにはいかないだろう。五年生にもなってクレヨンに頼っている場合でもないし。彼女は画題に、盆に訪ねた父方の祖国——四国——を採用した。グアムやセーフコ・フィールドを採用する経済的余裕は、島崎家にはなかった。  とはいえ、なかなか上手く描けないという意味では、南国土佐もグアムやセーフコにひけを取らなかった。千裕は、祖父の家の近くを流れていた川面《かわも》の風景を選択し、写真片手に画用紙へ景色を並べていったのだけれど、並べ終わる頃には南国どころかへんてこりんになっていた。写真に収められた奥行きのある構図や、川面のきらきらした感じを再現したかったのに、画用紙の川面は鳥肌の立った年寄りの腕だし、遠くの山は皿に並んだ餃子《ギヨウザ》だった。デッサンが終わったところで、千裕は色を塗る気力も失って、その一枚を「却下」にしてスケッチブックから引き裂いた。で、徒労に終わった小一時間の奮闘を思いながら、静かな子供部屋にどっとため息を漏らした。  彼女の記憶が途切れたのは、その直後である。  ため息と同時に、何かが猛然と駆け込んで来た。救急車のサイレンと、タイヤの軋《きし》みと……なんだこの、妙な声。声というか、色というか、虹《にじ》のような七色の……色だか音だか困っているうちに、千裕はかつん[#「かつん」に傍点]と脳裏に衝撃を受けて、脳震盪《のうしんとう》みたいによろめいた。やがて救急車は、どっしゃんがらがらと派手に騒いで、それっきり静まり返った。街にはもとの静けさが——というか、もとのものとも思えないような圧倒的な静けさが——戻ったのだけれど、千裕は自分に戻れなかった。子供部屋に閉じ籠《こ》もり、天井の照明を落とし、勉強机の蛍光灯だけ灯《とも》して、そこにスケッチブックを広げて、さて自分が何をしていたのか、さっぱり思い出せないのだった。右手には鉛筆が握られていて、左手には南国土佐の風景写真があるのだけれど……で、何の途中だったっけ? 思い出そうと試してみても、虹色がちらちらと瞬くばかりで、ちっとも頭が働かない。卓上の目覚し時計が、ちく[#「ちく」に傍点]、ち[#「ち」に傍点]く[#「く」に傍点]と秒を刻んでいて、千裕はそれを、虹色の向こうに呆然《ぼうぜん》と見守った。  で、細い針が文字盤を二巡りした頃、第二波が襲ってきた。  第二波は、つむじのような蝶の群れだった。それが突然、壁や天井を貫きながら、千裕の部屋に迸《ほとばし》った。奔流は千裕の身体すら貫いて、彼女の四肢をばらばらに引き千切った。右腕が激しく跳ねあがったかと思ったら、左腕は鉛のように硬直して床へ引きずられた。そして背骨に激しい痙攣が迸って、千裕は誰の身体とも知れないような自分の身体をでたらめに波打たせた。その衝撃に、スケッチブックや南国土佐が何だったのかはもちろん、自分が誰なのかすら吹き飛ばされた。最後に彼女は、余震のような不気味な痙攣に震えながら、くらりと意識を失った。  消えゆく意識のその先には、この世のものでもないような虹色ばかりが立ち込めていた。  さらに……  白石淳平は、夏休みの工作の為に工具類を調達しようと、庭の倉庫を開けたところで、やり残した花火を見つけた。その瞬間淳平は、空き缶と紙粘土でつくる貯金箱みたいなろくでもないシロモノのことは——学校ではそれを「リサイクル工作」と称していた——、一切忘れてしまった。彼は花火の袋を振り回しながら居間へ突入し、父親に花火をせがんだ。父親がテレビのノーアウト満塁に首っ丈で相手にしなかったので、踵《きびす》を返して台所の母親にせがんだ。母親も、スイカを切り分けるのにかまける振りをしてしばらく無視していたけれど、やがて我が子のしつこさに癇癪《かんしやく》を起こして、反撃に出た。彼女はおざなりになった宿題の数々を次々と羅列し、花火なんかにうつつを抜かす息子のことを罵倒《ばとう》した。息子のひるむ様子を見て取ると、母親は冷蔵庫に貼られていたカレンダーを引っ手繰り、息子の鼻先へ突きつけた。見なさい! 夏休みはあと何日? 夏休みはあと何日! 息子に言わせれば、夏休みがわずかしか残っていないことより、母親の剣幕の方が恐ろしかった。この人、息子の宿題の進行具合以外に、何か嫌なことがあったんじゃないだろうか?  なんて感じで淳平が圧倒されていたところに例の救急車が飛び込んできた。  救急車は、蝶に襲われながら、白石家の手入れの行き届いた生垣《いけがき》をかすめて過ぎた。おおっ、と父親が、野次馬根性|剥《む》き出しでソファから跳ね上がったのだけれど、直後、何かを脳天に食らって派手にぶっ倒れた。母親も、カレンダーを息子に託しながらわなわな[#「わなわな」に傍点]と震えて頽れた。それから路地の先に豪快なラッシュ音が轟《とどろ》いて、白石家のLDKはしん[#「しん」に傍点]、と静まり返った。  白石淳平だけが、片手にカレンダーを、もう片手には花火の袋をぶら下げて、呆然と突っ立っていた。  父親と母親を見渡す。どうしたんだ、この二人。奇妙に身体を捻《ねじ》ったまま、もう父親でも母親でもないような顔をしてぶっ倒れている。実際、その痙《ひ》き攣《つ》った顔立ちを、縦に眺めても、横に眺めても——不思議な虹色の向こうに霞《かす》むばかりで、それが本当に両親かどうか、はっきりしない。とにかく……こういうときは、救急車、のはずだ……  と電話へ向かいかけたところに、第二波が来た。その壮絶な景色に、淳平は思わず片手の花火を取り落とした。なにしろそれは、花火が下らない導火線に思えるほどの、光り輝く蝶の群れだった。淳平は、こんな七色がこの世に存在するのか、と蝶の群れに目を見張った。確かにその七色は、この世のものではなかった。別のどこかから来た光だったし、白石淳平をその別のどこかへ引きずり込む光だった。淳平は、その美しい蝶に取り囲まれながら、それを美しいと思う心を忽然《こつぜん》と失った。蝶しか存在しない世界へ引きずり込まれるのに、それを美しいとも思えないのだから、その世界には何もなかった。ただ、百億ほどの無意味な蝶が、永遠にはばたくばかりだった。  そして……  渡瀬春奈は目を覚ました。  すでに虹色は消え失《う》せていた。湿気に蒸した夜空の下に、春奈の見慣れた街並みが広がっていた。けれど、春奈はそこに「街並み」を見つけられなかった。「蒸した夜空」も見当たらなかった。いったい自分がどこで目を覚ましたのか、見当もつかなかった。どころか、いったい誰が[#「誰が」に傍点]目を醒ましたのか、それすらどこにも見当たらないのだった。  胸には、見たこともないような少女が——というか、少女とも思えないような化け物じみた何かが——、しがみついている。  この娘は……誰だっただろう?  ここは、どこだっただろう?  わたしは、誰だっただろう?     十二、  槌神総一郎、という男は、なんだか知らないが、強烈だった。  本間和輝は、その背後につかず離れずついていったのだけれど、やがて槌神総一郎は施設の正門で消防に足止めされた。通過は認められたようだが、それには何か特殊な装備を着込むという、条件がついたらしい。これはアレで、これはソレで、という消防の説明を聞くうちに、突然槌神総一郎は癇癪を起こした。 「そんなモノはいらあんっ[#「そんなモノはいらあんっ」に傍点]!」  とてつもない罵声をくれると、消防の手から装備一式を叩《はた》き落としてしまった。  で、ずかずか敷地内へ突き進んでいく。消防がおっかなびっくり引き止めようとしたので、それを本間が引き止めた。 「いや、先生ご機嫌が悪いんですよ」あるいは、なにしろあの剣幕だから、ものすごく機嫌がいいのかもしれないが。「ところで……文科省の方で、研究員を集めるか何かして、立ち入り調査をしていると思うんですが……」 「立ち入り調査?」その言葉に、消防の人間まで機嫌を損ねてしまった。「そんなものやってないよ。ウチだってまだ立ち入ってないんだから」 「そうなんですか? あの、……槌神先生とわたし以外に、文科省関係の研究員の方は、いらっしゃっていない?」  ちら、と消防は、本間が肩から吊《つ》るしている大仰なクーラーを一瞥《いちべつ》した。「そういえばそんなのを抱えた連中が何人か顔を出したな」 「どこにいます?」 「文科省の役人を捜していたから、呼んでやった。連中、役人に連れられて外に出ていったよ。あっちに本部を立てているところだから、そこで待たされてるんじゃないの?」  本間は消防の指差す先を振り返った。施設の向かいにある更地に、消防がテントを並べているところだった。すでに立ち上がったテントのひとつに、本間のものと同じようなクーラーや、スペクトル分析用のサンプルを保管するためのジュラルミンケースを抱えた連中が、四、五人集められていた。全員、透明の安っぽい雨がっぱに、白い長靴、顔には防塵《ぼうじん》マスクをあてがっていた。そのままもうずいぶん待たされているらしく、ビニール装備の中で汗にうだりながら、所在無さげに星座を見上げたりしていた……なるほど、本間はどうやらチキンレースに遅刻していたが、競合相手も競合相手で足止めを食らっている。 「どうも」本間は消防に告げると、槌神総一郎が叩き落とした装備一式を引きうけた。「これはわたしから先生に渡しておきます」  本間は二人ぶんの装備を受け取って、槌神総一郎の後を追った。一方槌神総一郎は、今度は施設の玄関前でビニール装備の誰かとやりあっていて——ビニールの下はスーツなので、どうやら役人だ——、しまいには小役人を突き飛ばして館内へ踏み込んだ。 「すみませんね」本間は小役人を優しく慰めた。「槌神先生、ゴンドウさんを探していらっしゃるんですよ。で、ゴンドウさん、どちらなんです?」 「下です」小役人は本間へ泣きついてきた。「けど、今は下には入れないんです。あの調子でずかずか入られたんじゃ、足止めした消防にしめしがつかなくなる。……どうにかしないと」 「わたしがなんとかしますよ。本当にすみません、槌神先生、今日はご機嫌斜めなんです」 「今日は? いつもあんな感じに見えますけど?」 「とにかくわたしが行きますから」これ以上無駄話をするとボロが出そうだった。  本間はその場でビニール装備を着込むと、館内へ進んだ。館内は少し入り組んでいて、槌神総一郎はいったいどこへ行ったのやら……すぐにわかった。廊下の奥から怒鳴り声が飛んできた。声のした方へ駆けると、廊下の途中に鉄扉があって、その前で槌神総一郎がオレンジのゴム装備——どうやら消防の特殊部隊だ——ともめているところだった。で、結局三人のゴム装備を振り切って、槌神総一郎は鉄扉の奥に消えてしまった。  本間は頃合いを見て駆け寄る。「すみません」慇懃《いんぎん》に話しかけた。「先生、ゴンドウさんを探してらっしゃるんですよ」 「権藤? あの文科省の上役か?」 「です」なるほど、文科省の上役だったのか。 「その男ならさっき下に入ったが」消防はぶちぶちと不機嫌に告げた。「どうして文科省の関係者ばかり下に入れる? いったいこの施設は何が起こってるんだ? キミらの言う『技術的問題』とは、何なんだ? ウチも勝手に突入してしまうぞ?」  そうか……消防の連中は、ここで七年前の瞭命館と同じ事が起こったことを、知らないんだ。「わたしに言われても……わたしは文科省の人間じゃないですし」 「じゃ、キミは何なんだ?」 「槌神先生のお付きのものです。先生、装備を着けずに入ってしまいましたでしょう? わたし、これを先生に渡すようにと言われてきたんです」  本間はゴム装備らへ、槌神用のビニール装備を指し示した。ゴム装備らは、それを面白くなさげに見下ろした。「……で、キミも中に入れろというわけか」 「だって先生が入ってしまいましたから。これを渡して来いというのは、消防の方からの指示ですし」  チッ、と消防の人間は舌打ちすると、鉄扉を開け放った——不思議なことに、鉄扉の内側には、また鉄扉が待っていた——。「すぐ戻ってくるんだぞ」  これで四つ目の検問通過……が、本間ははたと立ち止まった。  ……そうだ。検問の猿芝居に熱中して、ちょっと忘れかけていた。この施設は今、「瞭命館パニック」の再来に襲われていたのだった。原因不明の中枢神経系障害。回復不能の意識障害。六十八名の被害者。十七名の死者。五十一名の、人格らしい人格を失った人々……  こんなビニール装備一式で、踏み込んで大丈夫なのか? 「……あの」本間は消防へ、申し訳なさげに尋ねた。「槌神先生は、本当に、何の装備も着けないまま、下に入ってしまわれたんですよね?」  肯《うむ》、とゴム装備がうなずく。 「で、その、……ゴンドウさんはどうです? 文科省のゴンドウさんも、何も着けないまま入られたのですか?」 「あの人はあんたと同じ身なりで入っていったよ」  なるほど……おそらく「瞭命館パニック」をいちばんよく知っているはずの、東晃大学事例調査委員会委員長と、文科省の上役が、今の本間と同じかそれ以下の防護策のもと、館内に入った。ということは、この装備で大丈夫、だと思うのだが…… 「被害者は? 被害者はもうみんな運び出されたんですか?」  馬鹿にするな、と消防は語気を強めた。「でなきゃ我々だっていくらなんでもこんな悠長にはしておらん」  そういえば、七年前には、被害者が運び出された後、消防や医療関係者に二次災害は見られなかった。もうパニック発生から一時間は過ぎているはずだから、大丈夫、だと思うのだが…… 「どうするんだ?」  急《せ》かされて、ええい[#「ええい」に傍点]、本間は進む方を選んだ——なにしろ彼は楽観的で冒険好きなパーソナリティ、のはずだ——。もす[#「もす」に傍点]、と彼の背後で消防員らが扉を閉じた。本間は二枚の鉄扉に挟まれた、天井に蛍光灯が灯《とも》っているだけの、何もない小部屋に閉じ込められた。鉄扉は、厚みからして、どうもただの防火用扉とは思えなかった。閉じるときも、がしゃんとは響かず、やけにしおらしく閉じてしまったし。正面の扉を抜けると、今度は下りの階段が待っていた。外から見る限り、施設は地上二階建てだったけれど、ここには上りの階段はなかった。どこまで続くとも知れない下りの階段が、しん、と静まり返っているだけだった。  奇妙な建て物だ……それに本間は、もうひとつ、この施設の奇妙な点に、鉄扉をくぐる前から気づいていた。  槌神総一郎だ。東晃大学事例調査委員会、現委員長——あの男、まるでこの施設の勝手をすべて知り尽くしたみたいに、戸惑いもなく歩き回ってみせた。  以前ここを訪れたことがあるわけだ。東晃大学事例調査委員長が、この国立脳科学研究センターを……この施設は、七年越しのパニックに襲われる前から、すでに「瞭命館パニック」に関わっていたことになる。  たしか大八木は、千葉の施設で七年前と同じことが起きた、とだけ言っていた。が、もしかしたら事態はもう少し複雑なのかもしれない——東晃大学事例調査委員長の出入りする、文科省直轄の施設で、七年前の東晃大学と同じ事が起きた……そういえばさっき消防は、文科省が事態を「技術的問題」と説明していることを漏らした。こういう場合、「技術的問題」といえば、真っ先に思いつくのは「業務上過失」だ。  とすれば……まとめると、どういうことになる?  密《ひそ》かに瞭命館パニックの原因究明を進めていた——と思われる——文科省直営の施設で、何らかの過失により、パニックが再発した。おそらくは、研究用に持ち込んでいた原因物質が漏洩《ろうえい》するなどして……  ——こりゃ、狭い日本でこの夏最高の冒険を試すなら、ここ[#「ここ」に傍点]しかないじゃないか——  ぐい、と本間は肩のクーラーを担ぎなおして、気合を入れた。空気感染や二次災害のことがまだ気になったけれど、そこは槌神総一郎やゴンドウなる人物を信頼することにして、彼はひとつ大きく息を吸い込み、階段を駆け下りていった。  コントロールルームで権藤勲は、すでにあちらの世界へ引きずり込まれてしまった下川徹を発見した。  呼びかけても応じない。膝《ひざ》を抱えたまま呆然《ぼうぜん》と前を見凝《みつ》めている——あるいは、何も見凝めていない——。ときどきぼんやりと、周囲の世界を見渡す。が、何も見当たらなかったような感じで、再び何もないどこかへ視線を戻す。きっと彼には、もう外の世界は「理解」できないものになってしまったはずだ。自分に「理解」できるように、世界を並べかえることができなくなったのだ。朦朧《もうろう》、混濁……S被害の重篤度としては二段階目に相当する。対処療法としてジフェニルヒダントインを投与すれば、ある程度回復するかも知れない。この男の場合、二度目のSの直後にはどうやら正気を保っていたから——なにしろ文科省に電話を入れてきた——、回復は期待できる。  が、この「回復」というのが、意外に厄介なのだった。  というのも、世界を「理解」する能力を失った人間を、むりやり世界へ引きずり戻すことになるのだから。すると彼らは、読み取れない世界に怯《おび》えて激しい錯乱を起こす……七年前のパニックの際に、激しい精神運動興奮を繰り返して生命力を消耗させ、最終的に統合失調症末期に似た「人格荒廃」へ陥っていったのが、この「回復失敗組」だった。回復失敗組は、意識障害の重篤度としては最も軽い一段階目に相当するのだけれど、そのぶんかえって手がつけられないのである。まともな「自分」を取り戻せたのは、二人しかいない。しかもそのうち一人は、一見まともに見えて実はかなり壊れてしまっているし、さらにもう一人は、外科的処置で身体の半分を犠牲にして、強引に復活した。  アリスのSに襲われたら、なまじ「世界」を思い出さない方がいい。重篤度二段階目のまま眠ってしまった方がいい。  権藤は上にいる部下に連絡を入れて、二十四人目の被害者を運び出すよう指示した——消防ではなく、文科省の人間の手で運び出すよう——。コントロールルームの天井に赤い警告灯が駆け巡っていて、どうやらドームのロックが解除されたままになっていたけれど、こちらはそのまま放置した。そのうち比室アリスが戻ってくるはずだから、手早くドームへ放り込むにはこのままの方が都合がいい。で、権藤はようやく本題に入った。S発生時の状況確認、だ。コンピューターを調べて、それがドーム内の異常音を感知した時刻、施設に警報が鳴り響いた時刻、コントロールルームの技師がSを宣言した時刻を、確認する。三者の時刻に妙なばらつきがあったが、このコントロールルームにもSの影響が出たのだから、仕方ないだろう。それから権藤は、最も被害が大きかった前室・準備室用の監視ビデオの録画を止め、巻き戻した。  やがて二度目のSの瞬間へ行き着いた。再生に切りかえる。すでにそこには六人の技師たちが倒れていて、後続の技師や救急隊員らがそれを覗《のぞ》き込んだりひっくり返したりしていた。その動きが、ある瞬間、愕然《がくぜん》と凍りついた。全員同時に、ぎくりと硬直し、勢い余ってその場に跳ね上がり、四肢をでたらめに振り回しながらぶっ倒れていった。その様子を監視カメラは、無音の映像の中に、呪わしいくらい冷静に収録していた。何度か巻き戻し再生を繰り返すうち、権藤は静かに見凝める自分のことすら呪わしくなってきた。  しかしこれではまったく頭数が足りない。ドーム内を捉《とら》えた映像を巻き戻すと、そこにもすでに看護婦が倒れていて、それを介助していた救急隊員が四肢を波打たせてぶっ倒れた……まだ足りない。どうやら残りは、監視カメラの届かない準備室の外、検問扉に封じられた廊下でやられたらしい。  それから、肝心のアリスの姿もまだ見つかっていない。  さらに巻き戻す。二度目のSの被害者たちが、前室・準備室の映像から消える。残されたのは、最初のSにやられた六人の技師……ドームの扉が半開きのまま放置されている。どうやら扉の脇に倒れた技師の頭がつっかえている。いったい何があったのやら……一瞬、巻き戻しの映像に白い影が過《よぎ》った。ぎくりとして、テープを止め、再生する。  比室アリスだ。半開きの扉を通過していく。無音の映像の中に動く白い影を、権藤はぞっと見守った。彼がこれまで見てきたアリスは、どんなに活発に動いても、トリプルAだった。  ——本当に目を醒《さ》ましたんだ——アリスの目を醒ました姿を見るのは、これがはじめてだ。  その一瞬を、何度も巻き戻しては、再生する——なんてことだ、あのアリスが、自分の足でまともに歩いてやがる——十回以上も繰り返すうちに、なんだかちょっぴり、うっとりしている自分に気づいて、権藤は慌てて頭を振った。いけない、この少女は人を魅了する。人ではない気配で、人の目を釘《くぎ》づけにする。  とにかくこれで、アリスがドームを離れる様子が確認された。巻き戻しを進める。すぐに最初のSの瞬間に行きついた。再生。前室に六人の技師がいる。彼らの周囲を赤い警告灯が駆け巡っている——ロックが解除されている。技師の一人が扉を開放した。直後、全員同時に激しく硬直した。四肢をばらばらに振り乱し、あるいは全身を奇妙な方向へ捻《ねじ》りながら、次々とぶっ倒れていった。  これは……テープに記録された時刻と、先ほどコンピューターで確認した異常音の時刻とを比較する。あの技師は、S発生の最中にドームの扉を開いてしまったわけだ。いったいどうして……  ドーム内の映像を巻き戻す。看護婦がとんぼ返りに立ちあがる。再生すると、四肢を振り回しながら背後の壁に吹っ飛んで、そのまま床に潰《つぶ》れてしまった。これが、最初のSの瞬間のドーム内の様子だ。しかしこの映像には看護婦しか見当たらない。別のテープを巻き戻す。見つけた。アリスだ。左手をかざし、まっすぐ看護婦を指差している。そしてゆっくり、看護婦へ迫っていく。権藤はブラウン管へ食い入った。その片隅に捉えられた、アリスの白い顔立ちを、走査線の隙間に覗き込んだ。  ——これ[#「これ」に傍点]かっ!——  と、それ[#「それ」に傍点]を見つけた直後、権藤はもんどりうってモニターの側から逃げた。それは、決して見てはならないものだった。見た者の本能や衝動を、根こそぎ引きずり込んでしまう、何か[#「何か」に傍点]だった。権藤は机に頭を突っ伏して、心が静まるのを待った。けれど頭の隅にはまだしんしん、それ[#「それ」に傍点]を見た瞬間の激しい動揺が疼《うず》いていた……さっきの技師は、これが見たくて扉を開け放ったのだ。これに誘われて下まで駆けつけたのだ。きっとこのコントロールルームで、さっきの権藤と同じように、それ[#「それ」に傍点]を覗き込んでしまったのだろう。  化け物の放つ、原始の笑顔を。     十三、  本間は地下二階で槌神総一郎に追いついた。例の総白髪の傍若無人な男は、ずかずかと風を切って階下へ下っていくところだった。本間は踊り場ひとつぶん間隔を空けながらその後を追った。が、ちょうど地下三階へ下りかけたところで、ぱた、と槌神総一郎は足を止めた。 「……そうだ。ロックはどうする?」  信じられないくらいけたたましい独り言を発すると、どうしたものかと左右を見渡し、そこではじめて、自分に付きまとってきた見知らぬ男に気がついた。で、特に意外そうな顔もせずに、言い渡した。 「文科省の人間だな? ロックを解除してきてくれ」 「……はあ?」本間は腑抜《ふぬ》けた愛想笑いを返すことしかできなかった。 「どうした? コントロールルームに行ってドームのロックを解除してくるんだ。わたしはアリスに会わせてもらう」  アリス? 何だそりゃ……「あの、消防からこのビニール装備を……」  がっはっはっ、と槌神総一郎は豪快に笑い飛ばした。「わたしに着ろ、というのか? 馬鹿馬鹿しい! キミもなんでそんなものを着ている? 脱げ! 脱いでしまえ!」  はあ、と首を傾げる本間に、再度ロックの解除を言い渡して、槌神総一郎は階段を下っていった。で、本間は、コントロールルームなんか知らないし、ドームもロックも知らないし、それにアリス? もちろん、ビニール装備を脱ぐべきかどうかもわからないまま、本間は槌神総一郎を追いかけて階段を下っていった。  ——あれはヒトの笑顔じゃない——  何度も自分に言い聞かせて、権藤は顔を上げた。すでにモニターにその笑顔はなかった。伏せているうちに最初のSが片付いたらしい。権藤はビデオの再生を止めた。  とにかく、比室アリス、完全復活だ。あの笑顔まで取り戻してしまった。  比室アリスはヒトではない。肉体的にはヒトかもしれないが、頭の中はヒトではない。中枢神経系のメカニズムが違う。特にその大脳皮質、「いかにして外の世界を読み取るか」の仕組みが、まったく違う。アリスには普通の人間には見えない世界が見えている。そのかわり、普通の人間の平凡な世界はこれっぽっちも見えないわけだが。アリスは、人類がはじめて接触した、人類とは違うタイプの知的存在だ。地球外知的生命体、と呼んでもいいくらいだ。  だから、その笑顔にも、普通の人間が笑顔に託すような意味、メッセージ、脈絡は、まったくない。  そもそもそれは「笑顔」ですらないという指摘もある。筋肉運動としては、限りなく「闘争」に近いらしいのだ。どうやらアリスは、ヒトの原始的な情緒を司《つかさど》る大脳辺縁系に何らかの刺激が加われば、「反射的に顔の筋肉を硬直させる」。それは辺縁系への刺激のあるなしを示すオン・オフスイッチに過ぎない。だから厳密には笑顔ではない。槌神五月はアリスの笑顔を、「笑顔というより『チック』に近い」と表現していた。  が、それだけに唐突で、あまりにも脈絡がなくて、周囲の人間を混乱させるのだった。その「笑顔」を目の当たりにした人間は、その唐突さに打ちのめされて、なぜ笑うのかと目を見張る。もともと意味も、メッセージも、脈絡もないものから、それらを読み取ろうと躍起になる。そして何も読み取れないまま途方に暮れる。ちなみに意味や、メッセージや脈絡を解析するのは、理性の働き——発生学上「最新の脳」と呼ばれる、大脳皮質の働きだ。その理性・大脳皮質ラインが途方に暮れてしまうと、それよりやや古い脳——大脳辺縁系の司る原始的な情動や、さらに原始的な中脳以下「爬虫《はちゆう》類の脳」が司る動物的本能ばかりが、野放しに放置される。こうしてこの「笑顔」は、ヒトの理性を混乱に陥れつつ、原始的情動を激しく揺さぶり、動物的本能を駆り立てる。  原始の笑顔、だ。  つけ加えれば、その笑顔には「とてつもなく美しい」というアドバンテージがあった。なぜそこまで美しく見えてしまうのか……こればかりは科学的にアプローチしても無駄だろう。意味も、メッセージも、脈絡もないぶん、かえって純粋な形の笑顔——笑顔の原型——が現れるのだろうか。それはむしろ「闘争」に近いとすれば、そのアンバランスさが人を惹《ひ》きつけるのだろうか。ひとつだけ科学的なことを言えば、母親からの遺伝、というのが考えられた。アリスの母親も、人を惹きつける「病的な笑顔」の持ち主だった。ちなみに彼女は「深刻な神経症」の持ち主でもあったのだが。  とにかく、そんな笑顔でもないような「笑顔」を比室アリスが取り戻した。  ——間違いなく覚醒《かくせい》したわけだ——  きり、きり、きりと、コントロールルームに微《かす》かな警告音が響いた。  がば、と権藤は顔を上げた。警告音はコンピューターから聞こえてくる……ドームに異常な音声の発生を感知……馬鹿な! ドームは空のはずだぞ?  正面のモニターへ食い入る。そして唖然《あぜん》とした……槌神総一郎じゃないか。無音の監視モニターの中で、しきりに何かを喚《わめ》いている。その背後には、クーラーを抱えた妙な男が申し訳なさげに突っ立っている。  何をしているんだ、こいつらは。  で、内側の扉には取っ手がないものだから、誰かが助けに行かなければこの二人はドームから出られない。  やれやれ、と権藤は立ち上がった。  槌神総一郎は、文科省からもらっていた無記名のセンター身分証——兼カードキー——を使って、地下三階の検問扉を通過した。あまりに機嫌が悪かったか、さもなければよすぎたので、彼に続いてクーラーバッグを抱えた男がこっそり検問を通過したとしても、まったく気がつかなかった。  ——比室アリス、すべてを見せてもらう——  槌神五月をどんな世界へ引きずり込んだのか、そのすべてを見せてもらおう。  槌神五月を呑《の》み込んだ世界へ、この槌神総一郎も連れていってもらおう。  準備室、前室、風を切る勢いで通過していく。前室の天井に赤い警告灯が巡っていた。ロックが解除されている——よろしい!——。槌神総一郎はドームへの扉を引きずり開けた。突如現れた白い部屋に目を焼かれる。槌神総一郎は顔を歪《ゆが》めて眩《まぶ》しさに対抗する。周囲を見渡す。中央にベッドがある。他には何もない……何もない? 「……どうした? アリスはどこだ?」  うろたえながら周囲を見渡す。背後に、さっき階段で見かけた男を見つけた。 「どういうことだ?」ずかずかと歩み寄る。歩み寄りながら、次第に声を荒らげていった。「どうなっている? アリスはどこだ! 貴様ら、比室アリスをどこへやった!」  で、この罵声《ばせい》を、ドームに仕組まれたベクレル・センサーが感知した。     十四、  コントロールルームの被害者を文科省関係者の手で上へ運び出せ、と言われても、よっしゃと駆けつけるほど暇な人間は一人もいなかった。  文科省「東晃大学事例調査委員会」担当チームから派遣された斥候班の四名は、消防・警察への説明や、調査委員らの送り込んでくる「鼠」の対応なんかにかかりっきりで、二十四人目なんかに構ってはいられなかった。だいたい、「アリスの搬入」名目で召集をかけても誰も集まらないくらいだ——これはこれで、逃げられたのかもしれないが——。権藤にアリスの帰還を待つよう言いつけられた小役人、賀谷耕平は、どうしたものかと頭を悩ました挙げ句、コントロールルームの被害者を見捨てることにした。  どうせ、アリスのSに襲われたのなら、こちらの世界には戻って来れないし。  にしても……賀谷は腕時計を覗《のぞ》いた。いくらなんでも、遅過ぎる。というのはもちろん、アリスの帰還だ。賀谷がそのことを消防に申し出てから、もう四十分になろうとしている。消防によって、いったん病院に搬送されて、病院で事情を聞かされて、再びこちらを目指すとして……やっぱり遅過ぎる。もう一度消防に確かめた方がいい。賀谷は周囲のオレンジ軍団を見渡した。誰か責任者を見つけて本部に確認を取ってもらおうと思った。けれど、どれも同じようなオレンジ軍団なので誰が何なのだかさっぱりわからなかった。  そのうちなんだか、オレンジ軍団の気配が変わった。  やおらあちこちで点呼がはじまった。で、点呼の終わったチームから、特殊車両に乗り込んで、施設の敷地を飛び出していくのだった。本部に帰る、にしてはやたらと景気がいい。駆けまわる隊員の一人をとっ捕まえて、賀谷は事情を尋ねた。  そして、愕然《がくぜん》と凍りついた。 「どういうことなんです!」  ドームの扉から半身を覗かせながら、権藤は中の二人へ呼びかけた。本当なら中へ入って二人を引きずり出したいところなのだけれど、それをやると権藤までドームに閉じ込められてしまう。 「先生には『霞ヶ関へ』とお伝えしたはずですが?」 「権藤か! 貴様、比室アリスをどこへやった!」槌神総一郎は、権藤の質問を無視して、自分の用件を喚きたてた。「なぜここにおらん! どうなっている!」 「先生がなぜここにいらっしゃるのか、お訊《き》きしているんですけどね」と繰り返しながら権藤は、この様子じゃ答えは聞けやしない、と肩をすくめた。「そちらはどなたです?」  権藤は、クーラーボックスを肩から下げてきょとんと突っ立っている小柄な眼鏡男を指差した。槌神総一郎もそちらを振り返る。 「キミ、誰だ?」 「先生のところの研究員さんじゃないんですか?」 「貴様の部下じゃないのか?」  ……まったく、と権藤は頭を抱えた。どちらの関係者でもない人間がクーラーボックスを抱えて駆けつけるとしたら……この眼鏡男が何者なのか、だいたい見当がついた。眼鏡男は、ぼさぼさ頭をさらにぼさぼさと掻《か》き乱しながら、権藤へ歩み寄った。 「その……原口孝三郎先生の代理でこちらに参りました、光凜大学の本間と申します」 「それで?」 「文科省には原口先生の方から名前が伝わっていると思うのですが」 「かもな」 「で、先生の調査活動に必要なサンプルがこちらで集められればと思いまして」 「で?」 「……いえ、それだけでして……」 「で?」 「……で、と言われましても……」  と言い淀《よど》んで愛想笑いする眼鏡男へ、権藤は耳を貸せ、と手招きした。本間は苦笑いのまま歩み寄ったが、権藤はその胸倉をひっとらえ、耳というより首を貸せとばかりに引きずり寄せた。 「で、なんでここにいる[#「なんでここにいる」に傍点]?」 「その……槌神先生が……」 「貴様、このドームを見てしまったな?」 「……消防の方が、このビニール装備を……」 「見てしまったからには、もう原口孝三郎の代理なんて生易しい立場ではいられんぞ?」 「けれど……」 「キミの身柄は文科省で預かる」 「そんな、わたしはただ原口先生の……」 「原口孝三郎のことは忘れろ。ここはその原口でさえ知らん場所だ。とにかくここを見た以上、自由にはさせられん。今後はわたしの指示に従ってもらう。最初の指示だ。誰にも喋《しやべ》るな。携帯も預かる」 「そんな……わたしはただ、原口先生の代理として……そもそも原口先生がどなたなのかもよくわからないのですし、代理ということになってはいますが実際のところ代理の代理でして……」  しどろもどろになる本間を、権藤はぽいと突き放した。「誰だったんだ!」槌神総一郎が大声で尋ねる。 「誰でもないですよ。原口先生の代理だそうです」 「原口!」かっ、と槌神総一郎は白いドームに一発笑い飛ばした。「委員会の原口か、あの、感染症感染症と抜かしやがる……くだらん!」 「くだらんって、先生の委員会でしょう?」 「委員会はくだらん、わたしは委員長[#「長」に傍点]だ」  ……まるで、運転手はキミだ車掌はボクだ、じゃないか。「とにかくここから出てください。先生はここがどういう場所かおわかりでしょう? キミは——本間君、だったか?——キミは、わからんかもしらんが、とにかくまずはここを出るんだ」  が、槌神総一郎は動かなかった。「アリスはどこだ?」 「先生、お願いします」 「貴様答えんつもりか? 比室アリスをどこへやった? なぜここにおらん?」 「説明しますから、とにかくここを……」 「ここで[#「ここで」に傍点]説明しろ」  怖い顔で睨《にら》み返す槌神総一郎のことを、権藤もまた、次第に怖い顔になりながら睨み返した。やがて尋ねる。「じゃ、わたしの方からもここで説明願いましょうか。先生、なぜドームに入られたのです?」 「アリスをどこへやった?」 「先生、ドームが空だったことがご不満のようですが、空じゃなかったらどうなっていたと思ってらっしゃるんです? アリスはSを発生させたばかりなんですよ?」傍らにぼさぼさ頭がいて、べらべら喋るのは気がひけたが、一度はじめると止まらなくなってしまった。「先生、何のつもりでこんなことをなさったんです? どんなに危険なことかはわかってらっしゃるはずなのに」 「アリスをどこへやった[#「アリスをどこへやった」に傍点]?」 「アリスに何をなさるおつもりでした? 娘さんの復讐《ふくしゆう》、ですか?」 「アリスをどこへやった!」 「危害でも加えるつもりでしたか?」 「アリスをどこへやった!」  ちんちらちん、とふざけたチャイムが割り込んだ。権藤の携帯だった。  ふん、と鼻息を漏らして、携帯に出る。先方の報告を聞きながら、まだ権藤は槌神総一郎を睨み続けていたが、やがてその殺気は携帯へと向けられていった。そのうち歯軋《はぎし》りしながら携帯へしがみついた。そして最後には、ちょっと放心したみたいに、今から行く、とだけ伝えて、権藤は電話を切った。 「とにかくここを出てください」権藤は、さっきまでとは一転、やけにしおらしく頼んだ。「上で動きがありました。わたしもそちらへ行かなければなりません。お二人とも、ここを出て、地下一階で待機していてください。賀谷をこちらへやります。そうだ、本間君、キミ医師免許を持っているね?」 「はあ……」 「地下フロアに犠牲者が一人残されている。賀谷と一緒に処置にあたってくれ。処置は賀谷から伝える……さあ、二人とも、出てください。わたしはもう行きます」  静かになったぶん、なんだか余計にそら恐ろしげな雰囲気だった。その雰囲気に気圧《けお》されて、本間はそそくさドームを離れた。槌神総一郎もその背後に従ったが、戸口で権藤とすれ違う際、文句ありげにちらりと立ち止まった。 「……アリスの所在ならすぐにお教えします」権藤が告げる。「とにかく今は、わたしを上に行かせてください。そのアリスの所在に関わる事態なんです」  が、どうやら槌神総一郎の文句は別の文句だった。「権藤くん、キミさっき、娘の復讐|云々《うんぬん》と抜かしたな?」 「それも後であらためてお詫《わ》び申し上げますから……」 「侮辱するな。わたしはただわたしの学術的興味に従って動いている」 「……お詫び申し上げます、ですから……」  と頭《こうべ》を垂れる権藤へ見向きもせずに、槌神総一郎はドームを出ていった。     十五、  渡瀬春奈は呆然《ぼうぜん》と世界を見渡した。その呆然は、次第に愕然と凍り付いて、蒼褪《あおざ》めていった。  何なんだ、ここは。  いったいどういう世界なんだ?  といっても、なんてことはない。彼女の見慣れた街並みが、平然と静まり返っている、それだけだ。にもかかわらず、春奈は激しく動揺した。何なんだ、この街は。見慣れた街、のはずなのに……何もない。何も見当たらない。ここには見慣れたものなんて、何もない。  どころか、街、すらどこにも見当たらない。  ……かつて春奈は、理科の授業で、こんな話を聞かされたことがある。蛙は蠅を餌にしている。けれど、蛙には蠅が見えない。蠅のように飛びまわる何か、しか見えない。とすると蛙は、実際のところ、蠅を餌にしているんじゃなくて、「蠅のように飛びまわる何か」を餌にしている。だからもし、その蛙が、周囲を山ほどの新鮮な蠅の死体に取り囲まれたとしたら……  何も見えない。新鮮な蠅の死体に取り囲まれたまま、餓死する。  なんてエピソードも、今の春奈にはこれっぽっちも思い出せなかったけれど、とにかく彼女は、蛙に蠅が見つけられないように、見慣れた街に「街」を見つけられなかった。たとえ視覚には捉《とら》えられていたとしても、だ。  かんからかんと[#「かんからかんと」に傍点]、頭の上で何かが乾いた音を響かせている。  見上げると、街灯が灯《とも》っていた——ただし春奈は、そこに「街灯」を見つけることができなかった——。その街灯のトタンの傘に、かなぶんが一匹、飛び込んでは跳ね返されていた——ただし春奈は、そこに「かなぶん」を……とにかく、かんからかんだ[#「かんからかんだ」に傍点]。春奈はその無意味な繰り返しを、呆然と見守った。トタンも、かなぶんも、何物とも知れないまま衝突を繰り返すばかりで、それを見守る「わたし」もまた、何物とも知れないまま呆然と見守るばかりで……結局のところ、「トタン」も「かなぶん」も、それを見守る「わたし」自身も、なにひとつこの世に存在しないような……とすると、このかんからかん[#「かんからかん」に傍点]はどこから来るのだ? かんからかん[#「かんからかん」に傍点]に苛《さいな》まれながら、春奈はますます世界を見失っていく心地だった。かなぶんの突進を二十七回数えたところで、二十七は三の三倍の三倍だ、なんて妙なことを思いつきながら、春奈は立ち上がった。  が、立ち上がれなかった。胸に貼りついた白い何かが、春奈をアスファルトへ引きずり倒した。春奈は腰を抜かしながら、その白い塊を呆然と見凝《みつ》める。  少女がいた。輝くほど美しい少女が、額にひとすじ血を滴らせながら、春奈の胸にしがみついていた。背中に回された細い腕は、その華奢《きやしや》な様子からは想像できないほどの強引さで、春奈の胸を締め上げている。その顔立ちを覗《のぞ》いてみると、美しいことは美しいのだけれど、美しさ以外の何も見当たらなかった。風穴のように空いた黒目が、呆然と虚空を漂っているだけだ。  ……何なんだ、この、この……化け物みたいな何かは。  春奈は少女を振り切ろうともがいたけれど、どうにもならなかった。人とも思えないような少女が、人でもないような気配のまま、付きまとってくるだけだった。結局春奈は、少女を引きずって立ち上がった。再び、周囲を見渡す。  通い慣れた路地が、どこへ続くとも知れないまま、はるか彼方《かなた》へ延びている。そこに街灯が整然と並んでいる。整然と、彼方まで……もちろん今の彼女には、路地も街灯もうまく見て取れないし、そこに「通い慣れた」ということが、どういうことなのかさっぱり言い表せないのだけれど……ちらり、と金属的な虹《にじ》色が、春奈の脳裏に弾《はじ》けた。  その虹色が過《よぎ》った瞬間、ほとんど何も見て取れなかった路地裏に、春奈ははっきりそれを見つけた。  四十二だ。  四十二が見える。  で、……いったい何が四十二なのだ? 肝心のそこが見当たらない。とにかく、四十二だけは間違いなく、そこにある。  しかも、四十二は七の三倍の二倍だ。  ……何なんだ、これは。  ふらり、と春奈は歩み出る。胸に、この世のものでもないような少女を引きずりながら。四十二が四十一になった。四十一は、一と四十一以外のどんな数でも割りきれない……だから、何なの、これ。今度は四十が待っていた。四十は、春奈の鼻先かあるいは脳裏で、五の二倍の二倍の二倍に砕け散った。虹色の光を放ちながら。その虹色に、鉄錆《てつさび》のような無機質な香りを棚引かせながら。  こうして春奈は、無意味な自然数の羅列を追いながら、路地をずるずると進んでいった。そうやって進んでも、一向に路地は見当たらなかったし、街並みも街灯も見当たらなかった。だから彼女は、自分の数えているその数字が、まっすぐな路地に並んだ街灯の総数であることに、いつまでたっても気づかなかった。その街灯も路地裏も、今の彼女にしてみれば、「死んだ蠅」……無意味な素数に弾けて消える姿以外、何も見て取れやしないのだった。  素数の群れは、弾けるたびに無機質な虹色を炸裂《さくれつ》させた。その虹色は、どことなく、蝶《ちよう》に似ていた。  白石淳平を魅了した蝶の群れは、彼を「魅了」すら及ばないようない世界へ引きずり込み、そのままどこかへ消えてしまった。  ふと気がつくと、淳平は静まり返った居間にひとり立ち尽くしていた。  足元には花火の袋がある。右手にはカレンダーが握られている。で、……何の途中だったっけ? 「花火」? 「カレンダー」? 何だったっけ? 居間を見渡す。知っているような知らないような人たちが、奇妙な顔をしてぶっ倒れている。淳平はそのひとつに歩み寄った。顔立ちを覗き込む。母親だ。とすると向こうは父親……  で、「母親」? 「父親」?……何だったっけ?  ううん[#「ううん」に傍点]、と淳平は両目をこすってぐずった。なんだか目の中に、ちらちら虹色が飛び込んで、頭がうまく働かない。  とにかく、あっちは「父親」で、こっちは「母親」らしい。で、ボクは誰で、何の途中だったんだ?……花火を見凝める。わからない。カレンダーに目をうつす。やっぱりわからない。居間を見渡す。テレビがある。打球が飛ぶ。歓声が上がる。アナウンサーが吼《ほ》える……何がなんだかさっぱりわからない。わからないままやたらと騒がしいものだから、淳平は気味が悪くなって、テレビから目を逸《そ》らした。他には……電話。  電話?  何かを思い出したような気がした。それが何なのか、はっきりしないまま、淳平は電話へ歩み寄った……そうだ、この人たち——母親とか、父親とか——、ひっくり返って、呼ばなければ……救急車、だから電話、電話の、一一九が……一一九? 一一九って、それは、それは……  十七の七倍だ、なんて奇妙なことを思いつきながら、彼は一一九をプッシュした。  最初のコールで先方が出た。途端に、先方が何かわけのわからないものを壮絶な勢いでまくし立ててきたものだから、淳平はおっかなびっくり受話器を取り落としてしまった。拾いなおし、気も取りなおして、受話器に答えようとしたのだけれど、あうぐ[#「あうぐ」に傍点]、と奇妙なうめきが漏れただけだった。先方の口調が変わる。相手が子供と気づいたらしい。どうしたの?……お父さんが……お父さんが?……お父さんが……お父さんがどうしたの?……お父さん……お父さんって、何だったっけ?  だいじょうぶ? どうしたの?……お父さんが……お父さんが?……お母さんが……お母さんも?……モ?……キミ、名前は言える?……ナマ……そう、名前……ナマ……どこに住んでいるか、言えるかな?……エルカナ……じゃ、言ってみてごらん?……テゴラン……うん……テゴラン……だから、キミの住んでるところを言ってみて……テミテン。  なんだかもう無茶苦茶だ。「電話」なんかに近寄るんじゃなかった。淳平は何か、助けになりそうなものを探して、右や左を見渡した。何もなかった。手にカレンダーが握られているだけだ。仕方がないのでカレンダーを睨《にら》んだ。数字が並んでいる。左隅の数字だけ赤く塗られている。これがいったい、何の役に立つのか、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それがとても規則正しいということだけは、わかる。あんまり規則正しいものだから、ちょっとの間睨んでいただけなのに、どこにどの数字があるのかもう憶《おぼ》えてしまった。  一枚めくる。  似たような規則が……と思った直後には、そのページの数字もすべて暗記していた。さらにめくる。めくった矢先にすべて理解した。さらに……めくる前から頭に閃《ひらい》いた。  これは……  受話器の向こうから誰かが必死に呼びかけていた。けれど、淳平はもうその受話器のことは忘れた。受話器とややこしげなやり取りを繰り返すより、整然としたカレンダーの方がよっぽど魅力的だった。彼は夢中でカレンダーをめくりながら、めくった矢先にもうすべての数字を理解していた。そこに並んだすべての「日曜日」を言い当てることができた。やがて一年間が頭に入ると、来年や再来年の「日曜日」が次々頭に閃いた。そのまま五億年後の「日曜日」まで、飛んで行けそうだった。頭にびりびり[#「びりびり」に傍点]虹色が閃いて、淳平はカレンダーの素晴らしさに恍惚《こうこつ》とした。この整然とした規則は、永遠の彼方まで続いている。素晴らしい規則……  ただし、何の意味もない。  淳平が見つけたものは、「素晴らしい規則」でしかない。それは「日曜日」ではない。そこに「日付」はないし、「一年間」も、「来年」も「再来年」もない。とすればもはや「カレンダー」すら見当たらない。そうしたすべては「死んだ蠅」のように無視されている。残されるものは、ただ、整然と繰り返されるだけの、「規則」。五億回繰り返しても揺るがない、素晴らしい「規則」……  規則が、虹色の閃光《せんこう》を放ちながら、五億の彼方へとはばたいていく。淳平もそれを追って遥《はる》かな五億へ舞い上がった。その虹色が、淳平の目には、蝶に見えた。  二十時三十五分を過ぎたあたりから、「かみたかくらガーデニング・エリア」から消防に通報が殺到。朦朧《もうろう》や昏迷《こんめい》といった意識障害、あるいは中枢神経系障害の疑われる激しい痙攣《けいれん》。通報している本人そのものが何らかの意識の変容に襲われている例が、多数。通報は倉ガ丘四丁目、五丁目、六丁目あたりに集中。規模が大きいので周辺各方面の消防に出動を要請。多喜津病院、野島第一医院、光世会病院を中心に対応を依頼。場合によっては現地への医師の派遣も検討。  という通報を受けて、国立脳科学研究センターに集まっていた消防団がやおら動きはじめた。  権藤勲がドームで槌神総一郎とやりあっているところに割り込んだのは、以上の事態に関する報告だった。要するに、比室アリスを連れ帰るはずだった救急隊が、やってしまっ[#「やってしまっ」に傍点]た[#「た」に傍点]のだ。だから権藤は、突然心も身体も真っ青になって、怖いほどの静けさでドームからの退出を迫ったのだった。そして彼は、地下フロアの階段を地上へ向けて駆け上がりながら、決心した。  このまま放置すると、事態を文科省で把握できなくなる。先手を打つ必要がある。その先手については、さっき同じ階段を下るときに練ってあった。あれを試すしかない。文科省幹部の意思決定を待たずに話を進めることになるが、この際仕方がない。     十六、  権藤が地上一階へ昇りついた途端に、部下の賀野が飛びついてきた。彼は、ああだこうだと電話で報告した内容を繰り返したけれど、要するに泣き言を喚《わめ》いているだけだった。権藤は彼に、槌神総一郎や本間和輝とともに地下フロアに残るよう、言い渡した。ついでにコントロールルームの下川徹の処置も指示すると、権藤はセンターを飛び出した。  確かに、センター前に集まっていた消防部隊は蜂の巣の騒ぎになっていた——鉄扉の前で頑張っていたはずの特殊部隊もいなくなっていたので、どうやら消防は完全に最前線の移動を決めたらしい——。権藤は消防の連中を突き飛ばしたり突き飛ばされたりしながら、正門の外の対策本部へ駆け込んだ。消防隊長が、四つの無線をやりくりしながらあっちやこっちへ指示を飛ばしていた。権藤はその胸倉をひっとらえ、無線の前から引き剥《は》がした。  消防の動きを止めろ。被災地にはまだ入るな。被害者との接触も控えろ。医師チームの派遣も中止。この本部に、責任的立場の人間を集めろ。警察もだ。機動隊の責任者をここへ呼べ。とにかく事態に対して動いている関係機関の責任者は、すべての動きをいったん止めて、この本部に集まれ。二分以内だ。  文科省の方から、事態の詳細を説明する。  権藤に地下フロアを任された賀谷耕一だったけれど、しばらくは権藤の背中を名残惜しげに目で追っていた。市街地でSが炸裂、というとんでもない事態に、彼はすっかり怖気《おじけ》づいていた。ロビーの外へ消えていく権藤の背中を、北ウイングへ消えていく恋人の背中みたいに見送っているうちに、ぎい、と地下へ続く鉄扉が軋《きし》んで開いた。  総白髪の槌神総一郎がひっょこり顔を覗《のぞ》かせる。あわわ、と賀谷は扉へ飛びついた。槌神総一郎を扉の奥へ押し戻す。「駄目です先生。先生には我々と一緒に、下に残っていただきます」  賀野はそのまま槌神総一郎を扉の裏へと寄り切った。その背後で鉄扉が閉じなおされる。賀谷は槌神総一郎ともみ合いながら、その背後に突っ立っていた、ぼさぼさ頭の眼鏡男へ目配せした。 「本間さん、ですね? あなたも上には出ないでください。権藤から話は聞いています。コントロールルームで被害者が見つかったようなので、そちらの処置を手伝ってください」 「わたしは上に行かせてもらうぞ」槌神総一郎はそう宣言すると、賀谷を引きずりながら外への扉へ向かった。 「勘弁してくださいよ」賀谷が悲鳴を上げる。「これから権藤が消防に説明しますから、せめてその間だけでも……」 「わたしもあの男の話を聞かにゃならん。あの男はわたしに『すぐに説明する』と約束したぞ?」 「今からやるのは消防や警察への説明です。槌神先生が聞かれても意味はないですよ」 「説明は説明だ。いずれにしても、君らはコントロールルームの人間の処置に行くのだろう? それにわたしも付き合えと言うのか?」  どうやら、君らがコントロールルームにかまけている間に勝手に上へ出させてもらう、と言っているらしかった。賀谷は頭を掻《か》き毟《むし》って、折れた。「わかりました、わかりましたよ。先生は権藤のところへ行ってください。そのかわり、権藤が消防に説明する間は、何も口を挟まないでくださいよ? 消防は、ここで何が起こっているのかも、そもそもここがどういう場所なのかも、知らないのですから」  ふむ、と槌神総一郎はうなずく。「黙っていればいいんだな?」 「本当にお願いしますよ? 絶対に……」 「わかったと言っているだろう? 子供扱いする気か?」 「それから、先生もこの装備を着用してください」 「なんだと!」槌神総一郎は子供じみた悲鳴を上げた。「それを着ろと? このわたしにそのくだらんビニールを着ろというのか!」 「だってみんな着てますから」 「そんなものには何の意味もない! キミらもキミらだ、何でそんなものを喜んで着ている!」 「意味はあるんですよ。だってこの施設は、『何らかの原因物質が拡散した可能性がある』、という建て前になっているんですから。先生だけがそのお姿のままずかずか歩き回られたら、怪しまれますでしょう?」 「カムフラージュ、というわけか」ちっ、と槌神総一郎は歯軋りして笑うと、上着を脱ぎ捨てた。「これを着込んで消防をだまくらかすか? 迷彩服か、迷彩服」本間の腕から装備一式をひったくる。「にしては透け透けじゃないか」入れ替わりに本間の腕へ、ずっしりと高級感のある上着を投げ出した。 「じゃ、先生、くれぐれもお願いします」賀谷は槌神総一郎へ念を押すと、本間へ向き直った。「我々は下へ行きましょう。下に被害者が残されていたんです。対処療法に抗てんかん剤が使えます。抗てんかん剤は地下三階に山ほどありますから。お宅、点滴の針ぐらい打てますよね?」  抗てんかん剤? と首を傾げる本間を引っ張って、賀谷は階段を駆け下りた。が、途中ではたと足を止める。 「そうだ、お預かりしなくては」と賀谷は本間へ手を差し伸べた。  槌神総一郎の上着か、と思って本間はそちらを差し出したのだけれど、賀谷は首を横に振った。 「携帯電話です」  対策本部のテントの下に、消防や警察の顔がずらりと並んだ。どういうわけか、槌神総一郎の顔まで並んでいたけれど、彼は消防らの背後から権藤へ目配せすると、唇の傍をつまんでチャックの素振りをしてみせた。権藤は、その大人気ない仕草に唖然《あぜん》としたが……まあ、黙っているというのならそのままにしておいてもいいだろう。どっちにしても、そろそろ二分が経とうとしていた。  権藤は集まった面々へ説明をはじめた。  わたしは文部科学省、「東晃大学事例調査委員会」担当官の、権藤勲だ。ということは、七年前に東晃大学第二研究棟、通称「瞭命館」で発生したパニックの、原因究明を担当している。今回ここ脳科学研究センターで起こった事故は、七年前のパニックと同一のものと考えられる。よって本件の調査は、消防や警察ではなく文科省の調査委員会によって執り行う。消防や警察に被災地への立ち入りを禁じたのも、そのためだ。  現在、被害はふもとの街に拡大したものと考えられる。消防・警察に協力を要請するが、被災地への立ち入りに関してはこちらの指示に従っていただく。まず、消防本部の協力を得て、通報のあった地区、番地を完全に把握する。このパニックは、原因は未《いま》だ不明だが、一定の範囲内で発生することは知られている。その範囲をまず特定し、消防には、その範囲の外縁に当たる区域から救助活動をはじめていただく。その際区域内のすべての家屋を回ること。実際の被害は通報の数よりはるかに多いと考えられる。中央部は、まず文科省が現地調査を行うので、こちらから許可を出すまでは消防も被災地の中央へは立ち入らないこと。被災地の中心には、パニックの原因となったものが——もちろんそれがどういうもので、どういう形で存在しているのかは、現在まったくわかっていないのだが——残留している可能性がある。極めて危険なので、文科省関係者以外の立ち入りを禁止する。中心部の救助活動が遅れることになるが、二次災害の恐れを考えれば仕方ない。  次に、警察。文科省から自治体の方へ周辺住民の緊急避難を指示するので、警察は消防と協力して避難の徹底にあたって欲しい。文科省としては、「かみたかくらガーデニング・エリア」の住民の大半を一時的に退去させたい考えである。特に被災地周辺と、その被災地とここ「国立脳科学研究センター」に挟まれた一帯に関しては、最優先で避難を開始する。パニックの発生した二点に挟まれた地域は、現在極めて危険な状態と言える。避難の規模が相当なものになるため、自治体や警察には迷惑をおかけするが、事態が事態なのでご理解頂きたい。  それから、被害者の搬入される医療機関に、消防の方から抗てんかん剤の使用を指示してほしい。この意識障害・中枢神経系障害群には、ジフェニルヒダントイン及びフェノバルビタールが対処的に病状を和らげることが、経験上知られている。痙攣重積の患者には、てんかん大発作の際と同じ要領で、抗てんかん剤による発作のコントロールを。意識障害が徐々に重篤化していくような場合も、抗てんかん剤で病状の進行を止めることができる。ただし、普通のてんかん患者のようなはっきりとした回復は見せないので——せいぜいこちらの呼びかけに四肢の一部で反応する程度にしか、回復しない——、その点を治療にあたる医師へ充分伝えておくこと。低血糖・酸塩基平衡の是正、電解質異常の是正も同時に行う。治療に関してもう一点。抗てんかん剤の投与によって逆説的に精神運動興奮を引き起こす場合がある。この場合は、即座に抗てんかん剤の投与を停止する。  あと、マスコミへの対応は文科省の方で引き受ける。警察や消防が会見を開く必要性はまったくない。  以上。まずは消防本部と連携して被災地の特定を進める。それまでもちろん、消防も、警察も、絶対に動かないように。     十七、  権藤の打った先手は、期待通りの効果をもたらした。「瞭命館パニックパート2」が宣言された直後から、消防も警察も、文科省に対する全面的な協力姿勢を示した。両者とも、事態が自分たちではどうにもならないことを悟ったわけだ。こうして「東晃大学事例調査委員会」担当チームは主導権を握ることに成功した。あのままずるずる行っていたら、こうはならなかっただろう。  が、権藤の先手は、幹部や大臣官房をも出し抜いて打たれた一手だった。たった今権藤は、あんたらを出し抜いてやったから多喜津市長に周辺住民の緊急避難を指示しろと霞ヶ関に連絡を入れたところだった。とするとそろそろ幹部の誰かが折り返しの電話で怒鳴り込んでくるはずだ。  ——まあいい——権藤は消防の対策本部テントを離れ、更地の外れから「かみたかくらガーデニング・エリア」を見下ろしながら、自分に言い聞かせた。ガーデニング・エリアの光の群れが、湾曲しながら海へと下っている。アカデミック・エリアの高台から、ちょうどまっすぐ下った先に、赤い警告灯が一列に並んで停止していた。消防の連中は、文科省の指示通り、被災地への進入を中断してくれている。  権藤の最大の使命は、アリスの存在を世間から消すことだ。文科省でのキャリアを守ることではない。七年前のパニックの責任問題から、東晃大学を守ることでもない。国立脳科学研究センターの設立目的を偽っている文科省を、会計検査院の目から守ることでもない。とにかく、アリスの存在を世間から消す、それだけだ。  それが世間に知られてしまうことは——権藤は事務的な人間なのでうまい言い回しが思いつかないのだが——とにかく、まずいのだ。権藤にとってまずいのでもなければ、東晃大や文科省にとってまずいのでもない。世の中にとって、まずい。なにしろあれ[#「あれ」に傍点]は、人間離れしすぎている……というか、はっきり、人間じゃない。人を超越している。あれ[#「あれ」に傍点]を前にすると、人の知性がクズに見える。  あれ[#「あれ」に傍点]は、弱冠七歳数ヶ月の春に、東晃大のスパコンが解析に半月もかけるような「超複雑系」を、ほんの数時間で、それもポスターカラーと筆一本で、描き上げたのだ。  化け物、だ。  人は猿から進化した、というのは、たぶん嘘なんだろう。実際には、人は猿からほとんど進化していない。  背後に権藤を呼ぶ声があった。消防が、本部に入った通報の位置を、地図上に特定し終えたらしい。権藤はくわえタバコを更地に放り捨て、対策本部テントへ向かった。地図上の×印は計二十七、倉ガ丘四、五、六丁目、それから隣接の高倉二、三丁目にかけて、ドーナツ状に並んでいた。そのドーナツの範囲内がSに曝《さら》されたことは間違いなかった。ドーナツの中心部には×がほとんど見当たらないが……きっとその辺りの被害が甚大で、通報どころじゃないからだろう。ここが被害の中心——比室アリスがSを発生させた現場——、というわけだ。ちょっと不思議なのは、高倉二丁目からふもとの旧市街地へ下る道に沿って、ぽつぽつと×印がドーナツからはみ出していくことだった。アリスを乗せた救急車両が、この通りを走りながら、Sを通りへばら撒《ま》いたのだろうか? 権藤はドーナツとこの通りを広く囲い込んで、被災地に指定した。被災地は約八十世帯三百人程度。その被災地とここアカデミック・エリアに挟まれた区域は、約五百世帯二千人程度。全員、退去してもらわなければならない。  仕方がないのだ。今この地図上のどこかに、まったく次元の異なる知性が紛れ込んでいる。それは、人と交わることの許されない知性なのだ。  本間和輝には、この施設がますますわからなくなってきた。  地下三階には医務室があり、そこに山ほどのジフェニルヒダントイン、フェノバルビタールが保管されていた。ここは国立脳科学研究センターで、研究活動ではなく国内の脳研究成果の収集とデータベース化を行っている、はずなのだけれど、あるのは不思議なドームと医務室だ……しかもここは、「東晃大学事例調査委員会」委員長が出入りする、七年前のパニックに何らかの形で関係した施設でもある。そして、アリス——槌神総一郎がドームで連呼した名前だ——ヒムロ・アリス……何者なんだ?  それが「Sを発動させた」——権藤勲がそう口走った。S? 何なんだ?  何もわからない。さらに、文科省の賀谷という役人は、医師免許を持った人間なら誰でも点滴ぐらい扱えると思っているらしいけれど、とっくの昔に臨床を離れた本間和輝は、自分に点滴が扱えるのかどうかもわからなかった。  二十四人目の被害者は、モニターばかりの並んだ不思議な小部屋に放置されていた。モニターはどうやら、先ほど本間の立ち入ったドームを監視していた。本間はそちらばかりが気になって、じろじろ眺めていたのだけれど、賀谷に急《せ》かされて被害者の処置に入った。バイタルサインを確かめる。呼吸、脈拍、対光反射、すべて正常。意識は朦朧《もうろう》。壁にぐったり寄りかかっている。何度か呼びつづけると、少しばかり四肢を動かして反応する。これが……世に名高い「瞭命館パニック」の被害者だ! その被害者への接触が、このようなビニール一枚の軽装備で許されるわけだから、やはり「瞭命館パニック」に空気感染や二次災害の恐れはない。なるほど!……で、どうして抗てんかん剤なんだ? 確かに、目の前の患者の容態は、てんかん発作直後の朦朧状態に似てなくもないけれど…… 「とにかくジフェニルヒダントインを」賀谷が指示した。「分三で」  本間は点滴の準備をはじめる。そのわきで賀谷は、布製の担架を広げ、それに患者を乗せると、マジックテープでぐるぐる巻きに拘束していくのだった。  おいおいおいおい、と本間が呼びとめる。賀谷は振り返りもせずに告げた。「抗てんかん剤の投与で逆説的に精神運動興奮を引き起こす場合があるんです。そのときは、すぐに抗てんかん剤の投与を停止します」 「逆説的に精神運動興奮?」本間は声を裏返した。「小児がフェノバルビタールで逆説的にハイパーアクティブになるとは習ったけれど……」 「ハイパー……何ですか?」 「ま、多動ですよ。とにかく大人がジフェニルヒダントインで逆説的に精神運動興奮なんて、聞いたこともないですよ?」 「それはまともなてんかん発作の話でしょう? これはまったく別物のパニック現象です」 「じゃ、どうして抗てんかん剤を使うんです?」 「経験的に効果のあることが実証されています。なぜ効果があるのかは、わたしは知りません。とにかく効くことだけは確かです。そんなことって医者の世界ではいっぱいあるんでしょう? 麻酔医は、麻酔の効かせ方は熟知しているけれど、なぜ麻酔がヒトに効くのかはまったく知らないって聞きますし」  そりゃそうだが、と本間はまだ納得しきれないまま、だらりと下がった患者の腕を引っ張り出した。内|肘《ひじ》を引っ叩《ぱた》いて静脈を浮き上がらせる。で、サーフロー針を構えて、ひと息吸って、吐いて、……研修医時代にもサーフロー針なんか手に取らなかったような気がするが…… 「早くしてください。分三で、とりあえず二五○入れてみます。そうしないと意識障害が重篤化したり、全身|痙攣《けいれん》が再発したりするんです。逆に抗てんかん剤の投与で精神運動興奮が出た場合は、投与を中断します。投与をはじめてしばらくは、我々で様子を見なければ……どうしたんです? 早くしてくださいよ」  やってますよ、と悲鳴みたいに言い返しながら、本間は患者の静脈へ、サーフロー針の切っ先を、一ミリずつ、慎重に、アプローチしていった。  消防が動きはじめた。権藤は消防隊長に、隊員を絶対に被災地の中央に踏み込ませないよう再度|釘《くぎ》をさしてから、対策本部を離れた。文科省も動かなくてはならない。 「なるほどな」本部を離れた権藤の背後に、すう、と槌神総一郎が付き添った。「アリスは下の街にいる、というわけか」 「消防が手違いでアリスを搬送してしまったんです。こちらへ戻すよう伝えたのですが、おそらくその途中で……」 「大失態だな」ふん、と槌神は権藤の失態を鼻で笑った。「で、どうする?」 「我々で被災地の中心に乗り込んで、アリスを回収します。アリスは救急車でこちらへ戻る途中にSを発生させたのですから、その救急車が被災地のどこかに停車しているはずです。それを見つければ、その中か、外だとしてもそう遠くない範囲に、アリスを見つけられます。一人で動き回れるような子供ではないわけですし。地図上で大体目星はつけましたから、すぐに発見できるでしょう」 「それから?」 「自治体と警察によって周辺住民の避難が徹底されるのを待ちます。被災地と脳科学研究センターを繋《つな》ぐ道のりに誰もいなくなるのを待って、センターへ運び込みます」 「それじゃ明日になってしまいそうだな」 「ですが、避難の徹底しないうちにアリスを運び出して、またSを発生させたりしたら……」 「待っている間にSが発生した場合には、キミやキミの部下はどうなる?」 「……ですね。センターの医務室から抗てんかん剤を……」 「キミらに点滴のコントロールができるか? 心停止や呼吸停止を起こさない程度に緊急投与できるか? 呼吸停止を起こした際に気管内挿管ができるか?」 「でしたら経口投与で……」 「効くと思うか? 今日にしても、アリスはカルテ通り抗てんかん剤の投与を受けていたのだろう? それを容易《たやす》く振り切ってしまったのだろう? いまさら経口投与なんぞ悠長なことをやってられるのか?」 「いったいどうしろと……」 「わたしが行く」  槌神総一郎はきっぱり言い切ったが、権藤はかえって表情を曇らせてしまった。 「どうした? わたしもいちおう医者だ。点滴のコントロールくらいできる。気管内挿管もできる。それに『東晃大学事例調査委員会』委員長だから、現地視察も必要だ」  が、やっぱり権藤の表情は晴れなかった。 「何が不満なんだ? わたしが先ほど勝手にドームへ乗り込んだことか?」  そうです、とは言わなかったけれど、ちらりと視線を伏せたので、間違いなかった。 「キミはまだ、わたしが『娘の復讐《ふくしゆう》』のために『アリスに危害を加える』と思っているのか?」 「それは撤回します。興奮して失礼なことを申し上げてしまいました。先生がそんな方ではないことは、わかっています。けれど……」 「けれど?」 「あのときの先生は、まるで……」 「まるで?」  が、まるでどうだったのか、結局権藤は告げられなかった。はあ、と一息つくと、声の調子を変えて一気に告げた。「わかりました。先生にご一緒願います。現場でのアリスの処置をお願いします。あと、やはり我々だけでは覚醒《かくせい》したアリスの管理は難しいと思いますので、この際長野に応援を頼もうと思っています」  うぐ、と槌神総一郎の喉《のど》が、微《かす》かに痙《ひ》き攣《つ》った。「……長野、だと?」 「厚生労働省の感染症研究センターです」 「比室|叡久《えいきゆう》——比室アリスの生みの親に助けを求める、というわけか」 「というか、養父ですけどね。それから……」権藤は、次の名前を告げる寸前に、ちらり、槌神総一郎の表情を確かめた。「槌神五月も呼ぶつもりです」 「……」槌神総一郎は、確かめてどうとわかるような表情はあらわさなかった。 「……ま、先生がご迷惑とおっしゃるのであれば槌神五月は呼びませんが……」 「わたしは迷惑とはいわん。キミの好きにすればいい」  好きにすればいい、と言われてかえってやりにくくなった感じで、権藤はごしごしと頭を掻《か》いた。「とにかく、我々だけでは今のアリスをどう扱っていいのかわかりませんし、それにあの二人は、アリスのSに襲われて戻って来れた二人なのですから……」 「権藤君」槌神総一郎は、妙に改まった感じでその名を呼んだ。「キミは本当に、槌神五月がこちらの世界に『戻って来た』と思うのか?」     十八、  二十一時十二分。  国立感染症センター長野支部の敷地を、一台のバンが出発した。運転席と助手席には支部の研究員らが座り、介護機能を搭載した後部の荷台には、比室叡久の車椅子と、槌神五月の姿があった。  長野の暗い山道を下っていく。すれ違うのはオレンジ色の道路照明ばかりで、それがときどき暗い車内を不吉な感じで照らし出す。窓の外を眺めても、バンが世界のどの片隅をさ迷っているのだか、さっぱりわからなかった。槌神五月は車内へ視線を戻した。暗い後部荷台の片隅に、小柄な老人の影があった。大学の研究室を離れて七年、この男は未《いま》だに白衣を愛用していたけれど、この暗さでは影しか見えなかった。  この男は、アリスが目を醒《さ》ますことを知っていた。さすがに生みの親だ。まあ、戸籍上は養父なのだけれど、実際の生みの親たちは自殺と重い神経症で育児を放棄してしまった。そのせいで比室アリスは——その頃はまだ「比室」ではなかったわけだが——六歳になるまで、自閉症とも脳器質性障害ともつかない重度の精神遅滞に陥っていた。それを拾い上げ、研究課題として採用し、超越的な能力を持つ天才児に育て上げたのがこの男なのだから、やっぱりこっちが「生みの親」だ。  まあ、誰が親だろうが、その娘は親の想像をはるかに超えた「化け物」に育ってしまったわけだが。  その化け物と普通の人間とでは、棲《す》む世界が違う。見える世界の次元そのものが、隔絶している。 「比室アリスの棲む世界」は、研究者たちに解析できた最低限の次元でも、9・7次元だった。  彼女は、七歳の春に見かけた小さなモンシロチョウを、九次元的無限大と十次元的無限小の狭間《はざま》で捕まえたのである。それを、一コンマ数次元というフラクタルな次元が四つフラクタルに組み合わされた「超マンデルブロ集合」に還元して、手書きで[#「手書きで」に傍点]イラストした。そのめまいのするような線と色の羅列を、東晃大のスーパーコンピューターに半月がかりで解析させると、「9・7次元上を舞う無限パターンの蝶《ちよう》のはばたき」が弾《はじ》き出された。  一羽の蝶が鼻先を舞ったほんの一瞬の出来事から、比室アリスは9・7次元上の無限を見抜いたのである。  化け物だ。  その化け物が再び目を醒ました。千葉の住宅街で9・7次元を炸裂《さくれつ》させたらしい。滅茶苦茶だ。あの9・7次元は、人の安住するささやかな低次元の世界を、粉々に吹き飛ばす。その世界を構成する意味を、論理を、言語を、「わたし」という概念を、何もかもを吹き飛ばす。七年前、瞭命館の六十八人は、そうして世界を見失った。蝶ばかりが無限に舞う不毛の大地に放り出された。  誰も戻って来なかった。  そう、戻ってきた人間は一人もいない。権藤勲なんかは、槌神五月や比室叡久のことを「帰還者」と呼びたがる。けれどそれは間違っている。槌神五月は「もとの世界」に戻ってきたわけではない。そもそも、「戻ってこなければならないような唯一無二の現実世界」なんて、どこにもなかった。……五月はそれを、比室アリスによって、身体[#「身体」に傍点]で覚えさせられた。  その骨の髄から湧き上がるような喪失感は、比室叡久も経験したはずだった。ただしこの老人の場合、やたらと楽天的で、いつも難しい顔をしている五月とは正反対なのだけれど。  などと考えながら、五月が難しい顔で比室叡久の暗い影を睨《にら》んでいると、影は少し身を乗り出し、闇の向こうから朗らかな笑顔を覗《のぞ》かせた。 「恐ろしいですか?」  いつものように、唐突に語りかけてきた。 「あの娘に会うのが恐ろしいですか?」  本当に恐ろしかったので、五月は恐ろしいとも告げられなかった。代わりに質問で返した。「先生は恐ろしくないのですか?」 「わたしは」はっ、と比室は笑った。「あなたもご存知の通り、わたしにはもうあの娘の世界は見えません。わたしの中の『あの娘の世界』は、外科的に処分されましたから。あの娘の多次元的知性にわたしが吹き飛ばされることは、二度とないわけです」 「……そのことと、あの娘の存在の恐ろしさは、関係あるのでしょうか?」  大有り、と比室は肩をすくめた。「あの娘がどんな存在だろうが、わたしに対しては無力、ということなのですから」  と楽観的に微笑む比室叡久から、五月はちらりと視線を逸《そ》らした。この老人……七年前にはこんな楽天家ではなかった。 「先生は……何をしに千葉へ行かれるのです?」 「権藤君に頼まれてあの娘を眠らせに行くのです」他に何があります? と比室は五月の伏せた視線を覗き込んだ。「あの娘のフラクタルに襲われて平気でいられるのは、わたしくらいのものですから」 「それだけなのですか?」 「それだけ、と言いますと?」 「ただ、頼まれたから眠らせに行く、それだけでいいのですか?」 「いいも悪いも、わたし以外の人間が今のあの娘に接触するのは、危険でしょう?」 「ですから」五月はちょっと語気を強めた。「そういう理屈以外の話で、先生が千葉に行かれる理由というのは、ないのですか?」  ふむ、と比室は鼻を鳴らした。「あなたはどうあっても、わたしがあの娘に恐怖心を抱かないと気に入らないようですね?」 「そうじゃないんです。ただ、先生はあれだけあの娘を溺愛《できあい》なさっておられたわけですから……」 「ですから?」 「もう少し、恐怖心ではなくても、何か心の動きみたいなものが、表に現れてもいいのではないかと……権藤さんの依頼の件は抜きにして、もう一度あの娘に会わなければならない、という点に関しては、どうお考えなのです?」  なるほど、と比室はにっこり微笑んだ。「あなたは賢いお嬢さんですよ。ですからわたしもできるだけ賢く答えてみましょう。さて……わたしはあの娘を愛していました。けれどあの娘にわたしを愛することはできませんでした。そもそも人を愛することなんで不可能な存在ですし。今のわたしはそれをよく知っている、だからあの娘に対して必要以上の感情は持たない……こんな感じで、どうでしょう?」  どうでしょう、と言われても、五月はますます表情を暗くして塞《ふさ》ぎ込んでしまった。 「ま、あなたから見ると、こうして簡単に割り切ってしまうわたしのことが不可解なのでしょうね。なにしろあなたはまだ若い。何事も簡単に割り切れるのは、長く生きた人間の特権です」  長く生きた人間の特権?  違う。  この男は、長生きした経験から愛する者との距離を学んだのではない。この男の楽天性、無頓着《むとんちやく》な性質は、もともとこの男のものではない。七年前には、溺愛したアリスを養子に入れるほどの粘着性を持っていたし、やがてアリスが自分にもコントロールできなくなることを予見しながら、それでも手放せないという、鬱《うつ》気質のパーソナリティだった。  話は単純だ。「帰還者」となるために脳にメスを入れたとき、皮質の「注意警戒能力」を司《つかさど》る部位に損傷を受けたのだ。というか、そこにメスを入れなければ、比室叡久は「帰還者」にはなり得なかった。おかげで彼は、あちらの世界から「帰還」したとき、大脳生理学者の言うところの「左半球的人格」——楽天的、無頓着——に変貌《へんぼう》していた。彼はアリスへの想いを楽天的に処理した。その後の七年間を無頓着に過ごした。生みの親の勘で、アリスの目醒めを予見したにもかかわらず、へんてこりんなおとぎ話に絡めて語ったら、それでもう満足してしまった。かつての比室叡久ならそれでは済まなかったはずだ。喜んだり、恐れたり、大騒ぎして、もちろん権藤勲への警告も徹底させただろうし……  比室アリスの世界に引きずり込まれて、無事に「この世」に戻って来れる人間なんて、一人もいない。 「まあ、五月くん」比室叡久は、五月が自分の何を慮《おもんぱか》っているのか完全に見抜いたような口ぶりで、告げた。「そう悩まないことです。わたしがあまり悩まないのは本来のわたしの性質ではないのかもしれませんが、だからといってわたしにはどうにもならないのですし、いまさら『本来のわたし』なんてものを信じることもできません。であれば、五月くん、あとは、そう悩まないことです」  かもしれませんが、と五月はますます視線を伏せた。この老人は、持ち前の楽天性が本当の持ち前ではないことを知っていながら、それでも「持ち前」でやっていこうというのだから……考えてみればぞっとするような話だった。 「五月くん、あなたにもわかっているはずです。『この世界』の正体……わたしたちのこの世界は、一次元です。すべてはしがない一次元上の『夢』なんです。比室アリスの9・7次元が、それを思い知らせてくれました。我々は、一次元上の儚《はかな》い夢を追うことでしか、この世界を捉《とら》えられない……ですから、五月くん、どうせ夢見るならいい夢を見ましょう。あなたは難しい顔ばかりしている。すると世界まで難しくなってしまいますよ?」  わかります、とうなずきながらも、五月は疑問を投げ返した。「けれど……そうやって『自分』が変わってしまわれることが、先生は恐ろしくはないのですか?」  もちろん、と比室叡久はうなずいた。「昔のわたしは昔のわたしで、別の夢を見ていたのです。それだけの話ですよ」  なるほど……であればもう、何も言う事はなかった。  五月は窓の外へ視線をうつした。依然としてバンは真っ暗な山道をさ迷っていて、そこが世界のどの片隅だか、さっぱりわからなかった。やがて人工の光と規則正しい道路網で築かれた、山間の小都市に降り立ったけれど、五月は誰かの夢に降り立ったような虚《うつ》ろな気配しか覚えなかった。バンはそこで高速に上り、オレンジ色の高速をオレンジ色みたいに疾走し、二時間ほど走ったところで、数千万の夢のもつれた巨大都市へと迷い込んだ。そして前方に、房総半島の暗い山陰が見えてきた。     十九、  カイラス山のふもとでは、毛長牛の化け物に遭遇した勇者「コウイチロ」が——勇者の名前は五文字以内と決まっていた——、戦うべきか逃げるべきか、防御するかアビリティを使うか、プレイヤーの指示を待ち続けていた。  あと十八匹ほどこの毛長牛を叩《たた》き切れば、彼のレベルはひとつ上がって、カイラスに匹敵する戦闘力を手に入れられる。そうして山の聖霊の力を得るのが、彼の旅の当面の目標だった。というわけで勇者は、剣を構え、左右にステップを踏みながら、プレイヤーの指示を待っているのだけれど、いつまでたっても指示は下らなかった。残念ながら、勇者と一心同体であるべきプレイヤー——木原浩一郎——は、旅の目標を忽然《こつぜん》と見失っていた。百億の蝶《ちよう》に襲われて、世界を見失ってしまったのだ——「騒音問題」を巡って姉と紛争を繰り返していた現実世界のことも、邪悪に魅せられた皇帝を倒すために山の聖霊の力を得なければならない仮想世界のことも。浩一郎は、今ではどちらの世界も見て取ることができなくなって、「現実世界」と「仮想世界」を隔てるブラウン管の表面に呆然《ぼうぜん》と突っ伏していた。どっちが本当の世界なのか、なんて問題は、もはや彼には存在しなかった。なにしろ彼は、どっちの世界もどうでもよくなるような、圧倒的な「高次元世界」に接触したのだから。  不思議な虹《にじ》色の飛び交う中に、勇者をたたえるBGMがエンドレスで繰り返される。  一方、木原早百合は、居間の片隅の電子ピアノを不思議そうに眺めていた。同じく世界が見て取れなくなった彼女だけれど、彼女の場合、その電子ピアノのどこかに、「もとの世界」の名残があるような気がしていた——もっとも、それが「電子ピアノ」なのか何なのかは、よくわからなかったのだけれど——。やがて彼女は、不思議そうに立ち上がると、ふらふらとそれ[#「それ」に傍点]へ歩み寄った。おっかなびっくり、それ[#「それ」に傍点]へ指を伸ばす。「もとの世界」へのゲートに手を伸ばすような感じで。途端に、「ゲート」はとてつもなく気味の悪いものを轟《とどろ》かせた——実際には、黒鍵《こつけん》と白鍵の入り混じったこの世のものでもないような和音が響き渡った——。彼女は悲鳴を上げて飛び退いた。やっぱり、こんな奇怪なシロモノが「もとの世界」を取り戻してくれるだなんて、とんだ見当違いだったらしい。  が、その奇妙な和音に、浩一郎が敏感に反応した。  彼はすくりと立ち上がった。これまでほとんど立ち寄らないか、立ち寄ったとしてもロボット戦士の秘密基地に使って姉にぶん殴られるのがオチだったそのピアノに、彼は静かに歩み寄った。そこに立っていた姉を、姉とも思わないような邪険な手つきで追い払う。鍵盤を見下ろした。両手を構える——両手どころか、片手でメロディを辿《たど》ることもできないはずなのに。  彼は両手で鍵盤を弾《たた》いた。  音の群れが彼の頭になだれ込む。ずきり[#「ずきり」に傍点]、と脳裏に虹色が迸《ほとばし》った。その衝撃にふらついた直後、彼は光の中で、何かを一気に把握した。何かの巨大な全体像を、一瞬にして理解した。何を理解したのか言葉にならなかったし、どう理解したのか説明もつかなかったけれど、とにかく彼はそれ[#「それ」に傍点]に関する何もかもを、一瞬にして掴《つか》まえた。  ヒトの惨めな低次元ではとても掴まえきれないような、極めて高度な多次元で。  とすればあとはそれ[#「それ」に傍点]を、鍵盤の上に再現するだけだった。  勉強机の片隅で、目覚し時計が午後九時十六分を指そうとしていた。  島崎千裕は、卓上灯の虚ろな明りの中に、それをぼんやりと見凝《みつ》めていた。いつからそれを見凝めていたのか、わからなかったし、だいたいそれが何なのかもわからなかった。その文字盤と細い針が、いったい何の役に立つのかと、九時の方向に首を傾げるばかりだった。  さて……机の上には白紙のスケッチブックが広げてある。その右側に鉛筆が一本転がっている。そして左側には風景写真。で、これらはいったい、何なのだ?  わたしはいったい、何の途中だったのだ?  千裕は写真を手に取った。  川が流れている。奥から手前へ、緩やかに湾曲しながら。途中に寂しげな橋が渡っていた。遠くには、薄い山並みと、濃い夏の雲が……  びりびり[#「びりびり」に傍点]、と千裕の脳裏に虹色が迸った。  がくん、と千裕は、気色の悪い身震いに跳ね上がった。まるで脳裏の虹色に感電したかのように。そのまま彼女は、震えながら意識を遠のかせていったのだけれど……それが消え入る寸前に、真っ白なスケッチブックが目に入った。不意に彼女は、四肢の痙攣《けいれん》を振り切って、猛然とスケッチブックに食い入った。その白紙の表面に突っ伏して、穴が開くほど覗《のぞ》き込んだ。まあ、いくら覗いても白紙は白紙だろうが……  が、彼女には見えていた。  川が流れている。奥から手前へ。強い日差しが、川面《かわも》にきらきら反射している。途中に小さな橋があって、遠くには山、見上げると雲……  全部見える。  彼女の脳裏は、写真を一瞥《いちべつ》した瞬間に、そこにあったすべてのものを一挙に捕えた。そしてその全体像を一瞬にして記憶した。いわば、脳裏の閃光《せんこう》で景色のすべて[#「すべて」に傍点]を記憶に焼き付けた。ヒトのものとも思えないような、強烈な記憶力で。だから今の彼女には、白紙の表面にすべてが見えた。写真と同じ景色が、寸分の狂いもなく、「わたし」の「記憶」でもないような精密さで、そこに展開されていた。どこにも狂いがないものだから、すべてが忽然と静止して、「景色」とは思えないほど動きがないのだけれど、とにかくそこにすべてが見えた。  とすればあとは……千裕は我知らず、右手に鉛筆をひっとらえた。  五億年後の赤い数字を、ひとつずつ数え上げていく。  実際には、そのカレンダーは間違っていた。なにしろ白石淳平は、二〇〇二年のカレンダーだけを参考にしていた。だから彼は、四年に一度二月が二十九日になることを計算に入れてなかった。というわけで彼のカレンダーは、四年ごとに一日ずつ遅れていって、五億年過ぎる頃には約三十四万二千四百六十五年と九ヶ月ぶん、狂いが蓄積していた。実際には、うるう年は四年に一度だけではないから、さらに狂っているはずだ。  が、そんなこと淳平の知ったことではなかった。  彼が数えているのは「日付」ではない。そんな低次元な世界のルールは、蝶が吹き飛ばしてしまった。彼は「規則」を追っていく。五億回追っても揺るがない規則を。算数の授業で習ったような計算法ではとても追いつけないスピードで。それとはまったく違う、五億を一気にわしづかみにする多次元の計算術で。その計算術は、言葉では説明のしようがない。なにしろ淳平が今いる世界には、言葉がないのだから。  やがて彼は「五億年後の日曜日」へ舞い降りた。五億年後の日曜日には、蝶が軽やかに舞っていた。     二十、  本間和輝と賀谷耕平は、コントロールルームで見つかった被害者を地下三階の処置室へ運び降ろした。それから賀谷は、患者の監視を本間に任せて、自分はコントロールルームに引っ込んでしまった。というわけで本間は、処置室に一人残され、何に襲われたともしれない奇妙な患者を一人で見守る羽目になった。  国立脳科学研究センターの地下三階は、どういう施設なのか未《いま》だにはっきりしないまま、忽然と静まり返っていた。あんまり見事に静まり返っているものだから、本間はどうして自分がここに居るのか忘れてしまいそうだった。数時間前までは、見慣れた研究室で見飽きたデータの編集作業に従事していたはずだ。あの頃が夢のように感じられる。どうしてこんなことになってしまったんだっただろうか?  ……担当教授からの電話がはじまりだった。千葉で「瞭命館パニックパート2」が発生したことを、知らされた。山口にいる原口孝三郎の代理として、現地へ飛ばされた。「瞭命館パニック」の原因が何らかの感染性物質であると想定した上で、研究に使えるようなサンプルを集めるのが彼の使命だった。そのために持ち寄ったクーラーボックスは、今では座椅子となって本間の尻《しり》に敷かれている。  今、彼の目の前には「瞭命館パニック」の被害者が横たわっている。ここは処置室なのでひととおりの医療器具が揃っている。そして今は、本間和輝の行動を監視する人間もいない。とすれば、クーラーボックスの出番、なのかもしれないのだが……  本間和輝は、これでもいちおう、日本感染症学会の認定を受けた認定医だ。だから感染症に関してそれなりの推理は働く。その推理によれば……どうやら、「瞭命館パニック」の原因究明に関して感染症専門家のクーラーボックスが活躍することは、なさそうだった。 「瞭命館パニック」の原因は、感染症ではない。  国立脳科学研究センターは、単に「瞭命館パニックパート2」の舞台となっただけではなかった。そこはもともと、「瞭命館パニック」の原因究明に何らかの形で携わった施設だった。なにしろ「東晃大学事例調査委員会」委員長槌神総一郎の、馴染《なじ》みの場所なのだ。とすると、この施設を観察することは、瞭命館パニックに関する何らかの情報を観察することに繋《つな》がるはずだ……さて、施設の地下には異様な「ドーム」があった。「アリス」という異様な名前が取り交わされていた。その「アリス」が「ドーム」にいないことを槌神総一郎が叱咤《しつた》したのであれば、「ドーム」は「アリス」を隔離するための施設に違いなかった。さらには、その「アリス」が七年前の「瞭命館パニック」に関して何らかの情報を持っているのに、違いなかった。  最初本間は、「アリス」が瞭命館パニック原因物質のキャリアで、だから高度な危機管理のもとで隔離されているのかと思った。  が、どうやら違う。例えばこの処置室。「アリス」が危険な感染性物質のキャリアだとすれば、処置室にも高度な密封が施されなければならない。が、この部屋にそんな様子はない。どこぞの病院のナースステーションとたいして変わらない。それから、本間の着込んでいるビニール装備。槌神総一郎が「そんなものに意味はない」と言ったのは、二次感染や空気感染の恐れはないという意味にも取れたけれど、その後文科省の賀谷耕一は消防の連中に対する「建て前」として着るように催促したし、槌神総一郎もそれを「迷彩服」と揶揄《やゆ》した。要するに、文字通り「意味がない」……「瞭命館パニック」はこんなものが必要になるようなバイオハザードでもなければケミカルハザードでもないわけだ。  決定的な証拠は「ドーム」そのものだ。あれが何かを封じ込めるための施設であることは間違いないけれど、感染性物質を封じ込めているのではない。なにしろあんな施設では、感染性物質は封印できない。進入路を介して、ドームの内と外で空気が自由に出入りしてしまう。相手が空気感染のない感染性物質だったとしても、進入路の途中に消毒用の部屋くらい設けるはずだ。あの程度の危機管理ではバイオやケミカルの現場には使えない。「アリス」はどうやら、危険な微生物に感染もしていなければ化学物質にも汚染されていない。  この施設が「瞭命館パニック」原因究明の最先端だとしたら、その目指す先は感染症でも化学物質でもないのだ。  とすれば何なのか……目の前の患者がひとつの情報源になるはずだ。本間は改めて、マジックテープに縛られた患者の容態を見守った。意識障害——朦朧《もうろう》——。バイタルサインに異常はない。てんかん患者の発作直後の容態に似ているが、だったらこんなに長く続くはずがない。抗てんかん剤も、発作のコントロールではなく意識障害の重篤化を抑えるために使われているし、逆説的に精神運動発作という妙な但し書きがついてくる。とすれば、てんかん発作に似ているが本質的には別種の意識障害を伴う、何らかの中枢神経系障害……考えやすいのは脳炎や化学物質汚染だけれど、バイタルサインは平常だし、施設のつくりからバイオやケミカルの要因は無視されるから……なるほど、動静脈奇形だとか、脳|腫瘍《しゆよう》だとか。  そんな馬鹿な。七年前の犠牲者の数は六十八にも上ったのだ。動静脈奇形や脳腫瘍が六十八もの人間に同時多発するか? バイオやケミカルによる要因を無視し、大量発生するからには動静脈奇形のような器質障害も外されるとすると……いったい何が残る? あるいは、まるっきり目先を変えて、心理的パニック……それも有り得ない。なにしろ、だったら他に使える薬がいっぱいあるはずだ。どうしてわざわざ抗てんかん剤を使う? だいたい、とんでもなく恐ろしいものを見せられて、それで極度のストレスに襲われたとしても、それだけで六十八もの人間がばたばたぶっ倒れていくものか?  さっぱりわからない。バイオやケミカルの要因を除く、という条件が加わったせいで、ますますわからなくなってしまった。  なるほど、七年たっても原因がわからないわけだ。  さて、こうなってくると、原口孝三郎の代理として送り込まれた日本感染症学会の認定医は、何をすればいいのだろう?  大八木に事情を報告する?——これは単なる「瞭命館パニックパート2」ではなく、パート1の秘密を隠した施設で起こったパート2であり、しかもその秘密によるとどうやらパニックの原因は感染症ではない——しかし携帯電話は没収された。壁に電話があるけれど、どうやらあれは内線にしか通じていない。でなければ本間を一人処置室に残すことはしないだろう。だいたい、原因が感染症でないとしたら、感染症学会認定医の出番もない。文科省に身柄を拘束されてしまったから——軟禁程度ではあるが——、もはや原口孝三郎の代理とも言えないし……  ま、とりあえず目の前の患者の容態でも見守るかい、と本間はクーラーボックスの上にあぐらをかいた。ついでに、槌神総一郎から預かった上等な上着のことも、見守らなければならなかった。まったく、槌神総一郎は奇妙な男だった。見ず知らずの相手にこうしてぽんと上着を預けてしまうわけだし。本間はその上品な上着を、目の高さに吊《つ》るして眺めた。右の肩がやけに垂れ下がっている。右のポケットに何か入っていた。まさぐると、黄色い悲鳴を上げたくなるほど分厚い財布が出てきた。こんなものまであっさり他人に預けてしまうのだから、本当に槌神総一郎という男は……  財布の中身を吟味していた本間の手が、ぎくり、と止まった。  カード入れに、本間ではきっと契約を結んでもらえない立派なカードが束になって収まっていた。そのいちばん手前のカードだけ、社名もロゴもなかった。ブルー一色で、その一辺に紫色の磁気シートが貼ってある……槌神総一郎が、ドーム手前の検問扉を開けるときに使ったカードだ。  これがあれば、きっとこの施設のどこでも自由に冒険できる。  ……考えてみれば、この施設が「アリス」と呼ばれる「瞭命館パニック」にとって重要な何かを保管しているとすれば、その「アリス」に関する資料も、ファイル化されてどこかに保管されているはずだ。     二十一、  紺色のセダンの後部座席に槌神総一郎と並んで乗り込み、権藤勲は住宅街へと下った。かみたかくらアカデミック・エリアのふもとは、とにかく警察や消防が宵の口からひっきりなしに行き交うわけだから、いい加減住民らも怪訝《けげん》な顔をして路肩に集まったりしていた。被災地の手前で足止めを食らっている消防に、住民が詰め寄っている様子も見当たった。まあ、ああして詰め寄れるだけ無事な証拠だ。無事なうちに、彼らにはこの区域から退去してもらわなければならない。もう少し下ると、消防のメガフォンが住民らに「避難」を喚《わめ》いていた。そろそろ権藤の指定した「被災地」の縁だった。呼びかけに素直に応じる住民や、素直になれずに消防へ食ってかかる住民が入り混じり、一帯はまるで夏祭りだ。そんな騒動の最中《さなか》に、機動隊が黙々とフェンスを並べて、バリケードをこしらえていた。  やがて、祭りの騒動も遠ざかり、街はやけに静かになった。  静かな中を、誰かが祭りの現場へ駆けていく。ぞっと蒼褪《あおざ》めた、痙《ひ》き攣《つ》った表情をして……家族の誰かが、妙な何かに襲われてぶっ倒れたのかもしれない。それで消防に助けを求めに行くのかもしれない。傍らの軒で悲鳴が上がった。その向かいの軒の玄関から、誰かが勢いよく飛び出してきた、かと思ったら、卒倒してぶっ倒れてしまった。  いよいよ本格的な被災地へ踏み込んだらしかった。この奥のどこかで、比室アリスの「異次元」が炸裂《さくれつ》したのだ。とすれば……このあたりの住民はまだ幸運な方だ。いちおう走ったり喚いたりしているから。きっとこの先には、そんなことさえできなくなった人の群れが待っている。  権藤の額に、握った拳《こぶし》の裏側に、とんでもなく気味の悪い冷や汗が噴きはじめた。  やがて街は忽然《こつぜん》と静まり返った。  周囲の軒に、明りは灯《とも》っているのだけれど、その明りの下に人の気配はなかった。どこかの中庭から、あと一分少々で野球中継を終了|云々《うんぬん》ということわりが聞こえてきたけれど、それに憤る誰かの気配もなかった。街は、一見何の変哲もないまま、異次元みたいに静まり返っていた——実際この界隈《かいわい》を襲ったのは、人のものではない異次元なのだが——。物音ひとつ聞こえない路地に、街灯がぽつぽつと並んでいて、その途中に潰《つぶ》れた救急車が止まっていた。  権藤はドライバーの肩へ手をやり、車を止めるよう促した。  セダンの四枚の扉が開かれる。静まり返った街に、ぱらぱらと、文科省関係者らの足音が降り立った。四人は無言のまま救急車へ迫った。救急車がクラッシュしていたことは、権藤には意外だったけれど、搬送中にSが発生したのだと考えればあり得ない話ではなかったし、どっちにしても驚いている余裕などなかった。四人は救急車を遠巻きに取り囲む。権藤が進み出て、車内を覗《のぞ》く。運転席の景色に、悲痛に顔を伏せた。後部へ回り、荷台の中を覗いて、もうどっちに顔を伏せればいいのかもわからなくなった。 「どうなんだ?」傍若無人な槌神総一郎も、さすがに声を潜めながら、尋ねた。  権藤は首を振った。それから部下を一人招き寄せた。消防の救急車両三台に、特別に、被災地中心部への進入を許可するよう伝えた。サイレンは鳴らさず、発見された隊員三名を収容したら即座にその場を離れるように、と。指示を伝えているところに、槌神総一郎が歩み寄った。 「比室アリスは?」  権藤は再度首を振った。「中には見当たりません。どうやら事故には巻き込まれずにすんだようですが……」  が、おかげで救急車さえ見つければ収容できると思っていたのに、あてが外れた。権藤と槌神総一郎は、息を潜めて、周囲の街並みを見渡す。 「この辺りのどこかにいる、ということか?」 「……そう遠くへは行けないはずです。なにしろあの娘が『遠くへ行こう』なんて思いつくはずもないのですし……」 「手分けして探そう」槌神総一郎が決めた。この場では、冷や汗に塗《まみ》れて動転気味の権藤より、むしろ彼のほうが判断が正しかった。「救急隊が来るのであれば、この場に一人は残すべきだ。残りの三人で、手分けして周囲を探す。身を隠すような芸当ができるはずもないから、すぐに見つかるはずだ」  はあ、と権藤は虚《うつ》ろにうなずく。そうと決まれば、と動きはじめた槌神総一郎を、彼ははたと呼びとめた。 「何だ?」槌神総一郎はぎろりと振り返った。「わたしを一人で行かせるのは心配か? まださっきのドームでのことが気にかかるか?」  ええ、ともいえ、ともつかない感じで、権藤は曖昧《あいまい》にうなずいた。 「手分けしてアリスを探す。見つけたら何もせず、キミを呼ぶ。どう収容するかはキミの判断に任せるし、キミに決められないようだったら二人で決める。それでいいのだろう?」槌神総一郎は低く告げた。「わたしもキミと同じだ。この街の様子を見て意気地が砕けた。どうやら勝手なことをしている場合でもなさそうだ」  本間和輝は、賀谷耕一に頼まれていた患者の管理——と槌神総一郎の上着の管理——を放り出して、静まり返った地下フロアを訪ね歩いた。ということは、ちょうど槌神総一郎が勝手な行動を自粛したのと同じ頃に、彼は勝手なことをおっぱじめていた。  いくつかの扉の奥を覗いてみたけれど、専門書の書棚に使われていたり洗濯機が置かれていたりするばかりで、酷《ひど》いのになると何にも使われないまま放置されていた。けれどそれらの部屋のおかげで、本間は改めて「瞭命館パニック」が感染症ではないことを確認できた。どの部屋も、何の危機管理も施されていないし、サンプルを凍らせておく液体窒素もなければドラフトチェンバーもない。こんな設備では感染性微生物の管理はできない。  地下三階の探索を済ませると、本間は地下二階を後に回して地下一階へ向かった。なにしろ地下二階には、賀谷のいるコントロールルームがある。  地下一階は地下三階より部屋数が多かった。ドームに取られる面積が少なくなるからだろう。そのぶん、ドームの維持に必要な空調や配電などの機械室が目立つようになって、本間が覗いてもさっぱりわからない部屋ばかりだった。地下一階の最深部に、ロックに封じられた扉が三つ並んでいた。ここ以外にロックの施された扉は見当たらなかったから、あからさまに怪しかった。本間は、一番左の扉のロックを、槌神総一郎のカードで解除した。中を覗く。狭い部屋に書類棚がびっしり押し込まれていて、身体の向きを変えるのにも一苦労しそうだった。  どうやらビンゴだ。  カニ歩きで奥へ進む。鉄製の書類棚は、どの引き出しにも何のラベルも貼られていなかった。本間はとりあえず、いちばん奥の、いちばん下の引き出しを開いた。開くといよいよ本間の居場所がなくなって、右や左へ身体を捻《ねじ》りながら、彼は引き出しを覗き込んだ。中はすこぶる寂しかった。A4サイズの茶封筒ひとつきりだ。封筒の中からプラスチックのファイルが現れた。表に、『比室アリス、1993・12・15(AGE6)』と記されていた。  ファイルを開く。MRIによる一連の断層撮影写真だった。それも被験者の頭部ばかりを捉《とら》えたもので、一枚目から順に、頭頂から頸部《けいぶ》へと下っていた。それを一枚ずつめくりながら、次第に本間は、その断層写真に捉えられた明らかな「異常」に目を奪われていった。  比室アリス、一九九三年十二月十五日(当時六歳)の頭部断層撮影結果……  左半球がなかった。     二十二、  三十六が三の三倍の二倍の二倍に砕け散り、続いて現れた三十五も、七の五倍に弾《はじ》けた頃、春奈は別の光を見つけた。  街灯の光を追いながら、ちょうど十字路に差しかかったところだった。もちろん彼女の意識には、「街灯」も「十字路」も登場しなかったわけだけれど。交差した道は、一方で住宅地の斜面を旧市街へと下り、もう一方では山間へと登っていた。春奈は登りの道を見上げて、そこに光の群れを見つけた。  三基ほど群がった高層マンションの窓明かりだった。あの高台のマンションには、春奈の友達が暮らしている。春奈のおととしの担任も暮らしている。以前、友達のところに遊びに行ったとき、その担任と鉢合わせして、春奈は不思議な心地に襲われたことがある——センセイにも「おうち」があるんだ——。高台にそびえているのは、そんな素敵なマンションだ。  けれど春奈は、そんな素敵なことは何一つ思い出さなかった。  そもそも彼女には、マンションが見つけられなかった。その高台には、友達の家も担任との素敵な鉢合わせも、何もなかった。ただ、窓明かりがランダムに散らばっているだけだったし、実際のところその窓明かりすら見当たらなかった。春奈が見つけたのは、その窓明かりの総数——九十六、それだけだった。  あるいは、その九十六が三の二倍の二倍の二倍の二倍の二倍に砕けていく様を、うっとりしながら見守る、それだけだった。  三や二が弾けるたびに、春奈の鼻先に蝶《ちよう》が生まれては、虹《にじ》色を棚引かせながら舞い上がった。どうやら、こっちの方が蝶がいっぱいいるらしい。春奈は十字路に踵《きびす》を返した。通い慣れた道を高台へと登っていく——もちろん、「通い慣れた」も「高台」も、今の彼女の意識には登場しない。今彼女がいる世界では、そういうものはまったく意味を持ち得ない。なにしろそこは、「意味」そのものが意味を持ち得ない、壮絶な虹色の異次元なのだ。  と、彼女がこんな調子で「化け物」を連れ出してしまったため、権藤らが駆けつけた頃にはどこにも見当たらなかったのである。  まっさらなスケッチブックの右や左に、奇妙なラインが書き込まれた。最初は、気味の悪いペイズリー柄のような、無意味な線の群れだった。それが次第に、ひとつに繋《つな》がっていった。するとそこに、川が現れた。数キロ先で本流と交わる緩やかな支流が、画面奥から手前へ向けて通いはじめた。支流の途中に橋がかかった。橋の袂《たもと》に濃い影が落ちて、夏の強い日差しを感じさせた。川面《かわも》が日差しにきらきらと反射する。はるか彼方《かなた》に四国山地が霞《かす》む。その上空に、真夏の積雲がくっきりと映える。  それは、南国土佐の夏景色を一寸の狂いもなく再現した、化け物じみた風景画だった。  島崎千裕の右腕は、鉛筆をわしづかみにして、すさまじい勢いで紙面を駆け巡った。ほとんど鉛筆が千裕を振り回しているようなものだ。積雲は、力強い影を与えられて積雲らしい厚みを帯びた。傾きかけた停留所が、真夏の日差しにじりじりと焼かれている。この正確無比な精密画の作者が、一年前にはクレヨン頼りの「花火大会」でお茶を濁したなんて、誰も信じないはずだった。実際、今の千裕は一年前の千裕ではなかった。今の彼女は一年前とは違う「頭」で絵を描いていた。もしPET——陽電子断層撮影法——で彼女の脳の活動状態をスキャンできたなら、それがはっきり現れたことだろう。  今の彼女の絵画能力を支えているのは、強烈な記憶力だ。彼女は、絵の元となった写真のことを、最初の一瞥《いちべつ》で脳裏に焼き付けたきり、一度も振り返っていないのである。それでも彼女は、支流の湾曲の角度から、橋の欄干に見える柱の数のような間違えたって構わないような細部まで、すべて厳密に再現していた。文字通り、正確無比だった。  結局、その絵はあまりに正確すぎるため、絵としては死んでいた。厳格さと精密さが追求されるあまり、絵に動きがなくなって、景色が景色に見えないのだった。きらきらときらめく川面は、手を伸ばせば触れられそうなリアリティを保ちながら、近寄り難いほど静まり返っていた……そのリアリティは度を越していた——ほとんど非現実的なくらいに——。普通の人の感覚では、これほどの精密さで世界を捉えることはできない。そのときの印象や、そのときの感情や、そのときの体調が、現実世界に色を加える。いわば、作者の「自己」が世界を歪《ゆが》める。が、千裕の風景画にはそれが一切なかった。今の彼女は、自分の作品に何の印象もなかったし、何の絵心も浮かばなかったし、駆け巡る右腕が疲労に軋《きし》んでも気づきもしなかった…… 「自己」がないのだ。  きっと、夏休みの製作物としてこれを受け取る担任教師は、この絵にどんな評価もつけられないだろう。正確無比な風景画、なのに肝心の「風景」が見当たらないのだから。  そもそも、夏休みの課題は「水彩画」だ。鉛筆一本で描かれたこの風景画はレギュレーション違反に違いない。が、そんなの知ったことではない。千裕はただ、何かの全体像を完璧《かんぺき》に把握したからには、それを再現するだけだった。だから千裕は、一枚目が片付けばすぐに二枚目に取りかかった。二枚目にも、一枚目と同じ精密さと厳格さが再現された。そして「景色」そのものは見落とされた。二枚目が片付いたら、三枚目、そして四枚目……同じ精密さを永遠に繰り返しながら、千裕は次第に「世界」を忘れていった。虹色が棚引くばかりの「もうひとつの世界」へ、一歩、また一歩と、踏み込んでいくのだった。  九十六を追いかけて高台を上り詰めていく。けれどその足取りは、次第に鈍くなっていった。  胸に貼りついた化け物がかさばるから、だけではなかった。その九十六は、さっきの四十二とは違って、いくら追いかけても変化しなかった。一度、三の二倍の二倍の二倍の二倍の二倍に砕け散ったきり、ちっとも弾けなくなった。おかげで春奈は、そのうち九十六を見失った。弾けないのなら、「死んだ蠅」と同じで、見て取れないだけだ。マンションがマンションだということを見失って、ただ九十六しか見当たらなかったところに、その九十六まで見失われると、もう高台には何もなかった。やがて春奈は、坂の途中に、まるでいきなりそこに放り出されたかのように、呆然《ぼうぜん》と立ち止まった。  で、……ここはどこだったっけ?  わたし、何の途中だったっけ?  というか、「わたし」って何?  街はしんしんと静まり返っている。そこに、海から駆け上がってきた風が猛然と吹き荒《すさ》ぶ。胸には、化け物じみた顔立ちの少女がしがみついている。……何なんだ? このへんてこりんなシチュエーションは。どうしてこんなことになったのか、さっぱり思い出せないし、これからどういうことになるのかも、まるっきり思いつかない。  傍らに小さな公園がある。その片隅で、ブランコが風に軋んでいる。きりきりと、規則正しく……いや、その規則の中に、微妙な不規則が紛れ込んで、規則を夢のように揺るがせている。春奈はその揺らぎに惹《ひ》かれた。きりきりが、ちらちらと虹色を放って、素敵に視界を飛び交った。ブランコを吊《つ》るした、鋼の鎖の周辺に、春奈は蝶がひらひら舞っているのを見た。彼女はふらふら、ブランコに歩み寄った。胸に化け物を引きずりながら。  もしかしたら、そのブランコのきりきり[#「きりきり」に傍点]は、人の心臓の音に似ていたのかもしれない。規則的な繰り返しと、その規則に紛れ込んだ不規則な揺らぎ。とすれば、春奈が惹かれていくものは、胸の化け物が取り憑《つ》かれているものと同じだった。  ブランコの傍らに立つ。急に、風が勢いを増した。海からの風が、海の冷たさで、高台の春奈とブランコを打《ぶ》った。風にブランコのきりきりが乱れて、蝶がふわりとかき消された。春奈は反射的に、風の来る方角を振り返った。  わあ、と歓声を上げる。  十二万六千六百七十二が見渡せた。  公園の外れは、湾曲しながら海へと下る上高倉を一望できる、展望台となっていた。その壮大なパノラマに、十二万六千六百七十二が待っていた。そしてその十二万六千六百七十二が、春奈の目の前で、二十九の十三倍の七倍の三倍の二倍の二倍の二倍の二倍に砕け散っていくのだった。二十九や十三が砕け散るたびに、虹色が解き放たれて、蝶となって舞い上がっていくのだから、夏の夜空は一気に蝶に溢《あふ》れた。春奈の脳裏にびりびり[#「びりびり」に傍点]と電気が走った。まるで脳が引き裂かれるかのようだった。これだけ膨大な蝶の群れを、一気に捕えようとしたのだから、そりゃ引き裂かれても仕方がなかった。  びりびり[#「びりびり」に傍点]にきりきり舞いしながら、春奈は恍惚《こうこつ》と我を忘れた。痙攣《けいれん》に襲われ、膝《ひざ》をがくがくと笑わせながら、彼女は展望台によろめいた。傍らのブランコにしがみつき、鋼の鎖を不吉に騒がせると、彼女は化け物もろとも地面へ頽《くずお》れた。吊られた椅子に上体をあずけて止まる。その上体で、ブランコを揺り籠《かご》のように揺らしながら、彼女は再びきりきり[#「きりきり」に傍点]を耳にした。母親の心臓の鼓動に似た、1/f(f分の一)で不規則に揺らぐ微妙な複雑系……このままこの平和が永遠に続けばいい、と思った。永遠の規則と、永遠の不規則の狭間《はざま》で、無限に揺らいでいたかった。  ちなみに、彼女の目撃した十二万六千六百七十二というのは、湾曲しながら海へと下る上高倉に溢れたすべての光……そのうち、高台の公園から見渡せる限りのすべてのものを足し合わせた総数、だった。もちろん春奈は、一から足し合わせたわけではない。十二万六千六百七十二なんて、一から足していると夜が明ける。彼女はそれを、足し合わせたのではなく、言葉にならない異次元の計算術によって、全体像から一気に「直観」したのである。     二十三、 『比室アリス・1995・2・7(AGE7)、誕生日』  板張りの広い部屋は、どうやら障害者施設の一室だった。今その部屋で、比室アリスの七回目の誕生日を祝うパーティが、はじまろうとしていた。  本間和輝はモニターの映像に食い入った。映像は、シロウトの撮影らしく、ときどき妙に傾いたりぼやけたり、露出を間違えて真《ま》っ蒼《さお》になったりした。そんな不安定な映像の中央に、蝋燭《ろうそく》の七本立ったバースデーケーキと、七本を持て余してしまいそうな幼い少女の姿があった。  三つ並んだロック扉の二枚目は、映像資料の倉庫になっていた。VHSビデオと一体化した、十四型の安っぽいテレビも備わっていたので、その場でビデオを鑑賞することができた——そのためには、ビデオ棚とビデオ棚の狭間に身体をねじ込み、冷たい床に腹が冷えるのを我慢しなければならなかったのだが——。ビデオの中の誰かの指図で、大部屋の照明が切られ、一瞬ブラウン管が真っ暗になった。闇の中に七本の蝋燭が浮かび上がり、研究員たちの満ち足りた笑顔の群れが、蝋燭の周囲を取り囲んだ。祝われている少女だけが、何の表情もあらわさず、歳の数だけ並べられた蝋燭にも見向きもしないまま、呆然とたたずんでいた。  にしても、この視線——サッケード運動が見られない。サッケード運動……正常な視覚系が、何かを観察する時に見られる、黒目の小刻みな移動。上を見ては、左へ振り、右を見て、また左へ戻り、それから下へ……そんな動きが、だらだらと同じ速度で続くのではなく、動いては止まり、動いては止まる。これが、何かを観察するときのヒトの視線だ。  比室アリスには、それがまったく見られない。今に限らず、ビデオの再生をはじめてから、ここに至るまで、延々。何も観察していない、というのか?  とすると……  本間和輝は、いちおう医師免許を持っている。だから、隣の部屋で見たMRI撮影画像や、ビデオの中の少女の無表情や、その視線、そのとても七歳とは思えない成長ぶり——蝋燭を三、四本引っこ抜いて、やっと釣り合いが取れるはずだ——から、だいたいの事情は呑《の》み込める。  比室アリスは、器質的な要因を持つ発達障害児だ。  もしかすると、未熟児で生まれたのかもしれない。未熟児は誕生の瞬間に様々なリスクを負うことになる——ただでさえ誕生にはリスクが伴うわけだし——。そのハイリスクが、結果的に大脳半球の損傷を生むことがある。彼女の萎縮《いしゆく》した左半球は、その痕跡《こんせき》のように思われる。  さらに、この七歳当時の誕生パーティを覗《のぞ》いてみれば、その身体的成長は著しく遅れている。表情にも乏しいし、視線は何も観察していない。周産期に受けた左半球の損傷が、重篤な発達障害を引き起こしているのだ。  言葉も発しない。誕生ケーキに目もくれない。自閉症的な、外の世界に対する興味の欠落が見て取れる。比室アリスは器質的要因を持つ発達障害児だ……ただ、この動作や表情の乏しさは、器質的要因があるにしてもちょっと酷《ひど》い。もしかすると、誕生後の育児環境に何か問題があったのかもしれない——障害児を育てる両親が精神的・経済的に不安定だと、育児環境の破綻《はたん》する危険性が出てくる——。そうなると、精神病理的な意味での精神遅滞も加わって、器質的要因と複雑に絡み合ってしまう。一見してかなり重篤な比室アリスの無反応は、そういう複雑さを感じさせる。  ……にしても、だ。  この研究員どもの手放しの浮かれ様は、何なのだ?  蝋燭の周囲に、気味が悪いほどの微笑みの群れが並び、それらがハッピーバースデーを合唱している。肝心の比室アリスはといえば、合唱もへったくれもなく、傍らの虚空を見凝《みつ》めて止まっている。顔立ちはびっくりするほど美しくて、まるでお人形だけれど、その表情は死んだように静止していて、そういう意味でもお人形だ。合唱が終わった。研究員らが蝋燭を消せとはやし立てる。もちろん、比室アリスに蝋燭へ向かう気配はない。そもそも蝋燭を「観察」する視線すらない。結局、研究員らが先を争って吹き消してしまった。暗闇に歓声が上がる。部屋の照明が灯《とも》される。蒼白《あおじろ》い蛍光灯の下に、蒼白い顔の比室アリスが呆然とたたずんでいて、その周囲に研究員らの笑顔が押し寄せた。右へ左へ比室アリスを引きずっては抱き寄せる。もみくちゃにされながら、比室アリスにはやっぱり、何の表情もない。  ……なんなんだ、こいつら。  本間和輝には、比室アリスの病状については語れても、この研究員らのはしゃぎぶりには言葉もなかった。重度の発達障害に襲われて表情もない比室アリスに、どうして連中がこれほど熱狂するのか、さっぱりわからなかった。この少女、確かに見かけは美しいけれど、そこまでするほど魅力的とは思えない。  そもそもこの連中、どうして比室アリスを研究材料に選んだのだろう? 医局の頂点とも言える東晃大学医学部、その神経生理学科「比室研究室」チームは、一九九四年の春からこの少女の追跡調査をはじめている。そのへんのスケジュールに関しては、隣の資料庫ですでに確認した——ちなみに比室研究室のあったのは、一九九五年に最初のパニックを発生させた医学部第二研究棟、通称瞭命館だった——。確かに、これほど重篤な発達障害のケースは稀《まれ》だろうし、神経生理学の観点から調査するのも面白いだろうが、その程度のテーマなら余所《よそ》の大学でもやっている。東晃大学の医学部が乗り出すほどのテーマとも思えない。それにこの研究員たちは、比室アリスのことを研究材料として重宝しているというより、娘として溺愛《できあい》している。実際、チームリーダーの比室叡久教授は、障害者施設に入っていたこの少女のことを、研究材料として採用すると同時に養子に迎えているくらいだ——このへんの事情に関しても、隣の資料庫で確認した——。  こいつらいったい何に取り憑《つ》かれているんだ、と呆《あき》れて肩をすくめた本間だったけれど、直後にその肩は、ぎくり、とそら恐ろしげに跳ね上がった。  ビデオ映像に、とんでもないものが表れた。  その出現に、映像の中の研究員らがわっと[#「わっと」に傍点]沸いた。ただでさえ熱狂的だったものが、もう止《と》め処《ど》もなくなって、蜂の巣をつついたみたいに右や左へ騒ぎ立てた。本間の腹の底でも、何かがどっと[#「どっと」に傍点]騒ぎ立てて、それが一気に胸倉へこみ上げてきた。本間は十四型のテレビにかじりついた。そのまま彼の心は、七年前の誕生パーティへともぐり込み、周囲の研究員らと一緒になって、比室アリスの魅力に食い入った。  比室アリスが、笑っていた。  比室アリスは、その強烈な笑顔と内に秘めた超越的な異次元を除けば、生誕時に患った器質障害に育児環境の劣悪さから来る精神障害の加わった、悲惨な発達障害児に過ぎない。だから、一人でのこのこ遠出などできるはずもない。  にもかかわらず、救急車両の事故現場周辺に、その姿を見つけることはできなかった。  権藤勲は腕時計を覗いた。すでに二十二時を過ぎている。彼の前にも後ろにも、似たような住宅街が続いていて、それらがすべて死んだように静まり返っていた。早くアリスを確保して、槌神総一郎の手を借りて眠らせなければならない。でないと、この区域の救助活動がはじめられない。  しかし、比室アリス、どうしてこうも見事に消えてしまったのだ?  携帯の呼び出しが鳴った。  見つかったか! 権藤は携帯へ食いついた。アリス発見の一報、と思ったのだけれど、違った。相手は霞ヶ関の上司だった。かみたかくらアカデミック・エリアに設置された仮本部へ、今すぐ戻れと言うのである。  自治体が住民の避難を渋っている。文科省の説明が先だと主張しているらしい。でないと大規模な避難による混乱が自治体の責任になってしまうからだろう。というわけで、文科省は記者会見を準備した。すでに仮本部に各誌の記者が集まりはじめている。東晃大学事例調査委員会担当の権藤勲班長に、代表して記者会見に臨んでもらう。すぐに仮本部へ戻り、文科省幹部に連絡を入れ、会見内容の打ち合わせをすること。会見は二十二時三十分に予定されている。  なお、キミの独自の判断によって文科省の受けた支障に関しては、追々検討されることになる。  ……来るべきときが来たわけだ。会見の席に権藤勲が引っ張り出されることも、だいたい察しがついていた。にしても、何もこんなときに……  と舌打ちしている余裕もなかった。とにかく、記者会見だか何だか知らないがとっとと片付けて、アリスの捜索に戻るべきだった。権藤は現場で捜索にあたっている部下の一人へ電話連絡を入れた。自分はこれから仮本部に戻る。アリスの捜索は槌神総一郎を加えた三人で続けること。幹部に連絡を入れることになるので、その際文科省関係者の増員を頼んでみる。応援が来た場合には、お前が現場監督として捜索を指揮しろ。  と言い終える頃には、すでに権藤はセダンの運転席に納まって、エンジンをかけると同時にアクセルを蹴倒《けたお》していた。  ——先生、先生、見てください! アリスが、アリスが……  研究員の一人が、白衣の袖《そで》を引っ張りながら、小柄な初老の男を画面の中央へ引きずり込んだ。柔らかい表情の老人なのだけれど、その柔らかさはどことなく神経質で、アリスの笑顔に顔をほころばせながらも、漠然と不安げだった。引っ張られながら登場したという事は、これまでずっと、パーティの様子をひとり遠巻きに眺めていたことになるし。そういう引っ込み思案なところも、へ[#「へ」に傍点]の字に垂れた眉《まゆ》の形にはっきりと表れていた……とにかく、これがこのチームのリーダー、比室叡久に間違いなかった。比室叡久は、アリスの頬に手をやると、目尻《めじり》を下げてその顔立ちを覗き込んだ。が、もうアリスは笑っていなかった。虚《うつ》ろな無表情に戻っていて、養父の笑顔に見向きもしなかった。  どれ、と養父はいったん画面から消えた。三オクターブほど鍵盤《けんばん》の並んだ小さなシンセサイザーと、ラジカセを抱えて再登場する。彼はシンセサイザーをアリスの膝元《ひざもと》に並べ、ラジカセを傍らに置いた。ラジカセにCDをセットする。周囲の研究員らは、期待に胸膨らませながら、これからはじまる素晴らしい何かを待っている。本間も我知らず、次に何が起こるのか、頬を紅潮させて待ち構えた……どうやら彼も、映像の中の研究員らと同じで、さっき見かけた少女の笑顔に少々|呑《の》まれてしまっていた。  比室叡久がCDを再生させた。おそらく学校教材用の、幼稚で、退屈な、ハッピーバースデーだった。比室叡久はアリスの細い両腕を掴《つか》まえ、シンセサイザーの鍵盤にあてがった。アリスは、ぐしゃっと両の拳《こぶし》を下ろして奇怪な和音を響かせただけだったし、視線はシンセサイザーを捉《とら》えてもいなかった。その小さな手のひらを、比室叡久は鍵盤の上に捏《こ》ねくった。しばらくは、奇怪な和音が上がったり下がったりするだけだった。  が、その途中にふと、ラジカセの奏でるバースデーと同じメロディが現れた。  比室叡久はアリスの腕から手を離した。アリスは、相変わらず虚ろに虚空を見凝めたまま、鍵盤の上に左右の指をもごもごと蠢《うごめ》かせた。その稚拙な指使いからは、ちょっと想像つかないのだけれど、シンセサイザーは見事なバースデーを奏ではじめた。コードも完璧《かんぺき》、メロディも完璧。ふざけたトランペットのブレイクさえ、その指は完璧に真似てみせた。研究員らが喝采《かつさい》を上げる。喝采の中でCDとシンセサイザーの競演はクライマックスを迎えた。そして比室叡久は、もう必要ないとばかり、CDの演奏を止めた。確かにそれ以降CDは必要なかった。もとの演奏を聴かなくても、アリスは二度三度と、同じ楽曲を見事な正確さで再現することができたのだから。アリスの拙《つたな》い指使いは、コードもメロディもトランペットのブレイクも、ベースのソロですら、何もかも完璧に記憶していた。唯一の難点は、演奏にいまいち情感がこもっていない点だったけれど——アリスのそっぽを向いた無表情にそっくりな、一本調子だった——、例の笑顔に魅せられた人々には——本間も含めて——それでも十分胸打たれるパフォーマンスだった。正確さという点では寸分の狂いもないわけだし。  やがてリタルダントがかかり、「ハッピーバースデー・トゥ・ユー」をたっぷり歌い上げたところで、聴衆の惜しみない拍手に包まれながら、アリスはもう一度同じ曲を、同じ完璧さと、同じ素っ気無さで、頭からやりなおすのだった。以降、ビデオの映像にはそれが何度も何度も繰り返された。  それにしても、この才能は……  いつまでも比室アリスにひと目惚《めぼ》れしている場合ではない。今、目の前で展開された高度なスキルは、これはこれで比室アリスの発達障害の特徴的な一側面を、はっきりと伝えている。  ようやく見えてきた。東晃大学医学部神経生理学科が、比室アリスを研究テーマに採用した理由。  この少女、サヴァン能力者だ。     二十四、  権藤勲は、ついに記者会見などという馬鹿げた舞台に引きずり出されることになって、対策本部へ飛んでいった。槌神総一郎は、権藤の残した見知らぬ連中と——連中も「東晃大学事例調査委員会」担当のはずだから、以前に会っているのかもしれないが、槌神総一郎は会った人間の名前や顔をいちいち憶《おぼ》えるタイプではなかった——手分けして、現場にアリス捜索を続けた。  街は静まり返っている。恐ろしいほどの静けさだった。実際、この静寂の裏には恐怖が潜んでいた。静けさの中にいるすべての人間が、人間ではない知性の生み出した異次元へ引きずり込まれたという、恐怖。  この街のどこかに、あの化け物がいる。  槌神五月を「破壊」してしまった、化け物。  槌神総一郎が、まだ一度もその正体を見たことのない、化け物。  ——見せてもらわなければ[#「見せてもらわなければ」に傍点]、ならない[#「ならない」に傍点]——  とはいえ、……どうしてこうも綺麗《きれい》さっぱり消えてなくなったのだ?  比室アリスは、笑ったり歌ったりしない限り、一人の重篤な精神遅滞患者に過ぎない。一人ではどこへ行くこともできないし、ましてや身を隠すなんて、思いつくはずもない。なのにあの娘は、この静まり返った街中で、忽然《こつぜん》と消えてしまった……どうなっている?  はた、と槌神総一郎は立ち止まった。  ピアノが聞こえる。  異次元の静寂に包まれた街に、まるで嘘か何かのように、ピアノの調べが漂っている。  ……そんな馬鹿な。  この界隈《かいわい》は、あの化け物のSに襲われたのだ。人のものではない異次元に曝《さら》されたのだ。ピアノどころか、まともに立って歩ける者さえ、一人も残っていないはずだ。なのに……  槌神総一郎は、ピアノの音色にそぐわないおっかなげな[#「おっかなげな」に傍点]顔をして、夜の街を藪睨《やぶにら》みした。やがて、ごくり[#「ごくり」に傍点]とひとつ固唾《かたず》を呑むと、音色を手繰って歩き出した。  サヴァン能力。  重度の精神疾患や発達障害の患者の中に、稀《まれ》に現れる、非常に高度で限定的な「才能の孤島」。  名称自体は聞き慣れないけれど、映画やドキュメンタリーの題材になることも多いので、意外によく知られた現象だ。  例えば絵画。言語能力が低くIQも六十程度の自閉症患者が、絵画の分野でとてつもない能力を発揮する。一度見ただけの景色を、二度と振り返らずに、正確無比に絵画に再現する。街並みの一軒一軒や、ビルの窓の枚数まで、ほとんど見落とすことはない。「直観像」などとも呼ばれる能力だ。  あるいは、音楽。重篤な発達障害に襲われた患者が、ピアノを前にすると、誰に教わったわけでもないのに、耳に入った曲をすべてコピーしてしまう。どんな曲でも一度耳にすれば完全なコピーを演奏できる。そしてたいていの場合、誰かが止めるまで延々と演奏を続ける。  数学的な能力を持つサヴァンもいる。IQが低く、四則演算などできるはずのない自閉症患者が、四|桁《けた》同士の掛け算のような手順を踏まなければ完成しない計算を、一瞬で解いてしまう。あるいは、数万の自然数をたちまち素数分解する。数百万の素数を次々に羅列することもある。計算能力がカレンダーに特化するケースも多い。カレンダーの法則を完全に頭に叩《たた》き込んで、数年後や数百年後の○月第○週目の○曜日を完璧に答えられるのだ。  こうした特徴的な能力以外にも、サヴァン能力者は意外なところで意外な能力を発揮する。ジグソーパズルを与えると、とてつもない勢いで一気に仕上げてしまう。床にぶちまけられた画鋲《がびよう》の数を、一瞬のうちに数え上げる。時計を読むこともできないのに、毎日決まった時間に必ずテレビのスイッチを入れる。何年の何月何日に何があったかを信じられない緻密《ちみつ》さで記憶する。あるいは、施設に突然の訪問者があるとき、本人どころか施設の職員でさえそれを知らなかったにもかかわらず、朝から門の前で待っていた、なんていう超自然的な逸話も多い。  他の分野では極めて低い能力しか発揮できないのに、特定の分野の特定の作業においてのみ超越的なスキルを発揮するものだから、「才能の孤島」と呼ばれる。  さらに、その才能は「右半球の才能」と呼ばれることもある。  サヴァン能力者には、自閉症患者が多い。それも、成長の早い段階から自閉症の兆候を示す、早期幼児自閉症患者が。自閉症患者には、自分の世界に引きこもる傾向や、周囲の人に興味を示さない傾向とともに、言語能力や論理的思考力——IQ——の低迷が目立つ。言語や、論理的思考力は、一般には「左半球的能力」として知られている。  また、左半球に器質的な損傷を受けた場合にも、サヴァンの能力を発揮することがある。例えば、周産期の何らかの要因によって、左半球に損傷を受けた場合——比室アリスはこの例に相当するはずだ——。あるいは誕生後、後天的な理由で左半球に損傷を受けたときにも、極めて稀ではあるがサヴァンの能力が開花する。  要するに、サヴァン能力者はほとんどの場合、左半球的な能力に何らかの問題を抱えているのだ。左半球的能力、を端的にいえば、全体像から部分を抽出し、論理的に組みなおすことで世界を再構築する——抽象的世界を構築する——能力、となる。一方、一般に右半球的といわれる能力は、部分や論理を飛び越えて全体像を一気に把握する。部分を論理で繋《つな》いでいく左半球の逐次処理とは違って、手順を踏まず、直観的な一括処理に頼る。ちなみにサヴァン能力者のスキルは、景色を一瞬で記憶したり、一度聴いただけの曲を忠実にコピーしたり、手順を踏むべき掛け算を直観的に処理したり、ひとつずつ拾い上げるべき画鋲を一瞥《いちべつ》で数え上げたり……すべて一括処理だ。だから、人によってはサヴァンの能力を、「右半球の才能」と呼ぶ。  というわけで、だ。  本間和輝は、モニターの奥に虚《うつ》ろにうずくまる比室アリスを、鋭く睨んだ。彼女の指は、一本調子のハッピーバースデーをもう歳の数の二倍ほど繰り返していた。で、いい加減研究員らも——比室アリスファンクラブ、と呼んでもいいのだが——辟易《へきえき》してきたようで、その手元からキーボードを引っ手繰った。プレゼント交換がはじまる。交換というか、研究員らが一方的に押しつけるばかりなのだが。押しつけられた比室アリスは、虚ろに視線を漂わせたまま、小脇にねじ込まれたウサギの縫いぐるみを取り落としたり、膝元に積み上げられた地球に優しい木製の積み木を蹴倒《けたお》したりしていた。  今の本間和輝には、この虚ろな少女の正体がわかる。  比室アリス。周産期の何らかの要因によって左半球の萎縮《いしゆく》したケース。その器質障害が誕生後、重度の精神発達障害として顕在化した。言葉も発さず、周囲に関心も向けない。自閉症的な狭い世界に閉じ籠《こ》もっている。  で、その悲惨な精神発達障害児が、今聴いたばかりのハッピーバースデーをその場で見事に再現してみせた。キーボードにも自分の指にも、これといった関心も示さないまま。  比室アリスはサヴァン能力者だ。  槌神総一郎は、とある軒の玄関先に突っ立っていた。  玄関脇にこぢんまりとした庭があって、どうやら庭は居間に面していた。で、例のピアノは、その居間から漏れてくるのだった。  耳を済ますと……「アルルの女」に似た、勇ましい行進曲だった。ただ、あまり凝った構成の曲ではなかった。ふたつしかないパターンを、延々繰り返すばかりだ。それに演奏にも、いまいち「勇ましさ」がない。譜面を厳密に追っているだけのように感じられる。演奏そのものは、勇ましいどころか、まるっきり素っ気ない。ペダルも使っていないので、おかげでCDなどの演奏ではないことがすぐにわかる。  で、……どうするべきか。  CDの演奏ではない、ということは、やっぱり誰かがピアノに向かっているわけだ——アリスのSに吹き飛ばされた異次元の街で。東晃大学事例調査委員会現委員長の知識からすると、こんなことは有り得ない。Sに襲われた人間はすべて、恐ろしい痙攣《けいれん》に襲われるか、朦朧《もうろう》と世界を見失うか、どちらかしかないはずだ。実際のところピアノの前で何が起こっているのか、確かめておく必要がある。ただ……この異次元の街で「誰か」に「会う」のは、かなり気味の悪い話だった。それに、これからこの家の居間に踏み込むとして……チャイムを鳴らすべきなのだろうか?  街が街でもないみたいに静まり返っているものだから、チャイムなんか鳴らすのは馬鹿馬鹿しく感じられた。結局彼は、チャイムを無視して、どころか靴すら脱がないまま玄関に乗り込んだ。暗い廊下に、居間の明りが差し込んでいる。そこにピアノの音色が漏れている。槌神総一郎は居間へ踏み込んだ。  小学校高学年くらいの男の子が、ピアノに向かっていた。  しかしこれは……やっぱり正気じゃない。指は鍵盤を駆け巡っているけれど、視線は虚空を漂っている。口は半開きで、唾液《だえき》をたっぷり滴らせて……少年の脇に年長の少女がしゃがみ込んでいた。呆然《ぼうぜん》と、恐らく弟であろう少年の演奏に聞き入っている。やっぱりどちらも、Sに正気を吹き飛ばされている。  が、東晃大学事例調査委員会現委員長にいわせれば、それでもこの二人は驚異的だった。  なにしろ、Sの直撃を受けたはずなのに、少女はちらりと侵入者へ振り返ったのだ。少年は少年で、振り返りこそしなかったけれど、こうしてピアノを演奏している……有り得ない! 七年前のパニックの際、救助に入った消防へ振り返った人間なんて、一人もいなかった。ましてやピアノなんて……瞭命館にピアノはなかったかもしれないが……とにかく、比室アリスの異次元と接触しながらこんな高度な作業を続けられる人間など、いるはずがないのだ!  現に、すぐそこのソファでは、中年の男が——恐らく二人の父親だ——新聞の経済欄に包《くる》まってぶっ倒れているじゃないか。見ろ、ぴくりとも動かない。これが普通だ。あの異次元に接触したのなら、押しなべてこうなるべきなのだ。それなのに、なぜこの二人は——子供たち[#「子供たち」に傍点]は——、侵入者へ振り返ったり、ピアノに向かったり……  槌神総一郎はどういうことかと居間の左右を振り返った。つけっぱなしのテレビに、折り紙人形のような男がステップを踏んでいる。そのバックには折り紙人形の勇気を奮い立たせるような行進曲が繰り返されていて……なるほど、少年が演奏しているのはこの曲だ。槌神総一郎にはほとんど縁のない、テレビゲームのBGM。少年はこれと、呼吸を合わせて競演していた。その競演があまりに見事なものだから、ピアノの方に気を取られると、ゲーム機の演奏が聞き取れないくらいだ。  ……見事な、競演?  そういえば、少年の演奏、ゲーム側のオーケストラのほとんどすべての音を拾っている。普通、こういうものをピアノの楽譜に起こすなら、もう少し音を削るものだろうに。おかげでピアノのアレンジとしては落第点だ。これではまるで、スピーカーの演奏をまるっきりコピーしたに過ぎない。それはそれでたいした能力ではあるが……  そういえば、まったく同じタイプの「スキル」を、「比室アリス関連資料」の映像で見た記憶がある。  応接テーブルにテレビのリモコンが転がっていた。槌神総一郎はそれを手に取り、テレビの音量を絞った。少年の演奏は止まらなかった。相変わらずの一本調子で、勇ましくもないような行進曲を繰り返した。AメロとBメロが三回片付くのを待って、槌神総一郎はテレビの音量を戻した。恐ろしいことに、テレビの音量が戻ったことに気がつかないくらい、二つの演奏は見事にシンクロしていた。  これは……  この少年、まさか、比室アリスと同じ能力を発揮しているのか?     二十五、  対策本部に戻った途端、権藤の乗ったセダンに文科省幹部の送り込んだ使いの連中が乗り込んできた。そのまま車内で、「会見対策会議」がはじまった。  何を公表すべきか、何を公表すべきでないか、喧々諤々《けんけんがくがく》が展開される。使いの連中は、それぞれの携帯の向こうにそれぞれの上司を呼び出しては、ああだこうだと都合を尋ねる。セダンの周囲には消防の連中が忙《せわ》しなく行き交っている。そのうちの一人が車内に権藤を見つけて、運転席の扉をノックする。権藤は権藤で、喧喧諤諤を聞いておかないと後でとてつもない目玉を食らう。ノックは無視。喧喧諤諤に首を突っ込む。右と左で別のことを言っている。権藤が口を挟むと、黙っていろと追い返される。また扉がノックされる。使いの一人の提案に、権藤が食ってかかる。が、やっぱり連中は連中だけで話を進めていて、権藤の意見など聞くつもりはないらしい。また扉がノックされる。  ええい畜生、権藤は車外へ飛び出した。何なんだ、と詰め寄ってみると、消防隊長だった。  神妙な顔つきで、気になることがあるんです、などと言い出した。  消防はすでに被災地周縁部の救助活動をはじめた。その現場の救急隊員らから、気になる情報が上がってきている。さらに同じ類《たぐい》の話が、一一九番通報を受け取った消防本部からも入ってきた。  で? と権藤が要点を急《せ》かす。  消防隊長は、不思議そうに首を傾げながら、要点を告げた。「子供なんです[#「子供なんです」に傍点]」  サヴァン能力。一握りの知的障害者のみに宿る神秘的な能力。  その能力には、「右半球的」という要素に加えて、もうひとつ、「子供」という重要な要素がある。  ほとんどのサヴァン能力者は、七歳前後の幼少期にその能力を開花させるのだ。まだ十歳にも満たない、しかも知的にハンディを負った子供が、いきなりピアノを華麗にひいてみせる。あるいは完璧《かんぺき》な風景画を描き上げる。数百万の素数を羅列する。それこそ、「絶対に誰からも教わったはずがない」し、「教わっていたとしてもこれほどのレベルに達しているはずのない」ことを、彼らは平然とやってのける。  で、他のことをやらせるとてんでうまくいかないわけだから、まさに「才能の孤島」だ。  なんて感じでうなずきながら、本間和輝は十四型の小さなモニターを見凝《みつ》めていた。  ブラウン管の比室アリスは、今はその特異な能力を発揮していなかった。周囲にバースデーを祝う笑顔の群れも、うち捨てられたバースデープレゼントもなかった。すでにバースデーパーティは終了して、本間はテープを入れ替えていた。今度のテープは、同じ記録映像でも、記念撮影ではなく純粋に研究用だった。閑散とした昼間の施設の一室に、比室アリスが横たわっている。傍らに、うら若い女性研究員が一人。カメラは固定されていて、どうやら室内には二人きりだ。女性研究員は、虚《うつ》ろなアリスの手を取っては、何かを指差させる。そしてその名を耳元に囁《ささや》く——ビスケット、ビスケット……積み木、積み木——。ときどきアリスが、ありもしないような方角を指差すと、研究員は大喜びでその先にある何かの名前を連呼する——そう! イス、イス——。どうやら、言葉を習得するための訓練だった。  が、本間は、これにはちょっと、うなずくことができなかった。  女性研究員には悪いが、どうやらほとんど「言語訓練」になっていないのだ。なにしろ、比室アリスの指の先が、何かを指し示したとしても、視線はてんで別のところを漂っている。サッケード運動もないままに……彼女は何も「観察」していない、というわけだ。だから、その指の先にあるものを女性研究員が連呼したところで、まったく意味がない。だいたい、その指の先には、名前を呼べそうなものなど見当たらないことがほとんどだ。研究員が、一人で勝手に、何かを見つけて、喚《わめ》き散らしているのである。  そもそも、この少女に「言語」を「訓練」するという発想自体、無理があるんじゃないだろうか。言いにくい話だが、この少女の発達遅滞は重篤すぎる。器質的要因に加えて、明らかに、何らかの精神的要因が作用している。でなければ、ここまで世界を「無視」することはないだろう——まあ、本間はそちらの専門ではないので、はっきりとは言えないけれど——。要するに、器質的な障害児が、虐待とかネグレクトとか呼ばれる類の何かによって、精神病理的な自閉にすら陥っているわけだ。それを、七歳から取り戻そうというのは、残念だけれど、ちょっとばかり……  なんて本間の懸念を無視して、ビデオの中の女性研究員は、あれやこれやの名前の群れを溌剌《はつらつ》と連呼し続けた。  本間は、なんとなく憂鬱《ゆううつ》なその映像を停止させた。  とにかく、だ。これで「比室アリス」の正体がつかめた。「瞭命館パニック」の鍵《かぎ》を握る少女——七年前の「比室研究室」の研究対象だった少女。左半球の萎縮《いしゆく》した少女。その萎縮の影響で重篤な精神発達遅滞に陥った少女。何も「観察」しない少女。世界を「無視」した少女。にもかかわらず、突発的に、研究員らを惹《ひ》きつける異常な「笑顔」を放つ少女。さらには、研究員らを虜《とりこ》にする異常な才能をもつ少女……これが「瞭命館パニック」の正体……  ……あれ?  きょとん、と本間は首を傾げた。  比室アリス。確かにサヴァン能力者だ。けれど……それがどうして六十八人もの人間を吹き飛ばす? 対処的に抗てんかん剤が有効、なんて奇怪な意識障害と、サヴァン能力と、いったい何の関係がある? サヴァンの能力は驚異的、とはいってもせいぜいハッピーバースデーを延々繰り返す程度だ。どうしてそんなものが、例の重厚な「ドーム」に隔離されていた?  前代未聞の集団意識障害と、サヴァン能力者の比室アリスと、いったい何の関係がある?  なんだい、何にもわかっちゃいないじゃないか、と本間は苦々しげに肩をすくめた。いい加減|尻《しり》が寒くなってきたし、地下三階の患者のことも気になるので、いったん下へ戻ろうかと腰を上げた、ちょうどその瞬間だった。  壁のインターホンが、てかてかと「内線」を点滅させながら、呼び出しを轟《とどろ》かせた。  槌神総一郎は、虚を突かれたような面持ちで木原家の門を出た。勇ましくもないような行進曲に送り出されながら。  彼は木原家の居間で、三つのことを確認した。ひとつ、典型的なS被害者。父親と思われる人物が、新聞の経済欄に頭を突っ込んでぶっ倒れていた。台所に母親らしき人物が心肺停止しているのも確認している。  ひとつ、例外的なS被害者。木原家の子供二人——両名とも十歳前後——は、確かに意識障害に襲われていたけれど、S被害者としては極めて軽症だった。  さらに、そのうちのひとりが比室アリスと同種の能力——サヴァン能力——と思われるものを、発揮していた。これが三つ目の発見である。  無論、後者の二つが重大だ。いずれも、これまで知られていたS被害者の容態とは明らかに異なっている。いわば、例外。しかも、「例外」を示していたのはいずれも子供、十歳前後の児童だ。考えてみれば、七年前のパニックは大学施設で発生したから、十歳前後の未成年は被害者に含まれていない。その年齢で当時瞭命館にいたのは、比室アリスだけだ。児童年齢の未成年の被害者、というのは、このかみたかくらガーデニング・エリアが初めてなのだ。  アリスのSは、成人と児童年齢の未成年との間で、影響——効果——が違うのだろうか?  それとも、この例外はあくまで木原家だけに見られる例外なのだろうか?  それを確かめたければ……造作はない。ここは住宅街だ。確認にうってつけの核家族が周囲に山ほど群がっている。あとは、手当たり次第に訪ねて回るだけだ。     二十六、  午後十時三十六分。十時半に予定されていた文科省の会見がはじまった。  会見の席に現れた文部科学省科学技術・学術政策局計画官——現「東晃大学事例調査委員会」担当班長——、権藤勲は、事態の概要を大雑把に説明しただけだった。まず、現在千葉県多喜津市上高倉で発生している事態が、七年前に東晃大学で発生した大規模なパニックと同種のものだと思われること。それから、被害が「かみたかくらアカデミック・エリア」の国立脳科学研究センターと、ふもとの「かみたかくらガーデニング・エリア」に確認されていること。被災者の総数が、未確認ながら数百に及ぶこと。同様に総数は未確認だが死亡例が発生していること。以上の事態を踏まえ、文科省から地元自治体に対して住民の避難を申し入れたこと。これを受けて、地元自治体が被災地住民に退避命令を出したこと。それらを一方的に通達すると、権藤勲は記者らの質問を振り切って会見場から消えた。  こうして六分遅れではじまった会見は、わずか三分で終了した。  記者らは不満だったかもしれないが、文科省関係者にいわせればきっと及第点の会見だった。特に、住民の避難が文科省の判断ではなく、あくまで地元自治体の判断である点を強調したあたりは——実際、すべての説明の中で最も字数が割かれたのは、この点だった——。要するに、退避命令によって混乱が生じた場合文科省の責任ではない、という点をあらかじめ指摘しておくのが会見の骨子だったわけだ。とすれば権藤が三分で片付けたくなるのもうなずける。それに彼は、その会見の最中も、消防から耳打ちされた情報が頭を過《よぎ》って離れなかった。  十代半ば以前の児童と、成人との間で、意識障害の重篤度に較差が出ている。  子供の方が圧倒的に軽症らしいのである。被災地周縁部で救助活動をはじめた消防隊員らからの情報だった。どの軒でも、両親——成人——がぶっ倒れていて、そして子供たちは両親の異変を前に泡を食っていた。あるいは、どちらもぶっ倒れていたとしても、子供の方は混濁程度、大人は下手をすると心肺機能を停止していた。現地で救助にあたる消防隊員らは、最初のうち子供らの無事を奇跡のように喜んでいたのだが、やがて不可解に思いはじめた。で、本部の消防隊長に一報が入った。ちなみに、消防本部に入った一一九番通報も、ほとんどが子供からのものだったようだ。消防隊長は、ここ国立脳科学研究センターでも子供——七歳前後と思われる少女——だけ比較的軽症だったことを付け加えて、この情報の確度を強調してみせた。まあ、これはこれで、ちょいと話が違うわけだが。  とにかく、だ。子供の方が軽症というのはどうやら事実だった。「東晃大学事例調査委員会」担当班長の権藤勲にも、予想外の展開だ。七年前のパニックの際には、こんな現象は見られなかった……というか十歳前後の児童なんか現場には一人もいなかった——比室アリスを除けば——。だから、こんな話を聞かされても、さっぱりわけがわからない。七年前と違う展開に入ったのか、それとも七年前には確認されなかった事態が浮上してきただけなのか、それすらわからない。  会見を片付けた権藤は、アカデミック・エリアの外れに立って、ふもとの街を見下ろした。本当は、今すぐセダンを飛ばしてアリス捜索に戻りたいのだけれど、現在そのセダンは文科省幹部の使いどもに占拠されていた。会見の反省会、らしい。ちなみに連中、どうやらふもとの捜索活動に付き合うつもりはないようだった。  海へと下る光の群れは、今ではそちこちに赤い警告灯を巡らせて、ただならぬ気配に包まれていた。海から駆け上がってきた風が、権藤の身体をぴしゃりとぶって、ビニール装備をばたばたと騒がせた——文科省幹部の意向で、権藤は会見の席でもビニールを脱ぐことが許されなかった——。子供、か。考えてみれば比室アリスは、「七歳」から決して成長しようとしない、永遠の子供だ。そのアリスのSが、子供と大人を選《え》り分ける? 笛吹き男の笛の音のように?  ……だめだ。権藤勲は事務方の人間だ。こんなこと、一人で考えたって、学術的に答えを出せるわけがない。権藤はビニールの奥の胸ポケットから携帯を取り出した。槌神総一郎の番号を呼び出しかけて、やめた。あの男は今、アリス探しに奔走中だ。そっちに集中してもらうためにも、余計な耳打ちはやめておこう。下手に電話すると話が長くなってしまいそうだし。  権藤は長野組の番号を選んだ。  権藤に耳打ちされるまでもなく、槌神総一郎は消防と同じことに気がついて、そしてすっかりそっちに没頭していた。  木原家周辺の軒を、手当たり次第に訪ねて回る。訪問には、木原家での手順に習って、チャイムも鳴らさず土足で踏み込ませてもらった。学術的な新事実に、彼は興奮していた。と同時に、その新発見に「子供」が絡んでいたことを、彼は密《ひそ》かに恐れていた。  槌神総一郎にとって、子供は恐怖の対象だ。  貪欲《どんよく》な好奇心。理不尽な言動。かと思うと、他愛ない理屈にいつまでも執着して、大人をへとへとに困らせたりする。天性の快楽主義者。破壊と再生を繰り返す社会性。それらすべてを、野蛮なまでの勢いでフル稼働させる、強烈な生命力。存在自体がレッドゾーンだ。槌神総一郎に言わせれば、これほど予測不可能な相手はいない。  槌神五月もそうだった。四十近くになってようやく得られた「子宝」だけに、総一郎は思いつく限りのすべての「準備」を、五月の周囲に張り巡らせた。その将来を睨《にら》みながら、積み立てるべきものは早いうちから積み立てたし、分け与えるべきものは早いうちから分け与えた。最初のうちはうまくいった。少なくとも、五月が七歳くらいになるまでは。が、やがて彼女は、総一郎の知らないところから知らないものを持ち込みはじめた。くだらない歌謡曲からちょっとした言い回しに至るまで、総一郎には縁もゆかりもないような連中が、五月の中に巣食いはじめた。で、それを五月は、総一郎が積み立てたり分け与えたりしたものとないまぜにしながら、得体の知れない化け物へと育っていくのだった。総一郎の思い描いた「将来」が、怪しく霞《かす》みはじめた。何事も筋道を立てることによって、学者として成功してきたはずなのに、「我が子」にはそれが通用しなかった。学年が上がるにつれて、娘に対する戸惑いは募って、十四歳を過ぎた頃には、横目で盗み見るのも恐ろしくなった。いつの日か——というのはたぶん、娘が大人になって社会を知る頃——、この奇妙なわだかまりも消えて、可愛かった頃の娘に戻ってくれるだろう、なんて考えているうちに、槌神五月は「もうひとつの世界」に呑《の》み込まれた。そして二度と戻ってこなかった。娘はあちらの世界で父親の記憶を失った。憶《おぼ》えていたのは、名前と顔と、「父親」という続柄だけだった。  結局槌神総一郎にとって、槌神五月はまるで別の生き物のまま、消えてなくなった。  ところで、生理学者の目で見ると、確かに子供は大人とは別の生き物だ。  特に脳が違う——と槌神総一郎が考えたがるのは、彼が大脳生理学者だからかもしれないが——。子供の脳は——なかでも十代半ば以前の児童年齢の子供の脳は——、大人の脳とは生理学的にかけ離れた状態にある。まず、脳波が違う。大人の脳波が律動的な——リズミカルな——α波で安定しているのに対して、児童の脳波は不安定で、徐波傾向も目立つ。大人の基準から見ると、ほとんど病的状態なのだ。脳波を見慣れた内科医ほど、年齢を知らされずに脳波を読むと誤診してしまう。  神経細胞の生理的状態すら違う。十代以前の子供の中枢神経細胞は、シナプス結合を飛躍的に増やしながら、ネットワークの複雑化を押し進めていく。いわば、手に触れるものは何でも丸呑みする状態だ。これが、十代半ばを境に激変する。神経細胞の減少がはじまる。脳は、わずか十年とそこいらで、早くも死滅をはじめるのだ。もちろん、即脳機能の低下ではないのだけれど、十代以前の柔軟さが失われるのは間違いない。やがて必要なネットワークだけが生き残り、あまり使われないネットワークは枯死して、以降大規模な「配線換え」は起こらなくなる。いわば、「石頭」が完成する。それが成人の中枢神経系で、あとは石頭のまま枯れていくだけだ。  この「中枢神経系の生理的状態の違い」は、臨床の現場で露骨に現れる。例えば、左半球に何らかの外傷を受けたとする。半球のほとんどを摘出する必要が出たとする。この場合、左半球によって制御されている右半身の運動能力に大きな障害が残ることになる。こうした状態からの回復力が、大人と子供——特に十代半ば以前の——ではまったく違う。子供の場合、リハビリの効果は明快だ。おそらく、失われたはずの右半身の制御を取り戻すだろう——旺盛《おうせい》な「ネットワーク再生力」が、残された右半球に右半身の運動制御を「配線換え」するのだ——。左半球が制御するとされる言語能力すら、子供の可逆的な中枢神経系なら立派に取り戻すはずだ。  大人ではこうはいかない。リハビリは、子供に比べてはるかに憂鬱《ゆううつ》で長期に亘《わた》るものになる。結局、「ある程度」で満足するしかないだろう——子供の場合、下手をすると「走る」力すら取り戻すというのに——。言語能力にしても同じだ。大人が器質的な要因で言語能力に障害を抱えると、回復には相当な忍耐が必要になる。考えていることが言葉になりにくい状態や、考えていないことが言葉になる状態を、周囲の人間と協力しながら、ゆっくりと癒《いや》していかなければならない。最終的には、ある程度のコミュニケーションの乱れに「慣れる」ことが目標になるはずだ。子供の場合は、前述の通り、別のネットワークへの配線換えという必殺技を持っている。  子供の脳と大人の脳では、生命力が別物なのだ。ほとんど違う生き物なのである。大人の脳は、すでに世界への「順応」を果たしていて、そこから動くことを極端に恐れる——なぜなら、それ以上動けないから[#「それ以上動けないから」に傍点]、だ——。子供の場合、「順応」どころかまだ世界を吸収している段階だ。「変化」そのものが使命のようなものである。その変化のために、子供は持って生まれた生命力をフル稼働させる。それはもう、野蛮なくらいの勢いで。  ——……まさか、その野蛮なまでの生命力は、アリスの生み出す強烈な異次元すら、貪欲に吸収してしまうのか?——  槌神総一郎は、島崎家の二階の子供部屋で、その「圧倒的な生命力の差」に直面した。  照明の落とされた暗い子供部屋に、島崎千裕の書き殴った無数の風景画が散らばっていた。無数、ではあるけれど、一枚を手に取ればすべてを見たも同じ、寸分違わぬ川面《かわも》の景色の群れだった。槌神総一郎はその景色の精密さにぞっとした。完璧《かんぺき》すぎて、寒気すら覚えた。実際、これほど「瞬間」に切り取られた風景は、誰も見たことがないはずだった。風景画なのに、風景すら寄せつけないほど、静まり返っているのだ。  まるで、時間も言葉も、「わたし」という概念も通用しない……「もうひとつの世界」だ。島崎千裕は、確かにあちらの世界に呑まれている……が、ただ呑まれているだけではない。彼女の脳には、七年前の瞭命館の連中とは違って、野蛮なまでの生命力があった。その生命力で、比室アリスの提示した「フラクタル多次元的な世界の捉《とら》え方」を、貪《むさぼ》り食った。「アリスの世界」を吸収したのだ。だからこそ、こうして比室アリスと同じ能力——サヴァン能力——を発揮できる。すべての景色を一瞬のうちに把握し、完璧に再現する能力……フラクタル次元上の複雑なパターンを使って、世界を一気に折り畳む力——一括処理。木原家の少年も同じ能力を発揮していた。耳に入った音の群れを、逐次処理的な楽譜ではない「何か」によって一気に理解し、寸分|違《たが》わず再生していた……  なんてことだ。七年前には、当時瞭命館にいた六十八名の大人たち[#「大人たち」に傍点]が、何もないどこかへ吹き飛ばされた。みんな世界を見失った。それっきりだったはずだ。誰も戻ってこなかった。「帰還」できた二人にしても——槌神総一郎はそれを「帰還」とは認めていないが——、一人は恐らく遺伝と思われる器質上の偶然によって辛うじて世界を思い出し、そしてもう一人は、外科処置で強引に復活したに過ぎない。なのにこの子供たち[#「子供たち」に傍点]は……  ——子供の脳は、アリスの異次元に呑まれながらも、その時間も言葉も「わたし」という概念も通用しないアナザーワールドを、吸収してしまうというのか……戻るまでもない[#「戻るまでもない」に傍点]、というのか!——  何なんだ、この圧倒的な生命力の差は。  やはり、子供は大人とは別の生き物——化け物、なのか……     二十七、  この呼び出し、いったいどこの誰を呼び出しているんだ? と本間和輝が戸惑っているうちに、壁のインターホンは鳴り止んだ。  ……何だったんだ? 虚を突かれて身動きがとれなくなっているうちに、どうやら電話の相手が先に動いた。  ばんばんばん[#「ばんばんばん」に傍点]、と扉がノックされる。 「本間さん? いるんでしょう?」  ……文科省の賀谷耕一だ。とするとさっきの電話も……しかし賀谷は、どうして本間がここにいるのを知っていたのだ? まさか、携帯電話の発信装置で位置を確認して……「政府関係者」ならそれくらいやりそうだが……というのはちょっと考え過ぎか?……そもそも携帯は賀谷にぶん捕られたはずだぞ? 「槌神先生のカード使ったでしょう? コントロールルームのコンピューターに記録が残るんですよ」  なるほど。何事も、タネさえ明かされれば他愛ないものだ。 「出てきてください。実は、下がタイヘンなんです。処置室の患者が目を覚ましてしまって……」  バンが房総半島に差し掛かったところで、槌神五月の携帯が鳴った。  出る前から、五月には相手が誰なのか察しがついた。この携帯の番号は、ほんの一握りの人間しか知らない。「権藤さん?」 「五月さんですね? まだ車内ですか? ラジオか何か、聴いてます?」 「……ラジオ?」残念ながら、とてもそんな気分じゃなかった。 「いえ、聴いてないならいいのです。先ほど文科省の方から、千葉で起こっているパニックの件をマスコミに公表しました」  と聞かされても……特に関心もないような話だったので、五月には返す言葉もなかった。比室アリスに一度世界を吹き飛ばされて以来、彼女は自分の関心のない話にはほとんど興味が向かない——「死んだ蠅」のように見て取れない——のだ。 「で、……お電話したのはそういうことじゃなくて、アリスのSに関してなんです」 「S……あの娘のフラクタルですか?」狭量な彼女の世界における、ほとんど唯一の関心事だった。 「ええ、そのフラクタルとやらなんですが、……子供と大人で威力が違う、なんてこと、考えられます?」 「子供と、大人で?」 「ええ。例えば、子供はあんまり影響を受けない、とか」 「……何かあったんですか?」 「いえ、その……何があったのかもよくわからない状態なんですよ」 「子供にも被害者が出ているわけですね?」五月は沈痛に声を沈めた。考えてみれば、今度のパニックは住宅街で発生したのだから、当たり前のことだ。 「まあ、それはそうなんですが……ま、とにかく、子供のS被害者がどういう状態に陥るか、については、五月さんや比室先生にも情報はないのですね?」 「子供があの娘のフラクタルに接触したのは、今度がはじめてのはずですから」 「わかりました。早くこちらに来てください。詳細はこちらで」  と、権藤は電話を切ってしまった。  何だったんだ? 五月は煮え切らない思いで携帯を見凝《みつ》める。と、不意に傍らの闇の奥で、ふ[#「ふ」に傍点]、と誰かが笑った。 「なるほど。子供ですか……」  比室叡久が、闇からぬっ[#「ぬっ」に傍点]と顔を突き出した。 「そうですね……もしかしたら、あなた、『最後の扉』を開く前の子供なら、あちら側の世界に扉を開くかもしれません」  比室叡久は、ずいぶん前に五月に告げたおとぎ話の続きみたいなものを、朗らかに微笑みながら囁《ささや》いた。 「子供の脳なら、あの化け物じみた世界を『理解』できるのかも……」  五月は老人の話を真に受けなかった。その化け物じみた世界を目撃した彼女には、誰かにあの9・7次元が理解できるなんて、有り得ない話だった。彼女はただ、面白半分のような比室叡久の笑顔を、不愉快げに睨《にら》んだだけだった。  槌神総一郎は、サンプルとして島崎千裕の制作物を一枚拝借し、島崎家の門を出た。  街が静まり返っている。その静けさが、ほんの十五分前と今とでは、一変していた。さっきまでのそれは、人のものではない異次元を秘めた恐ろしい静けさだった。しかし今は違う。その人のものではない異次元が、子供たちのものになろうとしている。この静けさのそちこちで、子供たちの貪欲《どんよく》な生命力が、人のものではない異次元を吸収している。  ——子供め[#「子供め」に傍点]、やっぱり化け物だったか!——  その密《ひそ》かな脈動が、静寂の中に感じられる。静まり返った街を見渡しながら、槌神総一郎は破裂寸前の動脈|瘤《りゆう》でも見凝めているような心地だった。  彼がこの四半時間で回った家庭は、十二。すべての家庭で、典型的なS被害者の症状を呈した大人と、それに比べればはるかに症状の軽い子供——十代半ば以前の児童年齢の子供——を、確認した。間違いなく、子供の脳はアリスのSに対して「耐性」を持つのだ。それから、何らかのサヴァン的能力を発揮していた子供が、三名。ピアノを弾いていた少年——音楽的サヴァン——と、絵画に没頭していた少女——直観像——。さらに、つけっぱなしのテレビの声を延々真似ている少年にも遭遇した。声のトーンも、抑揚も、ぴったりテレビと一致していた。試しに槌神総一郎が声をかけると、槌神総一郎の声が返ってきた。自慢のドイツ語で語りかければ、相手も自慢のドイツ語を返した。  これもサヴァンの能力に極めて近い。少年がドイツ語を返したように、「言語学的サヴァン」も確かに存在するのだ。本人が絶対に知らないはずの言語で話しかけると、それを忠実に鸚鵡返《おうむがえ》しする。世界のどこの言語でも、完璧な発音でコピーする。この才能も、「普通の人とは違うやり方——一括処理——で対象を把握する」という意味では、サヴァン的だ。もっとも、当人は自分の言葉の意味までは把握していないから——サヴァンのやることには、スキルは極めて高度だけれど、意味のないことが多い——実際のところ「言語学的」ではないのだが。  この「言語症例」を加えれば、槌神総一郎が十二家庭で確認したサヴァン能力者の数は、三名だ。調査対象がわずかなので統計的には何とも言えないけれど、少なくとも、子供のS被害者はサヴァン能力に目醒《めざ》める可能性がある、ということは断言できる。その確率も、二割程度を期待していいのではないか。これはかなりの高確率だ。なにしろ、サヴァン能力者なんて滅多に現れるものではない。あまりにも稀《まれ》だから、統計的に人口の何割程度に発生するのか誰も知らないくらいだ。参考として、最も多くのサヴァン能力者を輩出している早期幼児自閉症患者では、十人に一人が何らかのサヴァン的兆候を顕《あらわ》す、と言われている。ただし、早期幼児自閉症患者自体は十万人に数人程度の発生率だ。  というわけで、まとめると……アリスのSに対して、十代半ば以前の子供の脳は「耐性」を持つ。さらにそのうちの一部が、一般よりも極めて高い確率で、比室アリスと同じサヴァン能力に覚醒《かくせい》する。言わば、「親和性」を発揮する……  ——これは……大発見だ——  すぐにでも知らせてやろう、と槌神総一郎は携帯を手に取った。きっと権藤勲は大喜びするぞ。     二十八、  国立脳科学研究センターの地下三階には、数人がかりで黒板を引っ掻《か》いているみたいなけたたましい何かが響き渡っていた。  下川徹の悲鳴、らしい。賀谷耕一の言う「逆説的に精神運動興奮」が発生したのだ。こうなると抗てんかん剤の投与を中断するしかないという。この状態のまま抗てんかん剤の投与を続けると、患者が急性致死性緊張病に近い状態に陥る——もはや逆説もへったくれもないような無茶苦茶な話だが——。ちなみに鎮静剤の類《たぐい》は使えない。鎮静剤は意識障害の重篤度を急激に悪化させる。最悪の場合心肺停止、簡単な設備しかないここの処置室では対処できない。 「ま、点滴さえ抜いてしまえば、あとは放っておいても害はないですから」  と賀谷は軽く請け負ったが、本間は地下三階に降り立った途端に、早くも凍りついてしまった。  なにしろその悲鳴、ただものではなかった。というか、正直、人の悲鳴ではなかった。ただけたたましいばかりで、悲鳴らしい痛切さも、惨めさもないのだった。まるで巨大な歯車が軋《きし》むみたいな、機械的な摩擦音……そこにときどき、奇妙なリズムが過《よぎ》る。耳障りな濁音の群れ、とでもいうような、気味の悪い何か。声量がリズミカルに上下し、音域もオクターブほど行き来し、そしてそんな波の合間を、濁音の群れが籠《こ》もったり張り裂けたりしながら、凄《すさ》まじい勢いで迸《ほとばし》る。何か意味のあることを言っているようにも感じられるのだけれど、実際のところまったく意味がない。耳を澄ましても、結局何も聞き取れないまま、とにかくけたたましくて、それはもう、脳裏にちらちら[#「ちらちら」に傍点]光が飛ぶほどで…… 「声のことはあんまり気にしないほうがいいですよ」賀谷がアドバイスした。「害はないらしいですが、人によっては、ちかちか[#「ちかちか」に傍点]点滅するテレビを見たときみたいな状態になるらしいですから」 「……PCR(光|痙攣《けいれん》応答)が賦活される?」 「何だか知りませんが、とにかくあんまり聞かないように」  聞かないように、と言われてもこの音量じゃ……それに、PCR? 光原性てんかん? アニメを明るくない部屋で離れずに見ると稀に現れる、アレか? 「瞭命館パニック」の被害者が、そんなもののモトになるような何かを、喚《わめ》き散らす? 光原性なのに、喚く?  それはもしかして、パニックの被害者に抗てんかん剤が効くのと関係しているのか? なんて疑問も、あまりの罵声《ばせい》の勢いに消し飛ばされながら、本間は処置室へ踏み込んだ。  下川徹は処置台の上に暴れ狂い、さきほど賀谷が施したぐるぐる巻きのマジックテープを半分ばかし引き裂いていた。上半身はすっかり自由になっていて、強《こわ》ばった腕をでたらめに振り回すのでうっかり近寄ることもできない。点滴の針は、抜くまでもなくとっくに弾《はじ》け飛んでいたけれど、その際静脈に傷が入らなかったのは幸いだった。やっぱり、本間が患者を見捨てて冒険心に走ったのは無責任だったかもしれない。とにかくこれが、かの有名な「瞭命館パニック」の、劇症例だ。  ……やっぱりわからない。  これと、サヴァン能力者である比室アリスと、いったいどういう関係があるのだ? 被害者の説明にたびたび出てくる「てんかん」と、ハッピーバースデーを歳の数の倍だけ繰り返す「右半球の天才児」と、どこに接点を見出《みいだ》せばいい? 比室アリスと瞭命館パニックは、やっぱり無関係なのか? それとも比室アリスには、サヴァン能力者以上の何かが隠されているのか? 何事も、タネさえ明かされれば他愛ない、はずなのだが……  てな自問にいちいち答えている余裕はなかった。とにかく今は、目の前の患者に猿ぐつわを噛《か》ませて——単に黙らせるためだけではない、放っておくと舌を噛み切る危険性がある——、もう一度マジックテープで縛り上げるのが先だった。しばらくは、何も考えられないほどの罵声に見舞われながら、狂暴に暴れる患者との格闘が続いた。  槌神五月への電話を切ったのと、ほとんど入れ替わりに、槌神総一郎から電話が入った。  アリス確保の一報に違いない。権藤は吉報に胸をときめかせた。おまけに槌神総一郎が、開口一番「大発見だ!」などと叫んだものだから、もう間違いないものと思われた。まあ、アリスを見つけて「大発見」というのは少々妙なニュアンスだな、とは感じたけれど。  で、以降槌神総一郎の大発見はとんちんかんな方向へ逸《そ》れていった。  子供だ、子供。アリスのSは大人と子供で効果が違う。子供の脳はアリスのSに対して「耐性」を持っている。意識障害が比較的軽度ですむんだよ[#「意識障害が比較的軽度ですむんだよ」に傍点]!  しかも、その子供たちの一部は「親和性」すら発揮する。比室アリスの提示する高次元世界を、自分のものとして吸収するのだ。わかるか? 子供たちの一部がサヴァン的能力[#「子供たちの一部がサヴァン的能力」に傍点]に目醒めているのだよ[#「に目醒めているのだよ」に傍点]! アリスと同じ能力だ。彼らの脳は、「もうひとつの世界」を、「理解」できる!  ……まあ、大発見には違いないらしいが。 「子供」の件に関しては、権藤も消防から聞かされていたから、槌神総一郎の報告はまったく無益というわけでもなかった。サヴァン能力|云々《うんぬん》、のくだりは初耳だし。しかし、だ。  権藤が槌神総一郎に期待したのは、アリスの回収だ。  そちらに集中してもらうために、彼は槌神総一郎への電話連絡を避けたくらいなのだ。  にもかかわらず……何やってんだ、槌神総一郎。  しばらく権藤の携帯には、子供だサヴァンだとお祭り騒ぎが続いた。で、頃合いを見て権藤は、こちらの要件を伝えた。 「で、比室アリスはどうなってます?」  権藤の携帯が忽然《こつぜん》と沈黙する。  ……どうやら、長野組の到着を待った方がよさそうだ。  本間和輝と賀谷耕一は、処置室の壁に背を預け、肩を並べて座り込んでいた。  処置台に下川徹ががんじがらめになっている。もう喚いてはいなかった。劇症は一時的に収まっていた。本間と賀谷は、肩で息を切りながら呆然《ぼうぜん》と処置台を見凝《みつ》めていた。なにしろ、下川徹を処置台に縛りなおすのは、並大抵の作業ではなかった。二人がかりでようやく、というか、結局二人がかりでも上手《うま》くいかなかった。下川の硬い拳《こぶし》に殴られながら、なんとかマジックテープを戻そうとしたのだけれど、かえって全部ほどけてしまった。下川は処置台から跳ねあがり、転がり落ち、立ち上がると、何かを喚きながら処置室を駆け巡った。もう二人ではどうすることもできなくなったのだけれど、幸いそこで下川は、処置室の壁に激突し、へなへなと頽《くずお》れた。で、ぴくりとも動かなくなった。  抗てんかん剤の投与中断が効果を現しはじめた……とは思えなかった。なにしろ、サーフロー針がいつ抜けたのかはわからないが、そう時間はたっていないはずだ。この短期間に抗てんかん剤の血中濃度が下がるとは思えない。また目覚めれば、例の劇症を示すわけだ。本間と賀谷は、下川が大人しくしている間にテープで縛りなおした。それから処置台に担ぎ上げ、本間和輝の判断で、電解質と栄養剤の投与をはじめた。  で、ひととおり片付いたところで、二人はいよいよ困憊《こんぱい》して、処置室の床にへたり込んだ。  同じ調子で肩を上下させながら、処置台の患者を見凝める。馬鹿げたビニールを着たままの大乱闘だったので、上昇した体温でビニールの裏側が蒸せ返って、熱い吐息の向こうに患者の姿が霞《かす》んで見えた。会話はなかったけれど、一連の困難な共同作業を通して、二人には妙な連帯感が生まれていた。少なくとも本間はそれを感じていた。なんなら肩を組んでやってもいいくらいだ。  で、その馴《な》れ馴れしさを手がかりに、本間は砕けた調子で賀谷へ話しかけた。「なるほど……これが、かの有名な『瞭命館パニック』の劇症例、というわけですか」  賀谷は吐息の合間にへらりと笑った。もう瞭命館じゃないですけど、とふざけた調子で付け加える。 「でも、……わかりませんね」本間が続けた。「対処的に抗てんかん剤が効いて、効きすぎると逆説的に精神運動興奮を起こすなんて。それに、PCRを賦活する、声? あれいったい何だったんです?」 「あれは……」どう答えてやろうかと、賀谷は荒い呼吸の合間に考えた。「カレを襲ったものの余波《なごり》、ですよ」 「余波《なごり》?」 「……ま、心配しなくてもさほどの害はありません。このパニックに二次災害はありませんから」 「あの奇妙な声[#「声」に傍点]が、カレを襲ったものの正体、というのですか?」  賀谷は、呼吸を繰り返すばかりで答えなかった。少々|喋《しやべ》り過ぎていることに気づいたのかもしれない。結局、さっきの話を繰り返しただけだった。「余波《なごり》です。欠片《かけら》ですよ。害はありません」  ……PCRを賦活するような声が、パニックを引き起こしたものの、正体、というかその欠片……で、被害者は意識障害に襲われ、それには対処的に抗てんかん剤が効く……もう少し踏み込んでみたかったけれど、どうやら賀谷が警戒しはじめていたので、本間は話題をかえた。「わたしは、瞭命館パニックってインフルエンザ脳炎みたいな感染症かと思っていたんですけどね」  ははは、と賀谷は笑った。違うね、と言っているようなものだった。 「このフロアにある大きなドームは、何なんです?」  ははは、と賀谷はまた笑った。今度は、言えやしない、と言っていた。 「比室アリス、というのは?」  う、と賀谷は笑いを呑《の》み込んだ。三つ目はあまり面白くなかったらしい。表情が厳しくなったので、どうやら彼は、本間和輝が資料室を覗《のぞ》き見していたことを思い出した。 「彼女、サヴァン能力者でしょう?」どうせそれを思い出させてしまったのなら、本間はこちらから切り札を切ってみた。「で、瞭命館パニックの原因です。……わからないんですよ、どうしてただのサヴァン能力者が、山ほどの人間を意識障害に追い込んだりするのか」  賀谷は、喋らない。荒い呼吸すら押し殺している。どうやら、本間和輝がどこまで盗み見たのか、確かめようとしていた。 「耳に入った曲を何でもコピーできるからといって、他人の意識を吹き飛ばすのとは別の話ですからね」  ちらり、と賀谷が笑った……余裕? 「比室アリスは、ただのサヴァン能力者じゃありませんよ」 「……みたいですね」と本間は呟《つぶや》きながら、だったらどうただものじゃないのか、賀谷が告げてくれることを期待した。 「サヴァン能力って、不思議でしょう? 我々には信じられないようなことを、一瞬でやってのける。で、我々には、なぜそれができるのかまったく説明がつかない。論理的な説明のしようがないんです。なぜだかわかります?」  は? と本間は首を傾げた。 「彼らのやってみせること自体が、我々の『論理』の次元じゃないからです」  本間は……困ってしまった。確かに話題は比室アリスのただものではなさに向かっているようだが……これじゃちっとも、わけがわからない。 「サヴァン能力者にはね、我々とは違う世界が見えているんです。特に比室アリスには。彼女は、自分にしか見えない高次元の世界を、完全に自分のものにしています。ただの人間じゃないし、ただのサヴァンですらないんです。頭抜けているんですよ。化け物です」  ……いや、もっと病理的な解説を聞きたかったのだが…… 「棲《す》む世界が違う……『世界観』が違うんです。本間さん、あなたさっき、何がカレを」——と告げながら賀谷は処置台の下川を指差した——「何がカレを襲ったのか、と訊《き》きましたね?」  ええ、と本間がうなずく。 「カレを襲ったのは、その『世界観』です。比室アリスの世界、ですよ。だからカレ、自分の世界が見えなくなった。それで錯乱したんです」 「あの……」本間はだんだん、新興宗教の信者とでも話しているような心地になってきた。「……世界観の、なにが[#「なにが」に傍点]、感染するんです?」  賀谷はにっこり微笑んだ。「わたしとあなたは、どうやって世界観を受け渡します?」  ……なんだそりゃ? 賀谷は相変わらず微笑んでいる。ちょっと自慢げな感じで……なるほど……  この野郎、冷やかしやがったな。  こっちがさほど多くを知らないのを見抜いて、こっちのわからない話で煙《けむ》に巻きやがったな。  はん、と賀谷は勝《か》ち鬨《どき》のように鼻笑いした。「とにかく、本間さん、そこまで知ってしまわれたとすれば、もうただじゃすまないですよ? お宅、お勤めは、ええと……」 「光凜大学です」 「しばらくそちらには戻れないかもしれませんね」 「……ま、戻っても、わたしには関係ない論文の編集を手伝わされるだけですから」  と強がる本間に、賀谷はなんなら肩を組んでやってもいい、というような馴れ馴れしい感じで、微笑んで見せた。     二十九、  午後十一時。  長野組のバンはついに館山自動車道を離れ、山間の一般道を上高倉へ向けて登っていた。  バンが、館山道を多喜津まで下って上高倉へ登るルートを選ばなかったのは、幸運だった。何しろそのルートは、現在海辺の旧市街を目指す避難民の列で埋め尽くされていた。当初自治体は、避難誘導に東海地震を想定したマニュアルを採用しようとしたのだけれど、これは端《はな》から計画倒れだった。なにしろ、そのマニュアルによれば被災地住民を被災指定区域内に誘導することになるのだから。仕方がないので、自治体は避難民を旧市街の学校施設に割り振った。学校の体育館が埋まってしまうと、市の体育館や「文化センター」の門を開けた。それでもすべての避難民を収容できるか、怪しかった。自治体の退避命令とは別に、自主避難した住民が相当数に上っていて、一万を越えたあたりから何が何だかわからなくなってしまったのである。しかもその未知数の避難民の群れが、再三警告したにもかかわらずマイカーで旧市街へ下ってくるものだから、旧市街全体が駐車場と化していた。さらには、市内のあらゆる避難所で住民の不満が爆発し、市の職員との間で小競り合いが発生し……これがあるから、文科省は避難の最終判断を自治体に丸投げしたわけだ。  これだけの騒ぎの中で、暴動や火事場泥棒が乱発しないのだから、その点だけは立派だった。まあ、文科省関係者が約一名、他人の家に土足で上がり込んで夏休みの課題を拝借していたが。  幸い長野組のバンは、木更津北ICで館山道《たてやまどう》を下りていたので、この騒ぎを回避することができた。  同じ千葉県南西部でも、木更津側は静まり返っていた。アカデミック・エリア全体が被災地に指定されたので、山を越えて木更津側へ避難民が流れることはなかった。立ち入り禁止区域は、アカデミック・エリアの木更津側のふもとまで下っていて、人気のない山道の途中に非常線が張られていた。非常線の機動隊員らは、バンの到着を文科省側から事前に知らされていたらしく、簡単な確認を済ませるとすぐにバンの通過を許可した。  やがて、かみたかくらアカデミック・エリアの広大な更地が姿をあらわした。 「二十一世紀の学術都市」を育《はぐく》むために誘致された研究施設は、二十一世紀どころかエリアを五十メートル進んだだけで早くも途絶えた。あとはただ、緑の更地の連なる斜面を夜間照明が煌々《こうこう》と照らすばかで、アカデミックというよりドッグレッグのロングホールだった。ロングホールのふもとに、ぽつんと最後の研究施設があった。その壁面に投光機の光が交差している。施設正面の仮設テントに人影が右往左往していた。国立脳科学研究センター、だった。  バンは、いつの間にか駐車場になってしまった施設脇の更地に乗り入れ、エンジンを止めた。  槌神五月はバンを降りた。海から駆け上がってきた突風がいきなり彼女に吹きつけて、激しく髪を逆立てた。長野施設の職員らが、バン後部のウインチを操作して、比室叡久の電動車椅子を更地へ下ろした。五月はそれを待たずに歩きだした。忙《せわ》しない仮設テントを素通りし、アカデミック・エリアの外れに立つ。  湾曲しながら海へと下るガーデニング・エリアの光の川を、一望……できるはずだった。  が、川が消えていた。それは、すでに一帯の住民らが被災民と化して去っていった、という証拠だった。今ではひっそりした闇の中に、赤い光ばかりが不吉に駆け巡っていた。そこから海辺へ下るまで、延々闇が続いている。海辺には、旧市街の光が集まり、その周辺を被災民のマイカーのテールランプが毛細血管のように取り囲んでいた。今ごろあの光の中は被災民の大群で大騒ぎだろう。その騒動も、アカデミック・エリアまでは届かず、赤く蒸した夏の夜空になんとなく立ち込めているだけだった。  アカデミック・エリアには、仮設テントの騒動を除けば、あとは百万ほどの秋の虫が猛烈な勢いで鳴き交わすばかりだった。  秋の虫は……アリスの異次元に曝《さら》されても平気なのだろうか? 五月はふと、夢みたいなことを思いついた。きっと平気なのだろう。アリスの異次元は、人が閉じ籠《こ》もった低次元な夢見の世界を吹き飛ばす。きっと虫たちは、吹き飛ばされるほど自覚的には、世界を「意識」していない。  まあ、賀谷耕一は本間和輝を適当にあしらったつもりなのだろうが、それはそれで、ある程度の情報を含んでいた。  最大の収穫は、パニック被害者を襲ったものの正体……音、だ。下川徹は、脳波異常を引き起こすような奇怪な「音声」に遭遇した。そして中枢神経系の障害の疑われる全身|痙攣《けいれん》を伴う意識障害に襲われた。で、抗てんかん剤の「効きすぎ」で逆説的に精神運動興奮に陥った……その際に、彼は自分を襲ったものに近い「音」を再生した。ただしそれは、「欠片《かけら》」なので、人によってPCRを賦活する程度で、基本的に害はない。  ということは、「欠片」になる前の「そのもの」は、「人によって」どころかあらゆる人間の脳波を、PCRどころか二度と回復しないようなところまで、破綻《はたん》させる……  そんな音が、有り得るのか?  そんな音と、比室アリスと、何の関係があるのだ?  しかし……そういえば、あの「ドーム」。何かを封印するための施設に違いないが、感染性物質ではない……音? 声? たしかに、あのドームの重厚さが、音を遮断するための重厚さだとしたら……  じゃ、比室アリスは、何かとんでもない悲鳴でも上げて、瞭命館の六十八名や、この施設の職員らを、吹き飛ばしたというのか?  そのことと、彼女がサヴァン能力者であることと、何の関係がある?  やっぱり、比室アリスはサヴァン能力者である、という事実が、どうしてもパニックと結びつかない。本間が資料室で盗み見た限り、比室アリスには「サヴァン能力」以外特別なところは見当たらなかったのだが……そういえば、パニックの拡大する原因について、賀谷耕一は別の言い方もしていた。  ——カレを襲ったのは、「世界観」です。比室アリスの世界、ですよ——  比室アリスの、「世界観」? そんなものの、何が[#「何が」に傍点]、どうやって[#「どうやって」に傍点]、人に感染していく?  ——わたしとあなたは、どうやって世界観を受け渡します?——  ……?  さっぱりわからない……まあ、小一時間前よりはずっと進歩したらしいが。  本間は処置室の壁に重いため息を漏らした。肩を組むほど仲のよくなった賀谷耕一は、今は処置室にはいなかった。コントロールルームにいるらしい。が、今では彼も、施設内でカードを使った形跡が残るというコンピューターのことを、ちゃんと見張っているはずだ。ときどきわざわざ処置室へ見回りに来るくらいだし。もう一度資料室へ潜入するのは、難しそうだ。  処置台の下川徹は、今はすやすやと寝入っていた。まあ、「昏睡《こんすい》」という表現を当てはめてもいいのだが。呼吸や脈は意外にしっかりしていたけれど、呼びかけても揺り起こしても反応がないので、確かに意識障害が続いていた。ふと、誰かの足音が、階段を地下三階へと下ってきた。館内が見事に静まり返っているものだから、踊り場を巡ったあたりからもうその足音が聞こえた。処置室へ迫ってくる。 「どうです? カレの様子」賀谷耕一だった。 「見てのとおりですよ」本間は床から腰を上げ、背伸びをしながら答えた。「寝てます。バイタルサインは良好。けど、いくつか刺激を試してみましたけれど、反応しません。こう見えて、案外、重篤な意識障害ですよ」 「でも、刺激しても起きないんですね? もう大丈夫、ですよね?」賀谷は、下川徹が大丈夫かどうかではなく、また例の興奮状態と格闘するようなことにならないか、自分の身体を心配していた。 「わかりませんね」本間は素っ気無く答えた。「抗てんかん剤が吸収されるまではまだ時間がかかるでしょうし、抗てんかん剤がさっきの興奮の原因なら、もうしばらくは目を覚ますたびに暴れるのでしょう」 「だったら……刺激なんか試さないでくださいよ」  携帯の呼び出しが鳴った。賀谷がビニールの奥の胸ポケットをまさぐる。僕のだったら返してくださいね、と本間は恨み言をくれてやったが、賀谷の携帯だった。賀谷は、ちらりと本間に背を向けて、携帯に出た。  賀谷は、しばらく小声でやり取りをして、携帯を切った。ビニールの裏の胸ポケットへ戻す。「上へ行きます」  ああそうですか、と本間は処置室の床へ座りなおそうとした。 「あなたもですよ」 「僕も?」 「権藤から何か話があるようです。長野からの応援も到着したみたいですし」 「……長野?」  賀谷は、ぬっと本間へ顔を寄せると、物見高げに囁《ささや》いた。「槌神総一郎の娘[#「槌神総一郎の娘」に傍点]が到着したんですよ」  権藤勲は、虫の声を踏み分けながら槌神五月の背後に立った。  ぴくり、と槌神五月が振り返る。小動物のような神経質な反応だった。 「どうも」権藤が低く挨拶《あいさつ》する。「ご無沙汰《ぶさた》しています。ご足労感謝します。こちらの失態でとんでもないことになってしまって……」  槌神五月は、権藤の挨拶を、切れ長の目尻《めじり》で冷ややかに聞いている。  二十六の時にアリスのSに襲われて、それから七年、槌神五月はこの春に三十三になったはずだった。が、槌神五月の風貌《ふうぼう》は、その二十六で止まっていた。小柄で、サナトリウム暮らしに肌は蒼褪《あおざ》め、唇ばかりが赤かった。髪は肩の上で、ばっさり、ほとんど愛着もないみたいに刈り揃えられている。切れ長で冷たい印象の瞳《ひとみ》は、かえって顔立ちを子供っぽく見せていた。その瞳は、七年前の惨事によって、世界の大半を見失った。だからその表情は、冷たく凍りついたまま、海からの突風に黒髪ばかりが暴れている……その喪失感は、強烈で、ちょっと魅力的なくらいだ。こんなものを魅力と呼ぶのは不謹慎に違いないが。  だいたい権藤には妻子もいるわけだし。「槌神総一郎氏もこちらに来られています」 「そうですか」父親の名前を出してみても、その表情に変化はなかった。 「現在先生は、ふもとでアリスの捜索にあたっておられるところでして……」 「アリスの捜索?」その名前には機敏に反応した。「まだ見つからないのですか?」  まあね、と権藤は、申し訳なさげに頭を掻《か》く。「どういうわけか、どこにも姿が見当たりませんでね」 「あの娘が自分の意志でどこかに隠れるなんて、考えられませんけど?」 「だからこっちも困ってるんですよ」  ふん、と五月は鼻先でうなずくと、仮設テントへ向けて歩きだした。 「で、さっき電話した件ですが……」 「子供がどうの、という話ですね?」 「消防から妙な情報が入ってるんです」権藤は五月の背中を追いながら続けた。「消防には現在、ふもとで被災者の救助にあたってもらってますが、どうやら子供と大人で意識障害の重さに較差が出てます。子供の方が圧倒的に軽症らしくて」 「軽症、といっても、どういうものなんです?」 「直接見たわけじゃないのではっきりとは……大人が意識を失って倒れているような現場でも、子供には意識があったり、意識障害には襲われていても呼びかけに明確な反応があったり。消防への通報もほとんど子供からのものだったようですし」 「すべてのケースで?」 「さあ。でもかなり明白な傾向のようです。消防が奇妙に思うくらいですからね。下にいる槌神先生からも同様の話が入っています。たぶん先生も、消防と同じ景色を見られたのでしょう」  うむむ、と五月は考え込んだ。 「どう思います?」 「……たしかに、アリスのフラクタルは脳波異常を引き起こして中枢神経系の障害の疑われる全身痙攣を生み出しますから、大人と子供で差が出ることは考えられなくもないです。大人と子供では、過呼吸や光刺激による脳波賦活の反応も違いますし、てんかん発作には『学童期に顕著な』という但し書きのつくものがいっぱいあります……ただ、子供の方が大人より軽い、というのは、よくわかりませんが」 「ま、子供がアリスのSに接触するのは、今度が初めてですからね。何が起こるかもわからないわけです……実は、その子供たちの一部がアリスと同じ才能に目醒《めざ》めている、という話もあるんです」 「アリスと同じ才能?」 「サヴァンです」  はぁ? と五月の眉間《みけん》が悩ましげに歪《ゆが》んだ。 「これも槌神先生からの話なんです。『アリスの世界観』を自分のものにしている、とか何とか」 「フラクタル次元上のパターンで現象を一気に折り畳む『思考法』を?」 「……やっぱり、有り得ませんかね?」 「槌神総一郎は実際のところ何を見たと言っているのです?」 「それは……」と言い掛けたところで、権藤は困ってしまった。そういえば、槌神総一郎は子供だサヴァンだと大騒ぎしただけで、具体的には何を目撃したのかまったく説明しなかった。権藤としても、アリス発見の知らせを待っていたので、子供やサヴァンの新発見を具体的に聞きたいとは思わなかったし。「ただまあ、先生の御様子からすると、冗談でもなかったようなんですが」それにしても……実の父親を呼び捨てにする槌神五月の口調は、それこそまるっきり赤の他人だった。 「わたしには、子供たちがアリスの世界観を自分のものにするだなんて、信じられませんね」 「けれど、アリスのSっていうヤツは——というのは、五月さんの言うフラクタルですが——、それは実際のところ、アレなんでしょう? その、アリスのフラクタルをコード化した暗号、というか、アリスの世界観を伝達する記号、というか、要するに……」 「要するに何だったとしても」と五月は、権藤の言い掛けた要するに何なのかを、聞く前から否定した。「わたしたちに『理解』できるようなシロモノではありません。アレはモンシロチョウを9・7次元で無限に捕まえるような異常な世界から生まれてきたのです」  ふむ、と権藤は鼻を鳴らした。「ま、とにもかくにも、アリスを捕まえるのが先です。でないと何もはじめられません」     三十、  本間和輝が久しぶりに地上へ出てみると、表の様子が一変していた。あれほど殺到していた消防車両が、ひとつも見当たらない。脳科学研究センターの隣の敷地に、対策本部の仮設テントが祭りの後みたいに取り残されているだけだ。ロビー正面の車止めに、権藤勲の姿があって、白衣の見知らぬ二人——一人は電動式の車椅子に乗った老人で、もう一人は女だ——と何事か相談している。その脇に四、五人のスーツ姿がいた。雰囲気からして、役人、それもどうやら権藤勲の上司——あるいはその使い——だった。それ以外、センター周辺には人っ子一人見当たらなかった。  本間と賀谷は、権藤が向こうの相談を終えるのをロビーの奥で待った。  相談は長引きそうだった。というのも、スーツ組がいちいち口を挟んでは、決まりかけた何かに訂正を迫っていた。本間はその様子をぼんやり眺めていたのだけれど、そのうち白衣の女に目が止まった。あれは……もしかして、ビデオ室で見かけた、比室アリスに言葉を教えていた女じゃないのか? 本間は賀谷を振り返る。  ええ、と賀谷がうなずいた。「あれが、あの槌神総一郎の娘です」  なるほど、あれは、あの槌神総一郎の娘だったのか……にしてはちっとも似ていない。年齢も、孫と祖父ほど離れて見えるし。なるほど確かに、あれが[#「あれが」に傍点]、あの[#「あの」に傍点]、だ……なんて考えているうちに、今度は車椅子の方に目を奪われた。  ……比室叡久じゃないか……  やたらにこにこ笑っていて、ビデオで見た内向的な表情とはずいぶん印象が違うが、どうやら比室叡久に間違いなかった。賀谷の言う「長野組」とは、比室研究室のリーダーと、その研究活動に参加していた比室アリスの教育係……要するに、七年前の関係者たちだった。ということは、七年前の被害者、でもあるのかもしれない。にしてはやけにピンピンしているが……  ……そういえば、六十八名の被害者のうち二名が回復、という話がなかったか?  権藤勲は、スーツ組に散々邪魔されて、あちらの相談を終えて本間の前に現れる頃にはくたくたになっていた。 「で、」ため息混じりに話をはじめる。「下川徹の容態は?」 「今は下でおとなしくしています」賀谷が答えた。「一度、精神運動興奮を起こしたんですが。本間さんの話だと、しばらくは目覚めるたびに同じ状態になる可能性があるようで」 「消防に搬送してもらおう」 「で、比室アリスの方はどうします?」  はあ、と権藤は再度ため息を漏らした。「無論、とっ捕まえる。それだけだ。が、オレは下に行けなくなった」 「ここに足止めですか?」 「連中が」と権藤は、ガラス戸の向こうのスーツ連中を振り返った。「『責任者』はここに残るべきだと言い出した。消防や自治体からの情報を文科省に取り次いでもらわにゃならん、と。要するに、自分らで情報収集に動くつもりはないらしい。ちなみに『アリス捜索』のための増員も断られた。東晃大学事例調査委員会の班員だけでやれ、とさ」 「我々五人だけで、ですか?」賀谷が声を裏返した。 「出向組の技師を使え、なんて抜かしやがった。んなもん、五時間前に全員吹き飛ばされちまったってんだ。とにかく、俺は残る。ちょうどそっちの男に」権藤はちらり、本間を睨《にら》んだ。「話があったところだしな。賀谷は五月さんと一緒に下に行け。アリス探しを手伝うんだ。比室先生にも行ってもらうが、そっちは長野施設の職員に運んでもらう。被災地の検問の前で待機してもらうから、アリスが見つかったら俺に連絡を入れろ。俺から先生に連絡を入れて、アリスとの接触が難しいような状態だったら、先生に対処してもらう。そうだ、賀谷、行く前に処置室で抗てんかん剤を仕入れてこい。アリスが見つかったら、そいつをある程度ぶち込んでから、上へ運ぶ」よし、と権藤は平手を打った。「動くぞ。俺は消防本部に下川徹の救急車を頼んでくる」  賀谷が立ち上がった。権藤もガラス戸へ向かいながら、背中越しに本間へ釘《くぎ》を刺した。「キミは動くな。さっきも言ったが、話がある。それに、下川徹を上へ引きずり上げるのを手伝ってもらわにゃならん」  と、権藤が捨て台詞《ぜりふ》を吐きながら表へ出てしまうと、本間はロビーにひとりぼっちになった。  あとは、表の車止めの片隅でスーツ組がひそひそ話をしているだけだった。それにしても、消防の連中はどこに行ってしまったのだろう? 「瞭命館パニックパート2」は、すでに片がついたのだろうか? この数時間、表では何が起こっていたんだ?  ところで……周囲に人影はないし、権藤も賀谷もいないし、車止めのスーツ組は本間のことなど気にも留めていない、ということは、説教部屋から逃げ出すにはうってつけ、なんじゃないか?  本間はロビーを抜け出した。余所者《よそもの》顔のスーツ組の脇をすり抜け、施設の正門へ向かう。が、正門の正面には消防本部の仮設テントがある。正門を使うと権藤に見つかってしまいそうだ。どうしようか、と悩んでいるうちに、黒いセダンが正門前に滑り込んで停車した。  本間は運転席を覗《のぞ》く。槌神総一郎の娘だ。冷たい目つきで、まっすぐフロントガラスを睨んだまま、セダンをアイドリングさせている……賀谷耕一が地下三階から備品を調達してくるのを、待っているらしい。とすると……  本間は賭けに出ることにした。  背を屈《かが》め、向かいの消防本部に悟られないようにしながら、セダンへ走り寄る。助手席の扉をノックし、運転席へ名乗った。 「どうも、賀谷です[#「賀谷です」に傍点]。お待たせしまして」  なんてハッタリも、槌神五月が賀谷の顔を知っているのなら意味はないわけだが……ちらり、と槌神五月は、こちらの正体を見抜いたような見抜かないような視線で本間を睨んだ。で、見抜こうが見抜くまいが興味もない感じで、ばたん、と助手席の扉を開いた。本間は車内へ滑り込む。「行きましょう」  槌神五月は無言のままアクセルを踏み込んだ。で、セダンがするする滑り出したところで、本間は尋ねた。 「で、……どこに行くんでしたっけ?」     三十一、  比室アリスはどうなりました? と権藤に訊《き》かれて、渋々捜索を再開した槌神総一郎だったが、その捜索はやがて中断させられた。  権藤勲から新たな連絡が入った。長野から、槌神五月が到着した。彼女もアリス探しに参加するので、これを機に、捜査を一からやりなおす。現在の捜索はいったん打ち切って、受持ちの区域をきっちり打ち合わせてから、再開。その際の指揮は賀谷が執る。というわけで、とりあえずクラッシュした救急車の前に集合。  槌神五月が、来る。  槌神総一郎は陰鬱《いんうつ》な表情でその到着を待った。目の前にはからっぽの救急車が潰《つぶ》れていて——負傷者はすでに搬送されていた——、それがちょっと血に汚れていたりするのだから、陰鬱な気分はさらに募った。槌神五月は、きっと父親に再会しても喜ばない。嫌がったり苛立《いらだ》ったりもしない。彼女は父親を、憶《おぼ》えていないのだ。  槌神五月は、中枢神経系に宿っていたユニークな特徴のおかげで——異常、と呼ぶほどのものではなかった——、S被曝《ひばく》から三ヶ月後、幸運にも「自我」を取り戻した。そんな彼女に、最初に面会したときのことを、槌神総一郎は今でも憶えている。権藤勲に「覚悟」を求められながらの、面会だった。何を覚悟しなければならなかったのかは、面会してみてはっきりした。槌神五月は、父親の名前を憶えていた。「父親」という続柄も憶えていた。  が、それだけだった。  槌神五月は父親のことをフルネームで呼んだ。それから、事故当事瞭命館で何があったかを、まるで取調べのように証言した。その口調は、父親に対するものではなかった。東晃大学事例調査委員会のメンバーに対するものだった。これでは、槌神総一郎は娘に再会した気になれなかった。試しに、彼は二人の共通の思い出を語ってみた。五月がまだ小学校に上がる前、家族で伊豆に旅行したときの記憶を紐解《ひもと》いた。あのとき五月は、海の色にいたく感激して、それからしばらくは裏が白紙の広告を見つけるたびに同じ色を描き殴ったのだった。 「すみません」槌神五月は他人行儀に詫《わ》びた。「たぶん憶えてはいるのですが、ピンとこないのです」  槌神五月は、比室アリスによって、人のものでもない高次元へと引きずり込まれた。人が普段暮らしている、愚鈍で低次元なこの「現実世界」——比室叡久はそれを「一次元的世界」と呼んでいるらしいが——を、彼女は一度見失った。比室アリスの高次元に吹き飛ばされたのだ。  だから彼女は、この「現実世界」で経験したエピソードのうち、およそ半分くらいを、いまだに「忘れた」ままでいる。  彼女は「父親」を忘れている。名前と続柄までは思い出せても、そこには何のエピソードも伴ってこない。彼女にとって父親は、薄っぺらな名前と続柄だけが残された「赤の他人」だ。同じように彼女は、母親のことも見失っている。彼女の「帰還」から数年後、母親が亡くなったのだけれど、彼女は葬式に現れなかった。まあ、それは事情からして仕方がないのだろうけれど——瞭命館パニックの被害者は現在まで隔離された状態だ——、当日の長野施設での様子も、普段と変わらなかったらしい。多少悩ましげな表情を見せたとしても、それは母親の喪失による悩ましさではなく、その喪失を喪失として実感できない悩ましさに違いない。  唯一、槌神五月がはっきりと思い出したのは、「比室アリス」のことだけだ。だから彼女は、その化け物のことを語るときだけ、口数が多くなる。表情も豊かになる。槌神総一郎に言わせれば、ますます知らない誰かに変わり果てていくようなものなのだが。  そんな槌神五月が、ここに来る。  まあいい。ごほん、と槌神総一郎は咳払《せきばら》いして、襟元を整えた。向こうが他人行儀なら、こっちも同じ調子で接するだけだ。  槌神総一郎以下、ふもとの住宅街で捜索にあたっている面々に連絡を入れて、権藤は消防の仮説本部を離れた。ちょうど、槌神五月が彼のセダンを借りてふもとへ繰り出すところだった。  けれど……槌神五月と槌神総一郎、このまま巡り合わせて大丈夫だろうか?  五月の方は問題ない。彼女は本当に、父親のことを忘れてしまっている。父親と対面しても、赤の他人でやっていける。どうせなら名前や続柄も忘れていた方が後腐れなかったんじゃないか、と思うほどだ。問題は、槌神総一郎だ。彼の立場から見れば、名前や続柄しか憶えていないという事実は、全部忘れているより余計に酷だ。権藤は、親子が対面する場面に何度か居合わせたけれど、プライドの高い槌神総一郎はあくまで戸惑いを押し殺した。それはもう、痛々しいほどに。五月の方は、父親の痛々しさにすら感づかないほど他人行儀なのだが。  だから権藤は、槌神総一郎のことが心配なのだ。「比室アリスが覚醒《かくせい》した」と聞かされて、後も先も考えず、ドームへ土足で乗り込んでいった槌神総一郎のことが。あの姿は、あれは、あれはまるで——権藤は事務的な人間だから、うまい言い回しが思いつかないのだが——破滅的[#「破滅的」に傍点]、だった。娘を奪われた復讐《ふくしゆう》として危害を加える、なんて目的すら見当たらないほど、破滅的だった。  まあ、どっちにしろアリスが不在だったあたりは、いかにも槌神総一郎らしい、破滅的な滑稽《こつけい》さだけれど。  とにかく……悩んでいてもはじまらない。槌神五月はすでにふもとへ出発した。あとのことは、なるようになるだろう。そう自分を説得して、権藤は脳科学研究センターの正門をくぐった。  で、……そうそう、本間和輝だ。あの鼠、地下フロアで摘《つま》み食いをしていたらしい。どう処遇してやろうか。いっそのこと、技官として文科省に迎え入れてやろうか。すでにアリスの存在を知ってしまったらしいから、そっちの方が手っ取り早い。まあ、どれほどの情報を摘み食いしたかにもよるけれど……  などと思案しながら、権藤は施設のロビーに入った。応接用のソファが幾つか並べられて、ちょっとした待合室になっているのだが……誰もいない。たしか権藤は、ここを離れる時、ここにいた眼鏡姿のやせっぽっちに、動くな、と命じたはずなのだが。施設の奥に足音が聞こえた。賀谷耕一が、腕に山ほど点滴のアンプルを抱えて、ロビーに現れた。 「おまえ……何してんだ?」 「ええ、ええ、すみません」賀谷はぺこぺこと恐縮した。「どれくらい持っていけばいいのかわからなくて、仕度に時間がかかってしまって……すぐ行きます。すみません」 「すぐ行きますじゃなくて、五月さんならもう行ったぞ?」 「……は?」 「こっちに来る時に車を出すのを見たんだが……おまえ、乗ってなかったのか?」 「誰が乗っていたんです?」  誰が乗っていたんだろう……そういえば、約一名、未《いま》だに姿が見当たらないのだが…… 「とすると、パニックの被害がこっちの街まで拡大したんですか?」  静まり返った街をするすると滑り降りながら、本間はセダンの助手席で声を荒らげた。 「このへんの人はみんな避難したんでしょう」五月が教える。「ですからどの家も真っ暗なんですよ」  ほお、と本間はため息を漏らしながら、周囲の街並みを見渡した。どうりで、恐ろしいほど静まり返っていると思った。明りも、消防の巡らす不吉な警告灯ぐらいしか見当たらないし。「じゃ、被害の総数は……」 「知りませんよ。百は越えているんじゃないですか?」 「てことは、上の施設には、『何らかのかたちでパニックの発生に関っていると思われる人物』が不在でしたから……」 「消防が間違って搬送したようです。で、その途中で被害を拡大させた。わたしたちはその人物を回収に行くんです。権藤さんの説明を聞かなかったんですか?」 「ま、……聞いてはいましたけれど」 「聞かなかったんでしょう?」  棘《とげ》のある言い方だった。どうやら槌神五月は、相手が文科省の賀谷ではないことを見抜いたらしい。 「……もしかして、賀谷さんとは面識があったんですか?」 「なくても、あなたが文科省関係者じゃないことぐらいわかりますよ」  なるほど。確かに、被害がふもとの街に拡大したこと等、文科省関係者なら当然知っている話にいちいち驚いてしまったのだから、バレても仕方がない。  とすれば、「……本間和輝といいます。東晃大学事例調査委員会の委員である、原口孝三郎先生の使いとしてこちらによこされまして」  槌神五月は路地の前方を睨《にら》んだまま、本間の自己紹介を聞き流す。 「こちらで発生した『瞭命館パニックパート2』の実態確認のためによこされたんですが、協力してしかるべき文科省の委員会関係者がわたしの行動を妨害するんですよ。それで、このようなやり方で同行させてもらいました。他に手がなかったんです」  と、本間側の権利について説明しても、やはり五月は聞き流していた。 「あなたのことは存じ上げております。槌神総一郎先生の娘さんですね?」  興味はなさそうだった。 「槌神五月さん、でよろしいのでしょうか?」  よろしいのだかどうだか、興味はなさそうだった。 「七年前には比室アリスの教育係をなさっておられましたよね?」  ぎくり、と五月が振り向いた。 「わたしだってね、何も知らないわけじゃないんですよ」助手席の陰で本間はちらりとほくそ笑んだ。「比室アリス。左半球の萎縮《いしゆく》した発達障害児です。原因は恐らく先天的なものか、あるいは周産期の何らかの危機によるものだと思われます。とにかくかなりの重症です。ただし非常にユニークな『才能の孤島』を持っています。サヴァン能力[#「サヴァン能力」に傍点]です」  と本間は語気を強めてみたけれど、最初に比室アリスの名を呼んでみたときほどの反応はなかった。 「あなたはその比室アリスの、教育係でした。言葉のトレーニングを担当しておられましたね? 成果のほどは……わたしが見る限り、期待できませんでしたが。七年前のパニックの発端は、あの少女です。ちなみにあなた、七年前のパニックの被害者ですね? で、奇跡的に回復したというたった二名の被害者のうちの、一人です」  運転席に反応はなかった。 「ま、とにかくあの発達障害児でサヴァン能力者の少女が、七年前のパニックの発端で、そして恐らく今回もそうです。だからこうして、その少女を回収に向かうのでしょうし。わたしにとって最後の疑問は、あのサヴァン能力者の少女がどうしてパニックの発端となり得るのか、です。それさえわかれば、すべての謎が解けるのですが」  が、槌神五月は前方の暗い路地を睨むばかりで、教えてくれそうな気配もなければ、教えやしないという意固地な雰囲気すらなかった。 「ヒントは得ています。音声です。幸いわたしは、パニック被害者を処置する機会に恵まれました。彼は、……いわゆる『逆説的に精神運動興奮』というヤツを引き起こしていまして、かなり不快な悲鳴を発しました。実際、文科省関係者の話によれば、あの声は『被害者を襲ったものの余波《なごり》』あるいは『欠片《かけら》』でして、人によっては光|痙攣《けいれん》応答に近いものを引き起こすという、不快以上のものであって……」  槌神五月はやっぱり振り返りもしない。 「とすれば、比室アリスが一度に大量の人間を意識障害に負い込むために発生させたのは、『声』です。脳波に異常を引き起こすような声——対処的に抗てんかん剤が有効という、稀有《けう》な意識障害を引き起こす、声です」  と、本間は自分の持っている情報を出し尽くしてしまった。おかげで、続きの言葉が出てこなかった。車内は静まり返る。 「それで」槌神五月が沈黙を破った。「何が知りたいのです?」 「ですから、この前代未聞のパニックの真相ですよ」 「『声』、なんでしょう? あなたが自分でそう言ってるじゃないですか」 「それで納得するわけないでしょう? 光痙攣応答に近いものを引き起こす音声、なんて聞いたことないですから」  ふん、と五月は鼻で笑った。が、顔は笑っていなかった。「他にヒントはないのですか?」  あるんだったらあんたがそれを出せばいいんだよ、と本間は愚痴を呑《の》み込みながら、考えた。「……そうですね。比室アリスはサヴァン能力者です。理屈では説明のつかないようなことをやってのけます。で、サヴァン能力者にはサヴァン能力者の『世界観』があって、特に比室アリスは頭抜けているから、我々とはまったく違う世界が見えている。感染していくのは、その世界観……」 「感染?」  ちょっと馬鹿にしたような口ぶりだった。わたしの専門は感染症なもんですからね、と本間は早口に言い訳する。「とにかく、パニック被害者を襲ったのは、その世界観……比室アリスの発生させる異常な音声には、その世界観が伴っていて……」  と、告げながら本間の首が傾いていくのは、自分で自分の話している内容が馬鹿馬鹿しくなっていくからだった。 「じゃ、あなたもう答えがわかってるんじゃないですか」  どういうことです? と本間は運転席へ振り返った。 「世界観を伝達する音声、といったら、もうわかるでしょう? あなたも知っている単語のはずです」 「……同じようなことを文科省関係者からも聞かされましたよ。あなたとわたしはどうやって世界観を受け渡します? なんてね」 「どうやって受け渡すんです?」  暗い車内に携帯の呼び出しが響いた。  五月の携帯だった。車を止め、呼び出しに答える。五月はしばらく、先方の話に耳を傾けていたが、やがてちらりと、助手席の本間へ目配せした。「権藤さんからですよ。光凜《こうりん》大学『大八木微生物研究室』の本間和輝研究員が、隣にいませんかって」 「いない、て言ってくれませんかね?」 「います」と携帯に告げながら五月は、代わりましょうか、と携帯を本間へ差し出した。  本間は助手席にのけぞって受け取りを拒否する。「とにかく、わたしはいちおう『東晃大学事例調査委員会』の関係者なんです。文科省側がこれ以上原因究明を妨害するようでしたら、わたしも出るところに出ますよ?」 「どこに出るんです?」 「……出るところくらいいくらでもありますからね」  と言っている、と五月は携帯に告げて、しばらく先方の言い分に耳を傾けた。「……あなたの立場は理解する、と。しかし、あなたの知り得た情報は、そのまま世間に流すと非常な混乱を引き起こす。さらなる情報提供や、あなたの今後に関する相談も持ちたいので、とにかく上へ戻って欲しい。下に行かれるとあなたの生命の保証ができなくなるそうです」  生命の保証がない……それこそ立派な冒険じゃないか。「けれど、東晃大学事例調査委員長の槌神先生は下におられるのでしょう? なのにどうして委員の代理であるわたしは駄目なんです?」 「とにかく、上へ戻ってくれれば、ある程度の情報提供は約束するそうです」 「わかりした。戻りますよ」  だそうです、と伝えて五月は携帯を切った。「で、どうするのです?」  本間はひょいと肩をすくめた。「行きましょう。連中の情報提供なんてたかが知れています」  が、五月は車をスタートさせなかった。「わたしも、どちらかといえば戻る方をお勧めします。この先へ進んで、何かあった場合は、二度と『この世界』には戻れませんよ?」  ……この世界? 「少なくともあなたは戻ってきたじゃないですか」 「戻った?」このときはじめて、五月は目に見えて笑ったけれど、醜く歪《ゆが》んだ皮肉な笑みだった。「世界のほとんどを見失いましたよ」と微《かす》かに、ほとんど聞き取れないような早さで呟《つぶや》いてから、「わたしが『帰還者』になれたのは、生理学的な理由による偶然です。あなたにその偶然が味方する確率は、一割にも満たないと思いますが」 「……どういうことです?」 「とにかく、この先へ進んで、何か起これば、あなたはアウトです。それでも行きますか?」 「……一割なら宝クジよりだいぶましですよ」ということは、飛行機事故に遭遇したことのない本間にも当たる確率があるわけだ。  なんて屁理屈《へりくつ》に、槌神五月が納得したとは思えないけれど、とにかく彼女は車をスタートさせた。「そのかわり、これだけは守ってください。絶対にわたしから離れないで。それと、わたしが危険だと感じたら、すぐに退去してもらいます」  ほいほい、と本間は軽く了承した。「で、……さっきの話の続きですがね」 「何の話でしたっけ?」 「世界観を受け渡すものは何か、です」 「ですからそれは……あなたが答えに気づかないことが、わたしには理解できません」 「そういう言い方をされるとますますわからなくなりますよ」 「わたしたちはさっきからずっと『正解』を語り合っていますよ」 「ですからそういう言い方をされると……」とぼやきかけたところで、本間ははたと、ある単語を思いついた。「……言葉[#「言葉」に傍点]?」  運転席に反応はなかった。 「わたしとあなたの世界観を受け渡すもの——言葉? 比室アリスの発する異常な音声は、サヴァン能力者の特異な世界観を代弁した、言葉?」  やはり運転席に反応はなかったけれど、どうやらそれは、正解、の意思表示だった。 「このパニックの原因は、……『言葉』、だと言うのですか?」 「『別の世界から来た言葉』です」五月が教える。「比室アリスの生み出した、高度にフラクタルな『文法』によって世界を語る——言い換えれば、世界を理解不能なフラクタル次元まで引きずり上げてしまう——、非常に危険な言語……『右半球的言語』、です」     三十二、  高台に面した小さな公園に、ブランコがきりきり[#「きりきり」に傍点]と軋《きし》み続けていた。  渡瀬春奈の周囲には、もはや世界は存在しなかった。そこは「死んだ蠅」ばかりが転がる荒野に、蛙すらいないような、世界とも呼べない世界だった。  言葉もない。理屈もない。時間の経過も途絶えたか、あるいは「永遠」にまで肥大している。「わたし」の概念も見当たらない。とすればどこかに「あなた」が見つかるはずもない。というわけで、誰もいない。ただ、不思議な虹《にじ》色が閃《ひらめ》くばかり。その閃きの中に、ブランコのきりきり[#「きりきり」に傍点]が繰り返されるばかり。永遠に、規則正しく、けれど無秩序な不規則に揺らぎながら……とすればその振る舞いは、フラクタルに属する。  胎児が母親の胎内で聴く、1/fで揺らぐ鼓動、に属する。  化け物の生まれてきた世界に、属する。  その化け物は、その1/fの胎盤に、左半球を置き忘れてきたわけだが。 「しかし……」本間が呆然《ぼうぜん》と呟いた。「……高度にフラクタルな文法? 世界を理解不能なフラクタル次元まで引きずり上げる? 何の話なんです?」 「サヴァンですよ」 「サヴァンと、そのフラクタルというヤツに、何の関係があるんです?」 「例えば、彼らの特異な才能を、あなただったらどう説明します?」 「……景色を一瞬で記憶したり、数式を一瞬で解いたり……どうやっているのか説明しろ、と言われてもね……」  でしょう? と五月はうなずいた。「あの才能は、わたしたちの論理の次元を超えています」 「そういえば、賀谷さんも、サヴァンのやることは我々の次元にはない、なんてことを……」 「わたしたちのこの世界は、一次元です」 「……はぁ?」 「一次元的に解釈された夢見の世界、なんです」 「一次元って……わたしには、少なく見積もっても三次元はあるように見えますけどね?」 「ま」ふん、と五月は鼻を鳴らして、「『この世界』しか見たことのないあなたには、わからない話です。どっちにしても、あなたの精一杯思いついた次元が『三次元』だったことは、助かりました。これなら、比室アリスの化け物ぶりをわかってもらえるはずです」 「……どういうことです?」 「あの娘はわたしたちとは次元の違う世界にいます。あの娘の世界は、わたしたちに解析できた——というか、実際にはスパコンが解析したんですが——最低レベルの次元でも、9・7次元でした」 「9・7……?」 「フラクタル次元、です」 「……」何一つ理解できないせいで、もう本間は何を尋ね返すこともできなかった。 「サヴァンの話に戻りましょう」五月は一つ咳払《せきばら》いして、続けた。「サヴァンのスキルは論理では説明がつかない、という話でしたね。そのスキルは論理とは違う次元にある……論理は、左半球的な能力、いわゆる逐次処理に属します。ものごとを、ひとつの筋道に従って、読み解いていく。要素を抽出し、逐次的に並べて、その筋道を手繰り寄せることによって、何かを『理解』するわけです。これが左半球的な『論理的思考法』。けれどサヴァン能力者は……」 「『右半球の天才』、でしたね」 「右半球は、一般的にいえば、一括処理です。それは複雑な対象から要素を抽出しない。筋道を手繰ることもない。複雑系を複雑なまま一括処理する。言わば、その複雑さに特有な傾向を直観的に見抜く……」 「複雑さに特有な傾向、て……」本間は、自分が何を尋ねているのかすらよくわからずに、悩ましげに呟いた。「何なんです?」 「それがフラクタルなんです。彼らは膨大で手に負えないような複雑系から、その複雑系を複雑なものとして成り立たせている傾向——パターン——を嗅《か》ぎつける。いわば複雑系を定量化する……とすれば、フラクタルしかありません」  五月の話の途中から、本間はお手上げ、といった感じで肩をすくめていた。「あのですね、どれもこれも知らない単語だらけ、というわけじゃないんですがね、全部揃うと何がなんだかさっぱりわかりません」 「フラクタル構造、といえば、よく引き合いに出されるのが、イングランドの海岸線です」 「ああ、その、ランダムに入り組んだ海岸線に、同じかたちをした小さな海岸線がいっぱい見つかる、とか何とか……」 「複雑な全体像から、ある部分を拡大してみると、全体像と同じ構造が見つかる。そしてその部分を拡大するとまた同じパターンが見出《みいだ》せる。自己相似になっている、とも言いますが、要するに同じ構造の入れ子状態です。自然界は複雑な構造に溢《あふ》れてますけど、その複雑系のあちこちに、この自己相似が見つかります。山の連なりとか、川の流れとか、木々の枝葉とか。気象現象も上空から見下ろすとフラクタルに推移していきます。ちなみに天然の海岸線をフラクタル次元に換算すると、だいたい一・二〜三次元になります」 「一・二次元?」 「そんなに難しい話じゃありません。海岸線は、文字どおり『線』でしょう? とすれば、一次元の『距離』で言い表せるはずです。けれど、拡大するたびに同じ構造が見つかるのだから、その全体像を一筆書きで描こうとすると、いつまでたっても終わらない。要するに、その構造は『距離』で把握しようとすると無限大になる。だから『統計的に自己相似』といえる海岸線は、一次元をはみ出してしまうんです」  ……案外難しい話じゃないか。「それとサヴァンの能力が……いったい何だと言うんです?」 「サヴァン能力の基本は、このフラクタルを見抜くこと、だと言うんです。あなた、サヴァンについてはそれなりに知識を持っておられるようですから、数学的サヴァンのこともご存知ですよね?」 「ええ、まあ。三|桁《けた》同士の掛け算なんかを、桁ごとの処理をしないでいっぺんに解いてしまうヤツですね?」 「桁ごとの逐次処理に頼るのではなく、計算の中で繰り返されるパターンに従って全体を一気に展開する」 「……はぁ?」 「数学的サヴァンのパターンに対する感性は、サヴァンのフラクタルに対する感性の基礎だと思います。彼らは、わたしたちの知っている逐次的な計算手順を、無視する。桁ごとの掛け合わせを足し合わせる、という過程を完全に省略します。それじゃ計算なんか不可能に思えますが、それはあくまで逐次処理の側から見た場合です。考えてみれば、掛けられる数を、掛ける数だけ展開させれば、それでおしまいなのですから、展開のパターンさえ見抜ければ、一気に全体像が見渡せる——何倍にしようが一括処理で片が付くんです」 「……そんな簡単な話ですかね?」 「もちろん、その感性を持つ人間にとっては[#「その感性を持つ人間にとっては」に傍点]、ですよ?」と注釈を入れて、五月は続けた。「その感性の持ち主なら、膨大な自然数をたちまち素数分解することもできる。これも、『全体像の中にどんな繰り返しのパターンが秘められているか』を見抜ければ、あとはそのパターンで折り畳むだけです。数学的サヴァンは、同じパターンが何度も繰り返されるだけなら、直観的に展開させたり折り畳んだりすることができるんですよ。だから彼らは、カレンダーの法則を一気に展開させて、数百年後の日曜日まで飛ぶこともできる」 「パターンを軸に、全体像をそのまま折り畳んだり、もとの全体像へ戻したり……?」 「とすれば、複雑なイングランドの海岸線を複雑なまま記憶するのも、簡単です。基本となる自己相似——フラクタルなパターン——と、その繰り返しの頻度さえ見抜けば、おしまいなんですから」 「じゃ、『一度見ただけの景色を正確に記憶する』という、いわゆる『直観像』の正体は……」 「川の隣に木があって、といった感じで対象をひとつずつ記憶するんじゃありません。全体のバランスや、そこに秘められた分散のパターンを記憶しているんです。イングランドの海岸線と同じで、全体像からフラクタルな自己相似を見抜いて、それを軸に全体像を折り畳んでしまう。音楽も同じです。五線譜にいちいち音符を並べる前に、サヴァン能力者は曲全体を特徴的な自己相似で折り畳む。要素——音符——を抽出して逐次処理する——五線譜に並べる——のではなく、まず全体像を俯瞰《ふかん》して——一括処理して——、特徴的なパターン——自己相似——を見抜きます。わたしたちが『要素の抽出』に着目するのとはまったく逆に、全体像に秘められた『分散のパターン』に着目しているのです」  と言い切られても、「……わかるようなわからないような話ですね」 「サヴァンは要素を抽出しない。筋道に並べ立てることもしない。要するに、論理的な手続きを無視する。彼らが全体像から自己相似を見抜いて『分散』を把握するのだとしたら、『要素』もそれを並べなおす『筋道』も必要ないわけですよ。彼らは論理を必要としないんです。スキルとして採用してすらいない」 「……論理を無視する?」 「だから、サヴァンのスキルは論理では説明がつかない[#「サヴァンのスキルは論理では説明がつかない」に傍点]」  うむむ、と本間は唸《うな》った。実際のところ、もったいぶって唸るほど理解できてはいなかったのだが。「……とにかくその、ややこしい相手を理屈抜きで直観してしまうのが、サヴァン能力者の世界観、というわけですか」  当然、本間は五月がうなずくのを期待したわけだけれど、彼女はなんだか、難しそうに首を傾げてしまった。 「……違うんですか?」 「違いはしないでしょうが……それを『世界観』まで持っていくことができたのは、たぶん比室アリスだけです」  ふむ、と本間は鼻を鳴らす。「そういえば賀谷さんから、『比室アリスはサヴァンの中でも頭抜けている』と聞かされました。ただね、わたしはその少女がキーボードに向かう場面を見かけただけですから、何がそれほど頭抜けているのか、よくわからないんですよね」 「普通、サヴァン能力者の才能は、特定の分野の特定の作業に限られます」 「『才能の孤島』、ですね?」 「瞬間的な計算も出来て、直観像も持っていてピアノも達者、なんていうのは、わたしは聞いたことがありません。音楽的サヴァンは音楽から離れることができませんし、もっと言えば、スキルを発揮するのに必要なピアノからすら離れることができません。そのスキルは——あるいは感性は——、具体的な作業に閉じ籠められています。おかげで応用が利かない。汎用《はんよう》性がない。具体的な作業から離れて一般化させることができない……とすれば、世界を読み取る基本法則にはなり得ない」 「世界観にはならない、と」 「アリスは別格でした。最初に顕《あらわ》したのは音楽的スキルでしたが、やがて絵画的なスキルを手に入れました。というか、その時点でもう絵画ではなくなっていたのですけれど。彼女が好んで描いたのは、マンデルブロ集合です」 「……デブが何だって?」 「フラクタルな入れ子状態そのものがフラクタルに推移していくようなマルチフラクタルをコンピューターに描かせたもの……フラクタルの曼陀羅《まんだら》ぐらいに思ってください。普通はコンピューターにやらせなければ描けないようなシロモノなのですが、あの娘はそれを手書きで描き上げました」 「……?」説明を受けてもさっぱりわからないものを、手書きで描いたと脅かされても、驚く余地すらなかった。 「しかもそのマルチフラクタルの中に、あの娘はモンシロチョウを閉じ籠めました。描いた絵画そのものは、二次元平面上の産物でしたから、二次元以上のものではなかったはずですが、そこに絡み合っていたフラクタルをスパコンに解かせると、9・7次元が現れました。そこに蝶《ちよう》がいたのです。これが、さっき話した、比室アリスの9・7次元です。九ないし十の変数に操られたモンシロチョウが、九次元的には無限大に、十次元的には無限小に存在していた……」 「失礼ですが……何の話なんです?」 「わからないでしょう? わたしにもわかりません。だって、余所《よそ》の世界の話なんですから。とにかく、あの娘はそれを手書きで描き上げました……スパコンではなく彼女の脳が描いたのです。結局、彼女にはモンシロチョウがそう見えていた[#「そう見えていた」に傍点]——あの娘が身につけた複雑系に対する感性は、特定の作業に拘《こだわ》ることがなくて、目に映ったあらゆるものや、耳に入ったあらゆる音に対応しています。汎用性という意味では、ほとんど世界そのものに対応している。だから……」 「世界観、か」 「高次元に閉じ込められた無限のパターン——それによって構成される多次元世界、です」 「それがその少女の世界観、とすれば……このパニック障害の原因は、『フラクタルな文法によって世界を語る危険な言語』、でしたよね? ということは、要するに……」 「あの娘は、あの娘にしか見えない高次元の世界観を、言語に翻訳して『この世界』に撒《ま》き散らしてしまった……」 「とすると、それを耳打ちされた連中は……」 「理解不能な世界観を押しつけられて、『この世界』がどこにあったかを見失う」 「で、ばたばたとぶっ倒れていく?」 「ですね」 「それが、このパニックの正体だと?」  肯《ふむ》、と五月がうなずく。  が、五月にあっさり肯定されて、本間はかえって悩ましげに頭を掻《か》き毟《むし》った。「……しかしですね、わたしが目撃したパニック被害者は、風変わりな意識障害患者です。風変わりとはいえ、とにかく意識障害は意識障害なんですよ……馴染《なじ》みのない『言語』や理解できない『世界観』に打ちのめされたからといって、ああはならないんじゃないですか? 多少のショックは受けるにしても、生理学的なレベルにまでダメージを食らうことはないでしょ?」 「『世界観』がここまで違ってしまうと、『世界』を処理する脳の認知システムも大きく違ってきます」 「……はぁ?」 「あなたとわたしは、逐次処理的な言語で低次元の世界を共有する。それは、その言語情報を互いの脳が同じ認知システムで処理するからです。一方、アリスはまったく次元の違う言葉で世界をマルチフラクタルに語ります。とすれば、脳の認知システムそのものが、わたしたちのものとはかけ離れている」 「……頭の使い方が違う?」 「あの娘が『マンデルブロ画法』を編み出した頃に——というのは、『絵』は生み出したけれどまだ『言葉』は生み出していない頃、です——、あの娘の脳の活動状態をPETでスキャンしたことがあります。あの娘の視野に、コンピューターに描かせた『統計的に自己相似』なフラクタル図形を提示すると、後頭葉一次視覚野と前頭葉に、異常な活性が現れました。後頭葉一次視覚野で捕えた視覚情報を、前頭葉へと伝達しながら、その流れの途中で何らかの情報処理を加えているのだと考えられます。その活発さは異常でしたけれど、一連の流れ自体は、わたしたちが普通にやっていることです」 「なるほど。後頭葉一時視覚野が捕えた視覚情報から、『注意』の対象を選択して、その名前やカテゴリーを側頭葉で認識し、前頭葉が対応を検討する、と」 「要素の抽出と筋道の探索を行うわけです。アリスの右半球に起こる反応も、基本的には同じ回路です。ただし、その量と、質が違う。量の意味では、『疾患』が疑われるくらいの激しい反応でしたし、質についても、たぶんわたしたちの脳がやっていることとは別物です。彼女の脳は、きっと要素の抽出も筋道の探索も行いません。代わりに、全体像の中に秘められた分散のパターンを探るはずです」 「例の入れ子状態とやらをサーチしている、と?」 「で、面白いことに、その情報処理が前頭葉に達すると、再び後頭葉一次視覚野に強い活性が現れるのです。たぶん、処理された情報をそのまま一次視覚野に送り返して、もう一度同じ処理を加えるのでしょう。わたしたちは後頭葉—前頭葉フィードバック回路と呼んでいましたけれど。アリスはそのフィードバック回路をフル回転させて、情報を一気にフラクタル次元へ巻き上げるんです」 「とすると、そのフィードバック回路とやらが、比室アリスのフラクタル解析エンジン?」 「ちなみにこのフィードバック回路は、9Hz前後の波長で激しい活性を繰り返します。PETでは早すぎて追いきれませんでしたが、脳波計にはそれがはっきり現れました」 「9Hz……てことは……」 「さらに当時の研究では、フィードバックが繰り返されるうちに、側頭葉の一部にも強い反応が現れました。当時は何なのかわからなかったのですが……この第三の反応は、左右半球の違いを無視して見れば、もうひとつの言語野、ウェルニッケ野を含んでいます。ここでの反応が、後に前頭葉にある運動性の言語野——発話に携わるブローカ野——に飛び火して、それであの娘の『フラクタル言語』が生まれたのではないかと……」  待ってくれ、と本間は五月へ手をかざした。「その解析エンジンによれば、後頭葉一次視覚野に9Hz前後の強い反応が現れるんですね?」 「はい」 「とすれば……その刺激はPCRの賦活にうってつけだ……」  こくり、と五月はうなずいた。「ただしアリスは、それによって光|痙攣《けいれん》応答を起こすのではなく、世界をフラクタル次元へ巻き上げます。で、……言語でしたね? アリスの言語は、これまで研究課題として採用されたことはないのですが——だって、研究室に持ち込んだ途端にみんな吹っ飛んでしまいますから——、おそらく極めて特徴的な波形で振動しています」 「特徴的な、波形?」 「音量や音質が複雑に絡み合いながら振動する、複雑系」 「それ自体がマルチフラクタル?」 「でなければマルチフラクタルな世界観を語れやしないのでしょうし。で、その波形は、耳にした人間の脳波に異常をもたらす」 「……PCRを賦活する!」 「というよりは、アリスと同じ後頭葉—前頭葉フィードバック回路を賦活する、です。PCRはその一側面に過ぎません。あの娘の言葉は、あの娘と同じ世界を経験させるために、こちらの脳のシステム自体を同じ状態に引きずり込むのです……ま、あの娘自身には、『他人の脳を同じ状態に引きずり込もう』なんて意図はないのでしょうが——意図らしい意図なんてまるで見当たらない相手ですし——。あの娘はたぶん、自分の声を、自分の耳からフィードバックして、自分の後頭葉—前頭葉フィードバック回路を賦活しているだけです。あの娘の言語はフィードバックをフィードバックで強化する空回り回路なんですよ。けれど、その空回りは普通の人の普通の脳も巻き込んでしまう。後頭葉と前頭葉が9Hzほどの波長で異常活性し、その活性に側頭葉も呑《の》み込まれていくような異常事態に、他人を引きずり込んでしまうのです。脳波計で見れば、この三箇所を焦点に9Hzの高電位鋭波が群発します」 「そんなもの……てんかん発作でぶっ倒れてしまうじゃないですか」  だから皆さんぶっ倒れるのでしょう? と五月は肩をすくめた。「倒れないのはアリスだけです……というか、あの娘は普段から得体の知れない意識状態にいますから、異常脳波で意識変容に襲われても外からは見て取れないのかもしれませんね。とにかく、あの娘はそんな磁気嵐の中で、一気にフラクタル次元へ舞い上がります。一方わたしたちは、そんな世界はまるっきり理解できない上に、てんかんの大発作で意識を吹き飛ばされる……」 「だからパニック被害者たちは、中枢神経系の障害の疑われる全身痙攣の意識変容に襲われて、それには対処的に抗てんかん剤が効果を示して……しかしそれはそれで、筋の通らない話ですよ?」 「何がです?」 「要するに、このパニックの正体は、単なるてんかん発作、てことになってしまうじゃありませんか。だったら抗てんかん剤で充分コントロールできるはずですし、二度と回復しないなんてことは有り得ません」 「異常発火の焦点は三つあります」 「そこは確かに変則的ですが、でもやっぱり、異常発火は異常発火でしょう? 抗てんかん剤によるコントロールは可能なはずです」 「その三箇所が、システムとして連動しています。しかも、『世界を理解不能なフラクタル次元まで引きずり上げるシステム』として、です」 「とすると……てんかん以上の何が起こるというのです?」 「焦点発火にある種の『癖』があるのはご存知でしょう? 一度ある部位を焦点に異常脳波が発生すると、以降、悪い癖でもついたみたいに、同じ焦点から異常発火が繰り返される。いわば、焦点が焼きつけられる。アリスの言語にも同じ効果があります。しかも、焼きつけられるのはただの焦点じゃありません。独立した三つの焦点でもないんです。それは、『世界を理解不能なフラクタル次元に引きずり上げるシステム』です」 「で、……癖のついたシステムが何を起こすと?」 「一つの焦点が発火しただけで、システムそのものが立ち上がる。そのシステムは、本人の了解も得ないまま、世界を無理やり高次元へ引きずり上げる。で、わたしたちは、何も理解できないまま、途中で意識を吹き飛ばされる……これをしつこく繰り返すことになるのです。しかも、神経系の特徴として、刺激が繰り返されれば『回』は強固になります。システムがますます強く固定されていくわけです。この執念深い回路が、わたしたち本来の『世界を逐次的に処理するシステム』を、駆逐します。どうすれば世界をまともに認識できるのか、それをわたしたちは——というより脳の生理学的反応そのものが——、取り戻せなくなるのです。だから、世界が見失なわれる[#「世界が見失なわれる」に傍点]。それをもとの姿へ引きずり降ろすことができなくなる……」 「……フラクタルな高次元ばかりが見えてしまう?」 「それすら見えません。だってわたしたちの脳では理解不能ですし、生理学的にも耐えられないのですから。アリスのシステムを焼きつけられると、わたしたちは本来のシステムを見失う上に、アリスのシステムすらコントロールできないまま、『世界』ではないどこかに放り出されてしまうんです」 「じゃ、文字どおり『世界を見失う』……そんなおとぎ話みたいなことが、あくまで生理[#「あくまで生理」に傍点]学的な要因のみによって[#「学的な要因のみによって」に傍点]、発生するというのですか?」 「経験したわたしが言うのですから間違いありません。一度この状態にはまってしまうと、どうにもなりません。『アリスシステム』の活性を抗てんかん剤で抑え込むしかない。それでも、本来の『逐次処理システム』は回復しません。ただ『認識』そのものが朦朧《もうろう》と眠ってしまうだけです。逆に、抗てんかん剤の効き過ぎで生半可に目覚めてしまえば、そのほうが悲劇です。世界の読み取り方を見失ったまま、剥《む》き出しの世界に放り出されるのですから……」 「……極度の緊張に襲われる!」 「分裂病患者の急性緊張状態のように、読み取れない世界と一緒に錯乱するしかなくなります」 「『逆説的に精神運動興奮』、だ……じゃあ、わたしの診たパニック被害者が喚《わめ》いていた、PCRを賦活する声というのも……」 「『アリスシステム』の活性が——特に側頭葉の活性が——運動性言語野に飛び火して、それで突発的に飛び出してきたもの、なのでしょう。アリスの言語と似たような波長を持っていますが、同じものではありません。だいたいあの言語が、人に理解できるはずもないのですから。とすれば完璧《かんぺき》に真似ることも不可能です。せいぜい、もともと光刺激に賦活されやすい人の脳波に影響するだけですし、それもPCRの賦活程度で終わります」 「フィードバックシステムを強化するフィードバック、にまでは至らないわけだ」 「それこそ、抗てんかん剤でコントロールが可能です」 「だから、『欠片《かけら》』、あるいは『余波《なごり》』か……とすると」ちょっと待ってくださいよ、と本間は、運転席の五月へ手のひらをかざした。「もしかしてわたし、『瞭命館パニック』の全貌《ぜんぼう》を、ほぼ見渡すことができたんじゃないですか?」 「あなたが何を見渡しているかなんて、わたしにわかるわけないでしょう?」  なんて五月の戯言《たわごと》を無視して、本間は自分の思考作業に没頭した。いくつものキーワードが見つかったし、それらを橋渡しする筋道も見えてきた。あとはそれを、実際一本の線に繋《つな》ぐだけ——それこそ、『論理的思考能力』の腕の見せ所——まずスタートは……  瞭命館パニック。正体不明の意識障害、あるいは中枢神経系障害。その発端は、比室アリス。おそらく周産期に発生した何らかのトラブルによって、左半球の萎縮《いしゆく》した少女。その萎縮が重篤な発達障害・精神遅滞として顕在化した、重度の障害児。ただし、その障害は一方で、才能の孤島を生み出した。比室アリスはサヴァン能力者。論理や手順に頼らず、複雑系を『フラクタル』で一括処理する。そのサヴァン能力者の中でも、比室アリスは『頭抜けている』。具体的な作業への執着から解き放たれて、フラクタル処理法を一般化した。世界をフラクタルな多次元へと引きずり上げた。それが比室アリスの『世界観』。  その世界観のために、比室アリスは特殊な生理学的機能を生み出した。後頭葉—前頭葉フィードバック回路。これに側頭葉の反応も付随して、フィードバック回路を強化するフィードバックとしての『言語』が生まれた。比室アリスのフラクタル多次元に対応した、フラクタル多次元的な言語。その言語は、フラクタル次元に属する波長によって、人の脳を比室アリスの脳と同じ状態へ引きずり込む。後頭葉、前頭葉、側頭葉に群発する、9Hz前後の高電位鋭波。それが、アリスの声を聴いた者に意識変容をもたらす——中枢神経系の障害の疑われる全身痙攣の意識障害。さらに、システムとして強固に焼きつくため、人の脳本来の認識システムを駆逐する——回復不能な人格荒廃。こうして発生したのが……  瞭命館パニック。  逐次的な関係性の連鎖が、この瞬間、ひとつの見事な輪を描いた。ほとんどうっとりするほどの、整然とした『理解』の環《わ》。これこそ、人の論理的思考能力の、真骨頂だ。     三十三、  本間が美しい『理解の環』に左半球を恍惚《こうこつ》とさせているうちに、セダンは被災地の最深部まで踏み込んで、やがてフロントガラスに潰《つぶ》れた救急車が見えてきた。 「なるほど、確かに比室アリスは『頭抜けている』、と……」本間は恍惚の狭間《はざま》にぼんやりと呟《つぶや》いた。 「どころか、化け物ですよ」と吐き捨てると、五月はぐいとサイドブレーキを引いた。 「化け物?」 「だって人間じゃないんですから」 「……知的障害者を化け物呼ばわりとは、ぞっとしますね」 「そんなつもりの『化け物』じゃないんですけど。わたしが『化け物』と呼ぶのは、その障害じゃなくて、才能です……『才能』なんて生半可な呼び方じゃ足りないくらいの、超越的な知性ですよ。あの娘は蝶《ちよう》を9・7次元上で無限に捕まえる。おまけにその9・7次元で、わたしたちの低次元な世界を吹き飛ばす。わたしたちとあの娘では、世界を共有できないほどかけ離れているのです。とすれば、化け物でしょう? あれ[#「あれ」に傍点]は、ヒトがはじめて接触したヒト以外の知的存在です。その世界は誰にも『理解』できないんですよ」 「そうとも言い切れんな」  第三の声が割り込んだ。運転席の扉の向こうに、背の高い初老の男が立っていた。 「化け物のことは、化け物になら『理解』できるのかもしらん」  五月は扉を開放し、運転席を離れた。ちらり、と父親を一瞥《いちべつ》する。「槌神先生、ご無沙汰《ぶさた》しています」 「元気そうで何よりだな」総一郎も娘をちらりと一瞥すると、助手席から現れた眼鏡男に視線を移した。「なんでキミが現れるわけだ? 文科省のなんとかというヤツが来るんじゃなかったのか?」 「その……上も混乱しているわけですよ。猫の手も借りたいんじゃないですか?」 「で、」五月が割り込む。「化け物のことは化け物になら理解できる、とはどういうことです?」 「これを見ろ」  槌神総一郎は、島崎家で入手した風景画を五月へ手渡した。完璧な、あまりにも完璧過ぎて風景を失ったかのような、風景画。それを街灯の明りの下に広げ、覗《のぞ》き込み……  五月は愕然《がくぜん》と凍りついた。 「言葉も『わたし』も失った状態で世界を眺めたことのあるキミなら、こういう景色に見覚えがあるのではないか?」  という総一郎の言葉に、五月は何の反応も示さなかった。まるで、絵に凍りついた完璧さに食われてしまったかのように、彼女自身も完璧に凍りついていた。  何なんです、と本間がセダンを回り込んで身を乗り出す。五月の肩から絵を覗いて、一瞬、息を呑んだけれど、それ以上、何の感想も出てこなかった。その絵は、感想を捻《ひね》り出す隙もないほど、完璧だった。 「……達者ですね」と、誉め言葉でもないような誉め言葉が聞かれただけだった。 「写実的だ」槌神総一郎が付け足す。「風景画としては蛇足と思えるほどに、な。本当の問題はそこではない。わたしはこれを、この付近のある民家で手に入れた。描いていたのは、十歳前後の少女だ。意識障害に襲われたまま、一心不乱に制作を続けていた。床に同じ絵が何枚も散らばっていたな。同じ絵を、まったく同じ完璧さで、量産していたわけだよ。傍らに写真があった。この絵はその写真を精密に再現したものだ。ただし少女は、その写真を一度も振り返ることなく、ただ画用紙だけに打ち込んでいた」  はた、と本間が顔を上げた。「もしかして……『直観像』?」  キミには話しておらん、といった感じで、槌神総一郎はちらりと本間を睨《にら》んだ。「それだけじゃない。意識障害に襲われたまま一心不乱にピアノに打ち込む少年、にもわたしは遭遇した。テレビのスピーカーから流れる曲をそのまま完璧にコピーしていたよ。わたしの口調を完璧に真似る少年にも出会ったな。わたしがドイツ後で語りかければ、彼も完璧なドイツ後で鸚鵡返《おうむがえ》しした」  と、総一郎は五月へ語りかけるのだけれど、彼女は手元の風景画を睨んだまま、ぴくりとも動かなかった。  総一郎は五月の手から貴重な資料を引っ手繰った。手元にくるくると丸めながら、続ける。「どういうことか、わかるか?」  が、五月はいきなり絵を取り上げられた弾《はず》みで、ぎくり[#「ぎくり」に傍点]と身を震わせただけだった。 「アリスのSの影響で、子供たちがアリスと同じ能力に目醒《めざ》めはじめている」 「アリスと同じ能力、というと……」本間が口を挟んだ。「『世界をフラクタル次元で一括処理する能力』、ですか?」  またキミか、と総一郎は本間を睨んだけれど、五月はほとんど彼の話を聴いてもいない様子だったので、続きは本間へ告げた。「そこまで言えるのかどうかは、わからん。少なくとも、一般的なサヴァン能力者に匹敵するスキル、とは言える。それ以前に、十代前半以前の児童は比室アリスのSに対する『耐性』を持っている。意識障害が比較的軽度ですむんだ。これは、わたしの確認したすべてのケースで言えることだ。その耐性の上に、ある程度の割合で、今言った『親和性』がかかってくる。比室アリスのスキルを自分のスキルとして吸収する親和性、だ。そして彼らはそれを、何らかの具体的な作業の上に実現させる」 「後頭葉、前頭葉、側頭葉に発生する9Hzの高電位徐波を、……システムとして、自分のものにしてしまう?」 「少なくとも部分的には、な。考えてみれば、十歳前半以前の児童の大脳半球と、大人のそれとでは、生理的状態がかけ離れている。アリスのSに対する反応に較差が出るのは、必然かも知らん。あの年代の子供の大脳半球は、左右どちらかを失っても立ち直れるほどの生命力を持っている。子供はな、あれはあれで、化け物なのだよ」ちらり、と総一郎は五月を見下ろした。「子供を持ったことのない人間にはわからんかも知らんが」  というちょっとした皮肉にも、五月は反応しなかった。ふん、と総一郎は鼻を鳴らす。 「とにかく……比室アリスを見つけるのが先だったな。こんなところで化け物の立ち話をしていてもはじまらん」総一郎は背後で待っていた文科省職員らへ振り返った。「捜索をはじめよう。段取りはキミたちが決めてくれ」  と告げると総一郎は、軽く五月の肩を叩《たた》いて、いい加減で正気に戻れと促した。     三十四、  そんな馬鹿な。  アリスの「右半球的言語」に接触した子供たちが、アリスと同じ才能に目醒めはじめている。  後頭葉、前頭葉、側頭葉に吹き荒れる9Hz前後の異常脳波を使って、世界をフラクタル次元へ引きずり上げようとしている。  ……馬鹿な。有り得ない。  あれは普通の人間には理解不能な世界なのだ。理解どころか、生理学的に耐えることすら不可能な状態なのだ。あれに接触した人間は、ただ劇的な脳の変化に吹き飛ばされて、世界を見失うしかない……  ……けれど。  槌神総一郎に見せられた風景画。あれは確かに、七年前に五月の垣間《かいま》見た「もうひとつの世界」を感じさせた。  あの絵には、「わたし」がなかった。  完璧な精密さが凍り付いているだけで、それ以外何も存在しなかった。景色はあっても、それを眺めているはずの「作者」がどこにもいなかった。あの圧倒的な不在感と、どこかで何かがとち狂ってしまったみたいな異常な精密さ……まるで、完璧なシンメトリーの中に凍りついた比室アリスの無表情そのものだ。  あれを、……比室アリスの「右半球的言語」に接触した子供が描いた? 「直観像」を駆使して同じものを量産していた?  子供には、あの化け物の言葉が「理解」できる?  比室アリスの異常な世界観を「共有」することができる?  ——最後の扉を開く前の子供なら、あちら側の世界に扉を開くのかも——  そんな馬鹿な。  だいたい、あんな世界に扉を開いて何になる? 誰もいない。「わたし」もいない。言葉もない。意味もない。時間もない。何もない。ただ、9・7のような異常な次元を無限の蝶《ちよう》が舞い続けるだけ。ほら、やっぱり、何もない。  人は、人のままでいたいなら、矮小《わいしよう》な低次元に閉じ籠《こ》もって世界を夢見るしかないのだ…… 「……五月さん?」  誰かが彼女を呼んでいた。五月ははたと我に返る。 「五月さん?」静まり返った街中に、本間和輝が突っ立っていた。「どうするんです? みんな行っちゃいましたよ?」  周囲を見渡す。槌神総一郎も、三人の文科省関係者の姿も、もうそこにはなかった。そういえば、五月が呆然《ぼうぜん》としている間に、彼らはアリス探索の段取りを話し合っていた。各自に受け持ちのブロックを割り振って、効率的に探し出そう、なんてことが取り決められた。本間和輝だけは、半ば部外者なので、槌神五月が付き添うことになった。五月自身がそれを申し出たような気もする。どっちにしても、一部始終、夢見心地だった。 「あの……わたし、もうこれ脱いでもいいですよね?」  そう呟《つぶや》いてビニールを脱ぎ捨てる本間のことを、五月はぼんやり見守った。なんだか……目の前の男がどういうつもりで何をやっているのか、いまいちピンと来ない。頭の上の街灯に、かなぶんが飛び込んでは跳ね返されるのが、やけに気になる。ちらちら、ちらちらと…… 「さあ」ビニールを脱ぎ捨てた本間が、せいせいしながら告げた。「行きましょう。僕らはこっちです」  と呼ばれても、五月はまだ、どうしたものかと突っ立っていた。「僕ら」に自分が含まれていることにも気づかないまま。  やがて十字路に出たところで、槌神総一郎は登りの道へと折れた。  街が静まり返っている。自治体の退避命令が出て以来、湾曲しながら海へと下る上高倉全体が、沈黙して闇に沈んでいた。ただ、彼の歩く周辺の界隈《かいわい》だけ、軒に明りが灯《とも》っていた。人の気配もないままに。この取り残されたような街明りは、退避命令に答えることもできないほど意識を吹き飛ばされてしまった人々の、街明りだった。  遥《はる》か頭上、坂道を上り詰めた先に、数基のマンション群が黒々とそびえている。  ……槌神五月にあの絵を見せたのは、軽率だったかもしれない。  あれほどショックを受けるとは思わなかった。その様子に、総一郎は総一郎で別のショックを受けてしまった。なんだか残酷なことをしてしまった気がする。もともと、その残酷を自分が意図していたような気さえする。父親を見失った残酷な娘に対する復讐《ふくしゆう》として。静まり返った坂道を登りながら、総一郎は坂道みたいに気が滅入ってきた。  はた、と足を止める。  何か聞こえる。  きり、きり、きりと、規則正しく。  振り返ると、公園があった。こぢんまりとした、これが二十一世紀の公園かと思うとますます気が滅入ってしまいそうな、街の隙間のような公園。滑り台のふもとに砂場がある。その傍らに街灯が灯っていて、そのふもとにブランコが揺れていて、それでおしまい……  ヴヴ、と総一郎は喉《のど》を痙《ひ》き攣《つ》らせた。  ブランコのふもとに白い塊が転がっていた。  ——……比室アリス——  ブランコの椅子に見知らぬ少女がもたれかかって、ブランコをきりきり[#「きりきり」に傍点]と揺らしていた。そのきりきり[#「きりきり」に傍点]を聞きながら、化け物は地べたに呆然と伏せているのだった。  ……さすがに痺《しび》れが走った。考えてみれば、「ドーム」ではない場所にその姿を見るのは、はじめてだ。おかげで、公園そのものがドームのような非日常的な空間に感じられる。しかし、……例の救急車から二百メートルは離れているぞ? どうしてこんなところに? まさか、あの少女に連れられて? あの少女が、Sの影響で意識変容に襲われたまま、化け物を連れて、ここまで歩いてきた? これも「耐性」の仕業? 大人と子供では、ここまで大きな較差が出るというのか……  さて、どうする。  文科省の連中と取り決めた手順によれば……比室アリスを発見したら、その場では何もせず、まずは応援を呼び集める。  しかし、だ。  とうとう手に入れた。覚醒《かくせい》状態の比室アリス。  槌神総一郎の娘を消し飛ばした、化け物。  今度こそ——見せてもらおうじゃないか——  ぐい、と背筋を張り直すと、総一郎は夜の公園へと踏み込んでいった。  はた、と五月は足を止めた。  何だろう、この感じ……  ううう、と五月は不快に顔を歪《ゆが》める。  その気配に本間が気づいて足を止めた。「どうしたんです?」  どうもこうも、これは……  第六感だ。  理屈や説明とは無縁なところから、不意に転がり落ちてくる、正体不明の確信。  この感覚は、概《おおむ》ね右半球に属している——と、少なくとも五月は考えている——。直観。テレパシー。超自然的感覚。なぜ超自然的かといえば、理屈や説明といった論理的思考を無視したところから舞い降りてくるから……要するに、左半球的な手続きが無視されているから、だ。五月には、これも例の「フラクタル」に属しているように思われて、仕方がない。実際、左半球に問題を抱える右半球の天才たち——サヴァン能力者——には、説明不能な第六感を働かせる者が少なくない。誰も知らない訪問者の来訪を、玄関先で待ち続けたり。あるいは何の前触れもなく「どこそこの誰々から電話がかかってくる」なんてことを言い出して、実際その通りになったり。ESP、なんて使い勝手のいい造語で処理する手もあるが、「フラクタル」で紐解《ひもと》いて見るのもひとつの手だ。もしもヒトの中枢神経系のどこかが——たぶん右寄りのどこかが——、言葉にもならないような多次元のどこかで、ヒトの行動パターンを精密に捉《とら》えているとしたら。それも、個々人の要素に分解して捉えるのではなく、膨大な全体像の描くランダムな推移として捉えているとしたら。しかも、一見してそれとわかるような単純なパターンではなく、次元の狭間《はざま》に捉えられた複雑な自己相似の中にそれを見出《みいだ》しているとすれば……  アリの群れでも見下ろすかのように、人でもないような高みから、人の群れの描く複雑なフラクタル模様を見下ろしているとしたら。  そうすれば……理屈も説明も届かないようなどこかから、忽然《こつぜん》と「次の何か」に関する確信が転がり落ちてきても、不思議はない。  だから、槌神五月に言わせれば、第六感の手触りは「もうひとつの世界」に似ている。  その確信は絶対的だ。絶対的なのだけれど、どう絶対的なのかは言葉にならない。説明のしようがない。これといった脈絡もない。ただ、わかった[#「わかった」に傍点]という感覚だけが、ぽかんと転がり落ちてくる。何の意味も感じさせないまま。  五月にはこの感触が恐ろしい。意味も、脈絡もない、「わたし」すら感じさせないような何かが、「わたし」の脳に潜んでいる。それは「わたし」の脳が生み出したもの、にもかかわらず、「わたし」には理解できない。「わたし」は「わたし」の脳の中ですら、低次元の片隅に閉じ籠《こ》もった矮小な夢でしかないらしい……  とまあ、五月の「自己」にとって第六感は不愉快そのものなのだけれど、不愉快だからといって、利用価値がないわけではなかった。特に、今この静まり返った上高倉で転がり落ちた直観的な確信は、試してみる値打ちがありそうだった。  ふう、と五月は深い吐息をついて、まずは自分を落ち着かせた。それから彼女は、その異次元からの漂流物を、逐次的な「左半球的言語」に翻訳して、本間へ報告した。 「こっちじゃないみたいです。上へ行きましょう」 「……は?」本間は、五月の漂わす得体の知れない確信を、怪訝《けげん》そうに藪睨《やぶにら》みした。「上ですか? どうして?」 「こっちを探しても無駄だからです」 「……ですからどうして[#「どうして」に傍点]?」 「あの娘は上にいます」  三度目もどうして[#「どうして」に傍点]しか思いつかなかったらしく、結局本間は黙り込んでしまった。 「行きましょう」五月は勝手に決めた。どうせこれ以上説明のしようもないのだし。彼女は呆然とする本間の腕を引っ手繰ると、「上」を目指して歩きはじめた。そっちは僕らの受け持ちじゃないですよ、ばらばらに動いても効率が悪いだけじゃないですか、と本間が不平を繰り返したけれど……効率? そんな逐次的な分担処理に付き合っている暇はない。とにかく、彼女の中枢神経系は、論理を超越したどこかで、「上」に対して不吉な予兆を読み取ったのだ。 「走ります」  五月はそう言い渡すと、坂道を駆け上がっていった。     三十五、  今度こそ、見せてもらう。  言葉も理屈も、「わたし」の概念も通用しない世界を。  槌神五月を引きずり込んだ「もうひとつの世界」を。  ——化け物の化け物たる由縁を——  高台へと登る道に、海から駆け上がってきた突風が吹き荒《すさ》ぶ。それを肩で切りながら、総一郎は公園へ乗り込んだ。ひとつだけ灯った街灯が、接触不良でも煩っているのか、ちらちらと二つ三つ瞬いた。化け物は逃げも隠れもせず待っている——よろしい!——。総一郎は化け物の鼻先に仁王立ちした。微《かす》かに明滅する街灯のふもとに、化け物を見下ろした。化け物は動かなかった。その風穴のような黒目は、世界の全てを無視していたし、当然総一郎のことも無視していた。 「……どうした?」総一郎がけしかける。「化け物め。目を醒《さ》ましたのだろう? やってみせろ。『もうひとつの世界』とやらを、見せてみろ」  と、厳しい目つきで挑発した総一郎の表情が、直後、砕け散った。  というのも、ちらちらと気障りに明滅する街灯のふもとで、化け物の化け物じみた無表情が、挑発的に砕け散った。  捜索の方は、うまくいっているのだろうか?  あるいは、——槌神親子、うまくやっているだろうか?——  権藤勲は、アカデミック・エリアの外れに立って、上高倉を見下ろしていた。  あと数年で人口二万五千に達するはずのその街は、今ではほとんど闇に沈んでいた。ぞっとするような暗黒の片隅に、ぽつんと一握りだけ、明りの残された一角があった。あれはどうやら、例の救急車の止まっていた辺り……震源地だ。異次元に吹き飛ばされて、もはや避難もままならなくなった人々の、残した明り……  比室アリスはあそこにいる。権藤の部下たちも。槌神親子も。そしてたぶん、本間和輝も。あの鼠野郎、戻ると言ったきり音沙汰《おとさた》がない。結局、震源地まで下ってしまったのだろう。まったく、どうしてやろうか。やっぱり、技官として入省……  はた、と権藤は顔をしかめた。  何か今……嫌な感じがした。  何だろう……いや、周囲を見渡しても、何もない。ただ、海からの風が吹き荒んで、更地に秋の虫が鳴き交わしているだけだ。だけなのだけれど……  嫌な雰囲気、じゃないか?  彼はふもとの、闇に取り残された光の一角を、鋭く睨んだ。  化け物が、化け物が……  ——ああ、これが、噂に聞いていた、ダイナマイト・スマ……——  が、総一郎の理性はそこで途切れた。  視線の先に、強烈な何かが炸裂《さくれつ》していた。それが彼を、情動と本能ばかりが吹き荒ぶ原始の世界へと引きずり込んだ。彼の剥《む》き出しの本能が、「絶対に手放すことの許されない何か[#「何か」に傍点]」を強く訴えてきた。暴走した情動が、それ[#「それ」に傍点]を求めて怒り狂い、泣き叫んだ。吹き荒れるすべてのものを、ひとつの言葉に集約して、総一郎はその「笑顔」に「名前」をつけた。 「サツキ……なのか?」  彼の目には、右や左に色とりどりのクレヨンを散らかしながら、「伊豆の海」を描き殴る、他愛なさげな少女の笑顔が映っていた。     三十六、  坂の上に、ちらりと痩身《そうしん》な影が過《よぎ》った。  過ったと見えた直後には、背筋をしゃん[#「しゃん」に傍点]と整えながら、路肩に消えていった。  ちっ、と五月は、早駆けの合間に舌打ちを吐いた。槌神総一郎だ。しかもあの張り詰めた気配……きっと比室アリスを見つけたのだ。  で、一人でのしのし踏み込んでいった。あの幼稚なまでの自信家、一人で何事か試そうとしている。  ——自信や気負いが通用するような相手じゃないというのに——  五月は歯軋《はぎし》りしながら坂道を駆け上がった。路肩に公園が現れる。高台に張り出して、眺めはいいのだけれど、遊具を三つ並べただけで人の居場所もなくなるほどの惨めな広場だった。中央に街灯が灯《とも》っている。そのふもとにブランコが並んでいて、見知らぬ少女がそのひとつをきりきりと揺らしている。ブランコの傍らに、槌神総一郎の細い背中がうずくまっていた。胸に白い塊を抱え込んで……抱え込んで?  どういうわけか槌神総一郎は、比室アリスの華奢《きやしや》な身体を、ひしと胸へ抱き寄せているのだった。まるで二十年ぶりの我が子か何かのように。  五月はあんぐり口を開いて、その意外な光景を見守った。あの男……何をやっているのだ? 何か試そうとしているようには見えたけれど、いったいこれは、どういうこと? 不可解そうに二人の様子を覗き込んだ、その直後、五月はその場に跳ね上がった。  ——これかっ!——  比室アリスが笑っていた。  五月は慌てて目を逸《そ》らした。その笑顔の素晴らしさに、心臓を激しくときめかせながら——あの笑顔は原始的本能を駆り立てる。あるいは、こうして目を逸らすことに激しい罪悪感を覚えながら——あの笑顔は人の情緒を掻《か》き乱す。それは笑顔の最高傑作だった。それはもう、見てはいけないほどの傑作だった。というか、  結局それは笑顔じゃなかった。  チックに過ぎなかった。辺縁系のしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]みたいなもの。いかにも比室アリスらしい、風穴のような「無意味」。  その無意味に、槌神総一郎は食われてしまったらしい。七年前に比室研究室の面々がみんな食われてしまったみたいに……だからって、駆け寄って抱き締めてしまうなんて、この男、いったい何の夢を見ているんだか…… 「……先生」  五月は化け物の笑顔を視界の外れへ追いやったまま、総一郎の背中へ呼びかけた。 「離れてください、先生。その娘を抱くのは危険です。その娘は『ヒトの心臓の音』を食います。そこに秘められた『1/fの揺らぎ』に反応して、右半球に9Hzの異常脳波を立ち上げるのです」  が、総一郎は振り返りもしなかった。ただひたすら、腕の中の少女の感触に酔いしれていた。少女の方も、両腕を大きく開いて老人の胸にしがみついて……これは違う。総一郎の腕とはまったく意味が違う。というか、この腕にはまったく意味がない。山ヒルが生き血を求めて貼りついている、という程度の意味しかない。  母親の胎内に左半球を置き忘れたこの少女は、恐らくその胎内で右半球が耳にした『母親の鼓動』を——そこに秘められた規則と不規則の狭間《はざま》の揺らぎを——、いまだに追い求めるのだ。人を超越した知性によって。  ——……化け物め—— 「今のうちに眠らせます」五月はきっぱり言い渡した。と同時に、背後に誰かが息を呑《の》むのが聞こえた——たぶん本間和輝が追いついて、そして彼も化け物の笑顔を見てしまったのだろう。五月は彼へ手のひらを差し向けて、来るなと制しながら、総一郎へ続けた。「この状態のまま放っておくのは危険です。そういう段取りだったはずでしょう? 見つけたら、応援を呼んで、眠らせる。あとは、比室アリスが落ち着くまで、その場で待機する……」  総一郎は動かない。かわりに比室アリスが動いた。華奢な身体を、一瞬ぎくりと震わせた。その震えの奥から、ヴヴヴと、聞こえるとも聞こえないともつかないような重低音が立ち上がってきた。重低音は、よく聞き取れないまま増幅されて、やがて公園じゅうの大気が震えはじめた。ちらり、と五月の鼻先に、不思議な虹《にじ》色が閃《ひらめ》いた。虹色は、ちらちらと、次第に数を増していく……それがいちいち、つかの間|蝶《ちよう》のポーズを取っては、闇に砕け散っていく……  化け物め、やる気[#「やる気」に傍点]だ。  五月は虹色の最中《さなか》に駆け込んで、少女の首根っこをひっとらえた。  槌神五月に指示されて、本間はわけもわからないまま坂道を走らされたわけだけれど、駆けつけた先には、さらにわけのわからない景色が待っていた。  公園がある。ブランコに少女がもたれかかっている。その脇に槌神総一郎がいる。胸に何かを抱き締めている。透き通るほど真っ白な少女。濡《ぬ》れたような黒髪ばかりが、白い身体とコントラストをなして、グロテスクなくらいのなまめかしさを放っている。  比室アリスだ。  ビデオで見かけた姿より、少しは成長したらしい。そろそろ誕生ケーキに蝋燭《ろうそく》が七本並んでもおかしくないだろう……七本? あれから七年過ぎているはずだぞ? とすれば……十四歳? 十四歳だと? このちっぽけな体格で?  と、その顔立ちを覗《のぞ》き込んで、本間は愕然《がくぜん》と凍りついた。  これは……  これは……  ……何なんだ? 笑っている、らしいのだが……何なんだ? この強烈さは何なんだ? 年寄りの抱擁なんて、軽く吹き飛ばしてしまうほどの、この野蛮な輝きは何なんだ? 何なのだか、さっぱりわからないのだけれど、とにかくその笑顔、なにしろ見事なものだから、本間はどうしても、どうしても……  目を逸らすことができないのだった。それは、七年前の映像で見かけたそれより、はるかにパワーを増していた——言い換えれば、当時よりも数倍増しに脈絡を欠いていた[#「脈絡を欠いていた」に傍点]。そのぶん笑顔の原型的な美しさだけが、眩《まばゆ》いほどに炸裂しているのだった——なるほど、「脈絡」や「意図」が携わらなければ、「笑顔」とはこれほどまでに輝くものらしい。なんて馬鹿げたことを思いつきながら、本間は我知らず、笑顔へじわりと吸い寄せられた。  が、その鼻先にバリケードのような手のひらが突きつけられた。  槌神五月だ。来るな、と指図している。そうして本間を追い払いながら、彼女は槌神総一郎へ呼びかけた——先生、離れてください。総一郎は動かなかった。かわりに……公園に、妙な気配が立ち込めはじめた。何か聞こえるような、あるいは見えるような、ちらちらと、不思議な、不思議な……  虹色?  本間は呆然《ぼうぜん》と左右を見渡す。比室アリスの華奢な身体が、金属的な虹色を放ちはじめて、やがてその光の群れは、ひらひらと、舞い上がり……  ……蝶?  比室アリスが……虹色の蝶に取り囲まれていく?  槌神五月が動いた。少女の首根っこをひっとらえる。彼女は少女を、老人の胸から力ずくで引き剥《は》がした。瞬間、少女の身体が無数の蝶になって砕け散った。まるで、もともと少女は少女ではなく蝶の掻き集めだったかのように。槌神五月は、片腕に少女を吊《つ》り上げたまま、もう片腕を虚空へ大きく振りかぶった。その腕の先に、本間が硬い拳《こぶし》を見つけた直後、  槌神五月はその拳を少女の首根っこへ振り下ろした。  同時に、まるで本間自身が殴られたかのように、どこから振り下ろされたともしれない巨大な衝撃ががつん[#「がつん」に傍点]と一発彼を襲った。その一撃が、すべての蝶を消し飛ばした。公園に立ち込めていた不思議な虹色が、一瞬にして虚《うつ》ろな闇に戻った。そして本間は蒼褪《あおざ》めた砂場に放り出された。放り出されて、つんのめって、冷たい砂に頽《くずお》れる。膝《ひざ》も肘《ひじ》も砂塗《すなまみ》れになりながら、呆然と周囲を見上げた。ひとつだけ灯《とも》った街灯のふもとに、槌神五月が華奢な少女を吊り上げていた。少女の首が、ぐらりと有り得ないような方向へ傾いた。傾いたまま、まだ曖昧《あいまい》に笑っているのだから、かなり気味が悪かった。  ちらり、と五月が本間へ振り返り、低い声色で尋ねた。 「大丈夫ですか?」  大丈夫……なんだろうかと、本間は不思議そうに首を傾げた。そのまま右や左へ傾けながら、ようやく一言、息苦しげに搾《しぼ》り出した。「……何をしたんです?」  何でもないですよ、と五月は肩をすくめた。「七年も狭いところに閉じ込められていたような相手です。適当にどこかを殴ってやれば、すぐに貧血を起こします」  なるほどね、という感想もうまく言葉にできないまま、本間は立ち上がった。五月は少女を砂場の脇へそっと横たえる。 「けれど……」本間は少女を呆然と見下ろしながら、呟《つぶや》いた。「今の、何だったのです? まるで、不思議な、不思議な……蝶? みたいなものが、見えた、ような気が……」  と取りとめもなく呟きながら、本間はやがて続けられなくなった。というのも、その景色はどうにも言葉にならなかったし、それにやっているうちに、槌神総一郎が妙な行動を取りはじめた。ずる、ずると、七日目の蝉みたいに四肢を引きずりながら、彼は比室アリスへにじり寄った。そうして少女の空虚な無表情を——今ではすっかり卒倒して、表情どころか黒目すら見当たらなかった——、ぞっとするような間近に覗き込み、それからおっかなびっくりその顔立ちへ手を伸ばした。 「刺激しないでください」五月が制した。「目を覚ませば、きっとまた同じことを繰り返します。今のうちに抗てんかん剤で鎮めましょう。それから上へ連れ戻します」  が、総一郎はこれっぽっちも聞き入れなかった。彼はついに、震える両手で少女の首を拾い上げ、それを自分の膝へ引っ張り上げた。おかげで少女の頸《くび》は、シュールリアリズムみたいな奇妙な方向へ捻《ねじ》れてしまった。総一郎は膝の上の風穴に食い入る。風穴はいくら食い入っても風穴だ。やがて彼は、ちらりと悩ましげに、表情を歪《ゆが》ませた。 「先生」五月が繰り返した。「いい加減にしてください。先生が……さっきのその娘の表情にショックを受けられたのはわかります。わたしも同じものを見ましたから。けれど、だとすればそれ[#「それ」に傍点]のことは忘れてください。だってそれには何の意味も……」 「貴様」五月の説得など端《はな》っから聞いていなかったような感じで、総一郎がうめいた。「あの娘[#「あの娘」に傍点]をどこへやった」 「どこへって……どういうことです?」 「あの娘[#「あの娘」に傍点]をどこへやった!」弾《はじ》けんばかりに吼《ほ》え上げる。 「あの娘って、いったい……」 「あの娘はあの娘だ! 他に誰がいる!」  五月は呆《あき》れたように頭を抱えた。「先生、わかっていらっしゃるとは思いますが、もともとその娘の中には誰もいな……」  喧《やかま》しい! と総一郎は五月の屁理屈《へりくつ》を吹き飛ばした。「わたしはどこへやったかと聞いている!」 「ですから……」 「貴様あの娘[#「あの娘」に傍点]に何をした!」  という、ほとんど脈絡も見当たらないような押し問答を、本間は砂場に突っ立って呆然と眺めていたのだが……考えてみれば、この二人は親子なのだから、親子|喧嘩《げんか》なのかもしれないが……やがて本間は、この噛《か》み合わない親子喧嘩より、その背景[#「背景」に傍点]に目を奪われた。 「貴様何をした! この化け物め[#「この化け物め」に傍点]!」  なんて調子で槌神総一郎は吼《ほ》えていたけれど、本間はもうそちらへは振り返らなかった。親子喧嘩の背景で、鋼の鎖に吊られたブランコが、ちゃりり[#「ちゃりり」に傍点]と軋《きし》んで揺れた。そこにはずっと、見知らぬ少女が寄りかかっていて、そしてすっかりないがしろになっていたのだけれど、今やその少女が、出番とばかりに立ち上がった。拳に鎖を握り締め、ぎしぎしと軋ませながら、やがて少女は不穏な気配に包まれはじめた。  不穏な、この世のものでもないような虹《にじ》色の気配に。  しかしこの気配は……  ……だとしたら、喧嘩なんかやっている場合じゃない。本間は五月の注意を喚起しようと、口を開き、何か言いかけたのだけれど、寸前、喉《のど》を痙《ひ》き攣《つ》らせて凍りついた。  少女の唇が、ぽかんと、風穴のような楕円《だえん》に開かれた。まるで幾何学的に計算されたかのような、無機質な楕円だった。その無機質の真っ暗闇から、ぽろりと一羽、虹色の蝶がこぼれ落ちた。     三十七、  きりきり[#「きりきり」に傍点]、きりきり[#「きりきり」に傍点]、きりきり[#「きりきり」に傍点]。  意味も、言葉もない、誰もいない世界で、渡瀬春奈は「渡瀬春奈」を手放した。「世界」すら手放されたような世界で、ただ、揺り籠《かご》のようなきりきり[#「きりきり」に傍点]だけを聴いていた。そこには素晴らしい虹色が立ち込めていて、虹色は蝶《ちよう》の姿を纏《まと》っては、永遠の虚空へと舞い上がった。見上げると、無限大の蝶の群れが、春奈の頭上を覆い尽くしていた。とすれば彼女は、蝶の翼で舞い上がりながら、無限へと砕け散り、永遠の狭間に閉じ込められていくのだった。  が、あともうひと息というところで、突然翼が引き裂かれた。  虹色が砕け散った。世界を覆っていた蝶の群れが、殴られたみたいに崩れ落ちた。春奈はがくんとよろめいて、そして忽然《こつぜん》と、「もとの世界」に放り出された。もとの世界——すべてのものが、意味や理屈へ引きずり下ろされた、低次元な世界。蒼暗《あおぐら》い空間に、いろんなものが並べられていて、それらの名前をすべて思い出さなければそこがどこなのかわからないらしかった。ほんの鼻先に、誰かと誰かが何かを喚《わめ》き合っていて、それらの意味がわからなければ彼らの仲間にはなれないらしかった。そっちが誰で、あっちが誰なのか、それを知りたければまず自分が誰なのかを知らなければならないようだった。  そこは、自力ですべてを並び替えなければ何一つ「理解」できない世界——「死んだ蠅」を「蠅」と呼べなければ餓死する世界——だった。「わたし」の力で「わたし」を夢見なければ「わたし」も世界も成り立たない、愚鈍で低レベルな逐次処理世界なのだった。  春奈は世界を前に愕然《がくぜん》と蒼褪めた。 「わたし」のいらない世界から、突然こんなところに引きずり出されて、戸惑わないはずがない。いきなり「わたし」なんかを要求されて、どうしていいのかわからないまま、彼女はパニックに陥った。鼻先の口論が、わけのわからないまま沸騰していくものだから、彼女のパニックは錯乱へと突き進んだ。彼女は咄嗟《とつさ》に立ち上がった……立ち上がった? ということは、「わたし」は確かにここにいるわけだ。「わたし」の中身はまだ見つけられないまま。「わたし」はまだ見つからないのにすでに「わたし」は「わたし」の中に閉じ込められている……もうどうしようもなかった。泣き叫ぶくらいしか芸を思いつかなかった。彼女は、両手の拳に冷たい鋼を握り締め、肺にいっぱい空気を吸い込んだ。  が、泣き叫ぶ程度の芸当すら、「わたし」のいない「わたし」にはうまくいかなかった。  かわりに、喉の奥が妙ちくりんに痙攣《けいれん》して、気味の悪いビブラートがこぼれ落ちた。ビブラートは、春奈の鼻先で蝶の姿を纏って、ふわりと虚空へ舞い上がった。七色に棚引く鱗粉《りんぷん》には、煩雑な「わたし」を必要としない、あの安らかな世界の香りがして……春奈は蝶を追いかけた。蝶を求めて舞い上がった。 「あの娘はあの娘だ! 他に誰がいる!」  五月は呆れて頭を抱えた。「先生、わかっていらっしゃるとは思いますが、もともとその娘の中には誰もいな……」  喧しい! と槌神総一郎は五月の説得を吹き飛ばした。「わたしはどこへやったかと聞いている!」 「ですから……」 「貴様あの娘に何をした!」  そんなこと言われても……あの娘って、誰なんだ? この男は誰のことを喚いている? まさかそれが自分のこととは知らないまま、さてこの男をどうしてやろうかと、五月は頭を掻《か》き毟《むし》った。 「貴様何をした! この化け物め[#「この化け物め」に傍点]!」  化け物ですって……もう邪魔臭い。五月は決めた。この男も、化け物みたいにひっぱたいてやれ。そうすれば、化け物みたいにぶっ倒れるか、さもなければ正気に戻るだろうし、どっちにしても好都合だ。 「あの娘を返せ! この化け物……」  ちょうど良い具合に相手が殴りかかってきたので、五月は再度|拳《こぶし》を振り上げた。が、そうして両者が顎《あご》を突き合せた瞬間、その鼻先に、ふらりと何かが舞い降りた。  ……蝶?  と思った頃には闇に途切れて消え失《う》せた。  ……しかし、どういうことだ? 足元を見下ろせば、化け物は確かに白目を剥《む》いて卒倒している。いくら化け物でも、この状態では何もできやしない。とすれば、ただの錯覚?……けれど、蝶が過《よぎ》った瞬間に、五月の喧嘩相手はぎくりと言葉を失った。傍らを振り返れば、痩《や》せた眼鏡男も呆然《ぼうぜん》と声を失っている。この二人も、確かに同じものを見たか、少なくとも同じ気配を感じ取ったのだ。とすると……  五月は、その場に居合せた最後の一人を振り返った。  ……そんな馬鹿な。  あんぐりと開かれた少女の喉から、虹色の何かがこぼれ落ちては、闇に途切れていく。  この蝶は……この子、まさか、化け物の言葉を囁《ささや》いている? 馬鹿な……無理だ! あんな化け物じみたもの、化け物にしか口にできない。普通の人間が試したところで、せいぜい、もともと光賦活に敏感な人の脳波に異常をもたらす程度に終わる……と五月は自分に言い聞かせるのだけれど、そうしている間にも、その鼻先に蝶が過っては消えていく。確かに、この少女、化け物ほど上手《うま》くは囁けないようだけれど……化け物ほど完璧《かんぺき》には、その言葉をマスターしていないらしいけれど……  けれど確かにその囁きは、「アリスの世界」を語っていた。 「有り得ません!」と五月は誰へともなく叫んだ。要するに、自分へ向けて叫んでいた。「心配ありません! これはいわゆる、『PCRを賦活する程度に終わる欠片《かけら》』です! 危険なレベルには達しません! 達するはずがないのです! 普通の人間が、あの娘の世界に達するだなんて……」  なんて屁理屈を唱えても無駄だった。少女の唱える異次元の蝶は、次から次に現れては、現れきれずに闇へと消えた。この少女、やはり化け物のように上手くはやれないようだが、それでもそれなりには[#「それなりには」に傍点]やれるらしく、やがて蒼褪《あおざ》めた公園が虹色に染まりはじめて……そんな馬鹿な……見れば、少女の背後、闇に沈んだ上高倉のそちこちからも、ふわふわと虹色の柱が立ち上がって……何なんだ、これは……どうなっている?  何が起ころうとしている?  上高倉が虹色の柱に覆われていく。柱が無数の蝶と化して砕け散る。やがて、湿気に蒸した夏の夜空に、オーロラのような虹色が立ち込めて……呆然と見渡す五月の脳裏に、ぐ[#「ぐ」に傍点]さり[#「さり」に傍点]と衝撃が突き刺さった。一撃で世界のすべてを忘れてしまいそうな、衝撃。すべてが無限へ砕け散ってしまいそうな、衝撃……繰り返しになってしまうけれど——そんな馬鹿[#「そんな馬鹿」に傍点]な[#「な」に傍点]!——。この子、本当にやる[#「やる」に傍点]つもりなのか? 化け物でもないくせに、化け物の言葉を使えるのか? 「有り得ません[#「有り得ません」に傍点]!」  最後にひとつ、悲鳴のように喚きながら、五月は少女へ殴りかかった。もしもこの子が、本当に化け物の真似ができるというのなら……だったら化け物みたいに殴り倒すだけだ。と五月は覚悟を決めたのだけれど、その拳が少女へ届かないうちに、彼女は虹色の濁流に呑《の》み込まれた。  ちょうどその頃。  木原家の居間では、「勇者を称《たた》える行進曲」の、ちょうど百二十八番あたりが演奏されていた。ちなみに百二十八は、二の二倍の二倍の二倍の二倍の二倍の二倍だ。  が、木原浩一郎の演奏は、百二十八回目のクライマックスを迎える前に忽然と停止した——まあ、迎えたとしてもこれといって盛り上がりもしなかっただろうが——。  そっと耳を澄ます……何か聞こえる。  世界の果てか、彼自身の奥底か、どっちだか知らないが、たぶんどっちでもいいような遥《はる》かな彼方《かなた》から、何かが聞こえてくる。  その聞こえる何かは、虹《にじ》色の蝶の姿を纏って、浩一郎の鼻先に舞い降りてきた。ひらりとほんの一羽きり……この蝶なら、知っている。もっと無限に溢《あふ》れた景色を知っている。もっと永遠に続く姿を知っている。そう直観して、総一郎は手を差し伸べたのだけれど、蝶はほとんど消え入りながら、彼の手のひらをすり抜けて、ぱちんと虹色に弾《はじ》け飛んだ。  つん、と鉄錆《てつさび》のような無機質な香りが立ち込める。  ……そうか。  これなら自分にもできるかもしれない。  これなら、行進曲を百二十八回演奏するよりも、無限や永遠に近づけるかもしれない。  浩一郎は、肺に大きく空気を吸い込んだ。吸い込む矢先から、その喉元は奇妙なビブラートに震えはじめていた。  同じ頃。  スケッチブックを使い果たした島崎千裕は、仕方がないので勉強机の表面に、あの景色[#「あの景色」に傍点]を描き殴っていた。  あの景色——盆に訪問した父方の……いや、もはやそれが何だろうが知ったことではなかった。すでに景色ではなくなっていたのだから。とにかく彼女は、脳裏に精密に焼きついた何かを、無限に積み重ねることによって、永遠の彼方へ舞い上がっていく——それだけだった。  が、そんな風景でもないような風景の片隅を、ある瞬間、ふわりと何かが過った。  虹色の何かを棚引かせながら……蝶? はたと千裕は振り返る。その鼻先を、つんと錆臭い何かが襲う。これは……  わあ、と千裕は歓声を上げて、勉強机から飛び上がった。  これは……彼女を本当の無限へ導く蝶だ。同じ何かをひたすら描き殴るより、もっと素敵な無限を知っている、蝶。素敵な七色に魅せられて、千裕は蝶へと手を差し伸べた。わあ、ともうひとつ歓声を上げながら。脳裏にびりびりと稲妻を走らせながら。  その稲妻に感電したかのように、二度目の歓声は不吉なビブラートに震えていた。  さらに同じ頃。  白石淳平は十五億年くらいの未来をさ迷っていて、とするともとの世界はもう十五億光年ほどの彼方に遠ざかっていた。要するに、もうそこが未来だろうが彼方だろうが知ったことではなかった。  そこにはただ、永遠に繰り返される無限の規則があるだけだった。  が、そんな永遠と無限の狭間《はざま》のとある[#「とある」に傍点]日曜日、淳平は蝶に巡り会った。  虹色の蝶が、ふわりと現れて、彼の鼻先にちらりと舞った。いたずらっぽい鉄錆の香りで淳平を誘いながら。  七色の鱗粉《りんぷん》がちらちらと舞い降りる……これは、これはまるで——花火! 花火! パパ! 花火!——  なんてありふれた晩夏のワンシーンを、今の彼が思い出すはずもなかった。なにしろ今の彼は、十五億年先の、十五億光年彼方にいるのだから。そして十五億ですら矮小《わいしよう》に思えるほどの圧倒的な永遠に魅せられていくのだから。彼は無限の蝶を追って駆け出した。花火! 花火! パパ! 花火! のかわりに彼の喉《のど》に迸《ほとばし》ったのは、小学校低学年の子供が捻《ひね》り出したとはとても思えない、ヒキガエルを引きずりまわしたみたいなビブラートだった。  そして……  おや? と比室叡久は虚空を仰ぎ見た。  彼は、「アリス狩り」には参加せず、被災地を仕切るバリケードの手前に待機していた。電動車椅子に身を預けた彼は、狩りに同行するにはお荷物だったわけだ。少なくともアリスが発見されるまでは、彼の出番はないはずだった。というわけで彼は、二名の長野職員と二名の機動隊員とともに、バリケードの手前で呼び出しがかかるのを待っていた。  が、その呼び出しが飛び込む前に、不穏な何かが被災地上空に響きはじめた。  比室叡久は夜空を見渡す。蒸した大気に星のひとつも見えやしない。おまけに、アリスと世界を共有するのに必要な脳の一部を切除してしまった彼は、そこに異次元の何かが響き渡ったとしても、不思議な虹色は見えやしない……けれど、それにしても、おやおや、この音色は、これはまったく……  くい、と手もとのレバーを捻って、比室叡久は車椅子を付き添いの四人へ振り返らせた。 「あなたたち、お逃げなさい」  なんて、どこかの森の熊みたいな警告を授けても、四人は動かなかった。それにその四人もまた、空気に妙な気配を覚えて、しかも彼らにはそれがちらちら視界を過るらしくて、不思議そうに左右を見渡していた。 「だからお逃げなさいといっているのです。これ以上ここにいては危険ですよ」  が、やっぱり四人は動かなかった。 「わたしのことは心配いりません。これから何が押し寄せようが、わたしに触れることはできませんから。わたしを置いて、早くお逃げなさい」  それでも四人は動かなかった。夜空をぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]と見渡したり、かと思えば妙なことを言い出す比室叡久のことをぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]と見渡したりしていた。  ふむ、と比室叡久は鼻を鳴らすと、童謡じみた気配から一転、とんでもない怒号で吼《ほ》え上げた。 「去れと言っている! 呑み込まれてもいいのかっ! 丘の上まで走れ!」  これで四人は一斉にすくみ上がった。四人揃っておっかなびっくりあとずさる。あとは、一人が走り出せばそれを追って走り出すだけだった。  上等、と比室叡久はにっこり微笑む。それから彼は四人の背中へ、魔法のような忠告を付け加えた。「振り返ってはいけませんよ。何を耳にしてもいけません。それから、あなたが誰なのかを忘れないこと。自分が誰で、どこにいるのか、逃げ切れるまで絶対に見失わないこと。見失ったらおしまいです。もしも見失いそうだったら、それを自分に言い聞かせながら、走るのです。自分が誰で、どこにいるのか……嘘でもいいから、言い聞かせながら走りなさい。そう、嘘でもかまわないのです。その代わり……」  ふふん、と比室叡久は上機嫌に笑った。 「逃げ切れた頃には、自分が嘘に変わっているかもしれませんが」  なんて戯言《たわごと》を抜かす頃には、四人の背中はもうとっくに戯言の届かないところまで遠ざかっていた。  さて、と比室叡久はレバーを操って、車椅子を被災地へ向けなおした。もう一度虚空を見上げて、おや? と再び小首を傾げる。 「これはいったい……」  アリスじゃない。この声色はアリスじゃない。アリスと生理学的に決別した彼にも、それくらいのことはわかる。これは、アリスの仕業ではない。あの化け物の放つ、超人的な美しさが、この歌声には伴っていない。代わりにどういうわけか、アリスの出来損ないみたいなものが、あっちからも、こっちからも、次々に立ち昇ってきて……  それらが徐々に束となって、ようやくアリスの味噌《みそ》っかす程度の「異次元」を立ち上げようとしている。 「さて、何事なんでしょうか……」  と比室叡久はちょっと不安げに呟《つぶや》いたけれど、表情にはまったく不安の欠片《かけら》もなかった。彼は相変わらず、世界の半分を見失ったみたいにニコニコと微笑みながら、次に何が起こるのかを待ちわびた。     三十八、  そんな馬鹿な……  金属的な七色に苛《さいな》まれながら、五月は呆然《ぼうぜん》と呟いた。  世界が吹き飛ばされていく。七年前と同じだ。  ここがどこで、わたしが誰なのか、それがぽろぽろとこぼれ落ちていく。冷静に考えれば思い出せそうな気はするのだけれど、思い出せたとしても、語るべき言葉が見当たらない。世界のすべてが「この世界」から飛翔《ひしよう》して、言葉の及ばない多次元へと舞い上がっていく。その行く先を見上げたとき、  五月は、無限の蝶《ちよう》が世界を永遠に覆い尽くそうとするのを見た。  けれど、これは……  ——……違う。比室アリスの異次元じゃない——  その異次元は、あの化け物の異次元ほどの超越的な完成度を欠いていた。虹色のあちこちで、無限や永遠になりきれなかった蝶たちが、彩を失い、宇宙の片隅のような虚《うつ》ろな闇へ還《かえ》っていくのだった。ある蝶は、不意にはばたき運動を続けられなくなり、秩序へと石化して七色を失う。またある蝶は、自らのはばたき運動に振り回されて、七色を撒《ま》き散らしながら混沌《こんとん》へと砕け散る。その秩序と混沌の合間に完璧《かんぺき》な自己相似を見出《みいだ》さなければ、9・7次元は無限の永遠にはなれないのだけれど、この異次元はそれを見出しては掴《つか》まえ損ねる。きっと、アリスのフラクタル高次元ほど完璧な自己相似を描けずにいるのだ。やはり、化け物の真似は化け物にしかできない。  しかし、だとしてもやはり、ここまでやれば立派だった。この異次元は、あの比室アリスの化け物じみた異次元に、手を伸ばそうとしているのだから。  比室アリスではない誰かが、「比室アリスの世界」へと、扉を開こうとしているのだから。  考えてみれば……「アリスの世界」はこれまでアリスにしか所有できない世界観だった。他の人間はすべて、その世界のあまりの精巧さに既存の世界観を吹き飛ばされるだけだった。それが今、こうして、アリス以外の人間に共有されようとしている。アリスの世界は、こうしてはじめて、本物の「世界観」になれるのかもしれない。既存の世界観——一次元——だって、みんなに共有されなければ「世界観」にはなれなかったはずなのだから。  ——子供たちなら、あちらの世界に扉を開くのかも……——  どうやらおとぎ話ではなかったらしい。  ……ところでこのおとぎ話、誰が語ってくれたんだったっけ? ちっとも思い出せないうちに、思い出せない五月自身が、虹色に呑《の》まれて誰なんだかわからなくなってきた。生命力の衰えた成人の大脳半球は、この「新しい世界」の誕生を前に、ただ吹き飛ばされていくだけなのだった。  ……何なんだ、これは。  アカデミック・エリアの高台の外れで、権藤勲は闇に目を見張った。  目に映る景色が信じられない。実際のところ何も映っていないんじゃないかと、目をこすってみるのだけれど、こすっている間も瞼《まぶた》の裏に映っているものだから、ますます信じられなくなる。  ガーデニング・エリアの闇の一角が、夢のような虹色に包まれていくのだ。  闇の中に一握りだけ残された街明りの周辺……震源地だ。そこに虹色が立ち込めていく。次第に膨れ上がって、やがてドームのような半球型に立ち上がる。目を凝らせば、その虹色のひとつひとつは……蝶?  蝶だと?  馬鹿な。だいたいこの遠距離で、蝶の一羽一羽が見て取れるはずがない。はずがないのだけれど、確かに蝶が見える。遥《はる》か彼方《かなた》とも、眼球の裏側ともつかないような、不可解な距離に、蝶がはばたいては消えていく。実際のところ、それは見えるというより、感じているわけで、というか聞こえているわけで……何なんだ、これは。つん、と鉄錆《てつさび》のような酸いた金属の香りが、鼻先を過《よぎ》った。権藤はくらりとよろめく。更地の草むらに尻餅《しりもち》をつく。どうして自分がよろめいたりぶっ倒れたりしているのか、さっぱりわからない。わからないまま、ただ呆然と、遥かふもとの虹色を見凝《みつ》める。  見凝めているうちにその虹色は、いつ途絶えたとも知れないまま、途絶えて闇に消え失《う》せた。  ……何だったのだ?  そもそも、ここはどこだったか……千葉だ。彼は「瞭命館パニックパート2」の処理のために、千葉へ送られたのだった。けれど……そんなわかりきったことが、不思議にわかりきらなかった。千葉だかなんだか知らないが、まるで、起きがけに見たへんてこりんな夢みたいな話だ。小首を傾げているうちに、「千葉」という単語の響きすら、意味があるのかないのかよくわからなくなってきた。彼の周囲に、百万ほどの秋の虫が鳴き交わして、もう百億年くらいずっとこうしていたような気がした。  ……ふもとの路地の一角を、誰かが必死の形相で駆けている。二人は機動隊の制服を着ていて、もう二人は白衣……あの二人、長野の職員じゃないか。何をしているんだ? 比室叡久の姿は見当たらない。背後の更地が慌しくなってきた。消防の対策本部だ。新たな何かが発生したらしい。その新たな何かに関する文科省側の責任者は、……権藤勲だ。 「瞭命館パニックパート2」の処理のために千葉へ送り込まれた文部科学省科学技術・学術政策局計画官、権藤勲は、その肩書きや行動目標をいちいち自分に言い聞かせながら——そうしないと全部忘れてしまいそうだった——、立ち上がり、尻の泥を振り払った。     三十九、  ……止まった。  住宅街に立ち込めていた不思議なビブラートが、勢いを失うみたいに消えていった。  きっとそのビブラートは、ほとんどの人間には不可解な虹《にじ》色に見えたことだろう。が、比室叡久にはそれが見えなかった。彼はただ、ゼンマイ仕掛けのヒキガエルみたいな気味の悪いものが一斉に鳴き交わすのを、耳にしただけだった。彼の目には——あるいは脳裏には——あの虹色は映らない。 「さて」比室叡久は電動車椅子のレバーを握った。「行きましょうか」  バリケードを押し退け、彼の車椅子はするすると、震源地へ続く坂道を滑り降りた。  七年前のあの惨劇から「帰還」するため、比室叡久は大脳半球の三割程度を焼き切った。  主に右半球後頭葉一次視覚野、同じく右前頭葉側部、さらに右側頭葉と頭頂葉の接部。こうした組織を中心に、彼の中枢神経系は三十パーセント強切り捨てられた。ついでに左右半球を繋《つな》ぐ回路——脳梁《のうりよう》——も半分がた焼き切った。というとかなり物騒な処置に聞こえるけれど、実はこれらはてんかん発作の治療として古典的に知られている手法だ。発作の焦点を切除する。あるいは、発作が脳全体へ波及しないように、左右半球の連絡を切り離す。脳を切り貼りすることによって人の性格や犯罪性まで「手術」できると考えられていた、五十年前の手法だった。  人を異次元へ引きずり込む「アリスシステム」も、外科的に処理してしまえば、何の悪さも出来やしない。  実はこの「外科的帰還法」、もともとは比室アリスのために用意されたものなのだった。  七年前の夏。比室研究室は、比室アリスを使った新たなプロジェクトに着手した。その年の春に、比室アリスは「マンデルブロ画法」を編み出して、研究員らを驚嘆させていた。比室叡久の疑問は、この先、この化け物の異次元感性はどこまで広がっていくのか、だった。彼は、比室アリスの特異な感性を人為的に引き出すことはできないかと考えた。  そのフラクタルな感性を、培養槽に漬《つ》け込む。隔離された環境の中で、その感性だけを飛躍的に増殖させる。  というと物騒なアイデアに聞こえるけれど、そのために用いられた手法もやはり、五十年前に考案された年代ものだった——「隔離タンク」。人の感覚入力を限りなくゼロに押さえ込むための、闇の棺桶《かんおけ》。生理食塩水に並々と浸された棺桶に、被験者を放り込み、蓋《ふた》をして、放置する。被験者を、音も光も、自分の身体の重みさえも奪われた状態——地上で考えられる限り最高に「感覚入力ゼロ」な状態——へ、追い込む。実はこうすると、被験者の脳裏に大量の「幻覚」が溢《あふ》れ出す。感覚入力がゼロになるから、感覚出力もゼロになる——感知も、思考も、停止する——、というわけではないのだ。むしろ失われた感覚入力を補うかのように、脳の底から魑魅魍魎《ちみもうりよう》が這《は》い上がってくる。なまめかしいほどの現実味を伴って。それこそ、生き生きとした「現実世界」とは要するにこの魑魅魍魎のことなんじゃないのか、というくらいの勢いで。  隔離タンクは、いわば脳に潜んだ魑魅魍魎の「開放器」だ。あるいは、魑魅魍魎を増殖させる「培養槽」。比室叡久は、それを比室アリスに与えてみようと思いついたわけである。人の脳裏に魑魅魍魎が巣食っているとすれば、きっとアリスの脳裏の魑魅魍魎は、理解不能な自己相似の魑魅魍魎だ。そして隔離タンクがそれを増殖するのであれば、そのタンクはアリスの脳裏の自己相似を増殖させる。そのときアリスは、「マンデルブロ画法」に続くどんな化け物を思いつくのか、それが比室叡久の興味だった。  が、それは興味であると同時に、脅威でもあった。  比室叡久は我が娘を愛していた。その我が娘を、培養槽に放り込んで増殖させる、という発想は、ぞくぞくするほど興味を惹《ひ》かれるもの、であると同時に、父親としてそら恐ろしくもあった。アリスはただでさえ、片割れの右半球に異常脳波を迸《ほとばし》らせている。それを感覚入力ゼロの闇に放り込んだりして、もし生理学的なダメージや、精神医学的なストレスを受けた場合、愛する我が娘はどうなってしまうだろうか……比室叡久はセーフティバルブを用意した。比室アリスが闇の底で不測の事態に陥ったときのための、「アリス救出法」。あるいは、アリスの知性が当の比室アリスにすら制御できなくなったときのための、「アリス奪還法」。というとほとんど呪術《じゆじゆつ》か何かのようだが、とどのつまりが外科手術だった。すでに脳波にしろCTにしろPETにしろ、比室アリスの中枢神経系の画像データは出揃っている。とすれば、その「システム」の暴走を止めるにはどの解剖学的部位を摘出すればいいのか、悩む必要はなかったわけだ。  それは、比室叡久にいわせれば、ひとつの親心だった。ただでさえ片割れの大脳半球をさらに切り刻むことが、本当に親心なのかは知らないが。  とにかくこうして、比室叡久のアイデアは七年前の夏に実行に移された。比室研究室の研究員たちは、夏季休暇のすべてを放棄して、比室アリスの知性の「培養」にいそしんだ。そしてプロジェクトは、確かに不測の事態に陥った。「感覚入力ゼロ」の闇は、ある日突然魑魅魍魎を炸裂《さくれつ》させた。まるで産声か何かのような勢いで——「フラクタル多次元言語」。その第一声が、当時瞭命館にいた六十八名を、彼らの世界もろとも吹き飛ばした。  結局、セーフティバルブが比室アリスに実行されることはなかった。それは、他でもない、発案者の比室叡久に実行されたわけである。何の皮肉か、彼の親心によって救われたのは彼自身だった。まあ、本当に「救われた」のかどうかは、怪しいところだが。「帰還」後の比室叡久は、右半球前頭葉に偏在する「注意警戒能力」に損傷を受けて、生来のナイーヴさを失った。脳外科のいう「左半球的人格」に変貌《へんぼう》して、無頓着《むとんちやく》な屁理屈《へりくつ》ぐらいしか語れなくなった。その無頓着の彼方に、比室アリスへの愛情は見失われた。その才能への興味も消え失せた。養子に入れるほどの執着心は、「帰還」後の彼には欠片《かけら》も残っていなかった。  ただ、比室叡久でもなくなってしまったかのような比室叡久が、左半身の機能不全を患って車椅子に収まっているだけだった。いったいあのセーフティバルブは、どこの誰をこの世に連れ戻したのだか、もはや誰にもわからない。当の比室叡久自身にさえも。  静まり返った住宅街を、電動車椅子の念仏のようなモーター音が、するすると滑っていく。小一時間ほどさ迷って、とある坂道を登るうち、比室叡久はようやく辿《たど》りついた。  小さな公園。街灯がひとつだけ灯《とも》っている。そのふもとに人々が倒れ伏している。槌神五月、槌神総一郎、眼鏡の小男、薄桃色のTシャツを誰かの血で黒ずませた、少女。  そして、比室アリス。  彼は車椅子を公園へ進めた。街灯のふもとにモーターを停止させる。比室アリスへ手を伸ばしたけれど、届かなかった。多少の無理はきくはずだ、と身を乗り出したら、椅子から滑り落ちてしまった。地面に尻餅《しりもち》をついたまま、彼はアリスを引きずり起こした。アリスは両目を半開きにして、眠っていた。まあ、この娘にとって、今日はさぞかし長い一日だったろう。ほとんど七年がかりの一日みたいなものだ。あとはゆっくり、オヤスミナサイ。比室叡久は、その透明な身体を、ぎこちなく胸に抱き寄せた。 「さあ、どんな気分でしょう?」  彼は自分に尋ねた。 「昔のわたしだったら、どんな気分になったのでしょう?」  まるで抱き方を間違えたかのように、今の彼にはどんな気分も溢れなかった。それでも彼が、にこやかに微笑みつづけているとすれば、それはもはや微笑ではなく、ただの風穴か何かだった。     四十、  自分はどうしてここにいるのか。そもそもどこの誰だったのか。  虹《にじ》色を目撃した直後こそ、不思議な夢見心地に襲われた権藤勲だったけれど、その虚《うつ》ろな気配はその後の騒動に押し流された。権藤が虹色を目撃した直後から、各方面に「異常」の報告が集まりはじめた。とすれば権藤は、「『瞭命館パニックパート2』の処理のために千葉へ送り込まれた文部科学省科学技術・学術政策局計画官」として、やるべきことが山ほどあった。おかげさまで、虚ろだ何だとぼやいている暇はなかった。  最初に報告が舞い込んだのは、警察だった。午前零時を過ぎたあたりから、「奇妙な何かが聞こえた」とか「奇妙な気配に襲われた」といった通報が、住民らから集まりはじめた。といってもすでに住宅街はすっからかんになっていたので、通報してくる住民というのは旧市街に集まった被災民のことだった。とすると、アリスのSの影響が、ついに海辺まで及んだわけだ。ただし被害の程度は軽くて、一部の避難民が軽度の意識変容を訴えただけだったし、それもつかの間で回復していた。ちなみに、変容を覚えた者の大半は「子供」だった——「うちの子が突然妙な気配に襲われて」という報告が、いちばん多かった——。  同種の報告が、消防はもちろん、「苦情」というかたちで役所へ、あるいは「情報提供」というかたちで各マスコミへも殺到したため、旧市街は深夜にもかかわらず蜂の巣の騒ぎと化した——もしかしたら、面白半分にテレビにかじりついていた日本全国一千万ほどのお茶の間も——。  同時刻、アカデミック・エリアに設置された消防の対策本部にも、同種の報告が集まりはじめた。こちらへ報告を入れるのは、住宅街で救助活動に就いていた消防隊員たちだった。午前零時を回った頃から、隊員らの間に、奇妙な何かが「蔓延《まんえん》」しはじめた。突然、自分が何の途中だったかわからなくなるような感覚。夜空が虹色に染まるような錯覚。不思議な香りに包まれるような幻覚。総じて、てんかん発作の前後に現れやすい、意識変容状態。おかげで現場の救助活動が、一時期へんてこりんに停滞した。情報を比較すると、消防の方が旧市街より被害が大きかったようである。ということは、震源に近かったのだろう。  すべての情報は最終的に文科省へ集まった。そして午前零時三十九分、文科省「東晃大学事例調査委員会」現班長、権藤勲は、事態を「パニック第四波」と公に認定した——非公式には、「アリスのSの第四波」となるわけだが——。発生時刻は、午前零時前後。被害範囲は、上高倉沿岸と高台を含む広範囲。  震源は——震源、なんて用語も公には使っていないので、ここから先の情報も非公式になる——上高倉住宅街、消防の最前線よりさらに奥。おそらく第三波と同じか、極めて近いどこか。とすると、権藤が「虹色のドーム」を目撃したあたりだ。ところで、文科省側の責任者を非公式に悩ませたのは、以前の三波とこの四波と、微妙に状況が食い違うことだった。まず、第四波はやたらと範囲が広い。震源は第三波とほとんど同じ、と考えられるにもかかわらず、海辺の避難民からアカデミック・エリアの権藤まで、広範な人間がそれを「感知」している。そして、そのぶん効果が薄まったのか、報告される被害の程度がやけに軽い。旧市街にしろ消防にしろ、一部の人間がつかの間の意識変容に襲われただけだ。それ以上意識障害が重篤化することはなかったし、消防の連中も今では救助作業に戻っている。総じて、PCRを賦活された程度の話ばかり。もちろん、権藤自身の変容も同程度で片付いている。  どういうことなのだ? 最初の三つと最後のひとつでは、何がどう違っていた? それを確かめるには、「震源」からの報告を待つしかないわけだが……その震源に居合わせたはずの部下からの報告は、途絶えたままになっている。槌神総一郎との連絡も途絶えたままだ。槌神五月とも途絶えたまま、本間和輝とも——いや、この男の連絡手段は文科省が没収していた。とにかく、全員報告をよこしもしなければ呼びかけに答えもしない、ということは……最悪の事態を覚悟しておくしかないようだった。  ちなみに、比室叡久との連絡も途絶えたままだ。付き添いの長野職員らだけが、機動隊員二名を伴ってアカデミック・エリアへ逃げ込んできた。まあ、あの老人は、理論上Sの影響を受けないはずだから、問題ないだろうが……だったらかえって報告のひとつでも入れてくれればいいのに。あの老人、こんなに長時間、どこで何をやっているのだ?  長時間も長時間、すでに四時間以上が過ぎようとしていた。ということは、そろそろ夜が明けようとしているのだった。  潮が退《ひ》くみたいに、夜が西の空へと退いていった。静まり返った上高倉は、まるで夜の忘れ物か何かのように、薄ぼんやりとした濃紺の中に取り残された。そこに海から立ち上った霧が押し寄せて、世界は蒼《あお》のモノトーンに染まった。朝の太陽が世界を取り戻しに昇るまでの、つかの間の静寂だった。  権藤勲は、この半日の間何度もそうしたように、アカデミック・エリアの片隅に立って、上高倉を見渡していた。  最後のSから五時間。事態は止まったままだ。旧市街の避難民たちもいい加減眠りについたようだ。消防の救助活動も中断している。「震源」周辺の八十世帯程度がまだ手付かずに残されていたが、文科省は未《いま》だ消防の震源への立ち入りを許可していなかった。なにしろ、比室アリスの回収はまだ達成されていない。消防がお祭り騒ぎで乗り込んで、そこに第五波が押し寄せたら、もう目も当てられない。それに、第四波を経験した消防自身、少々|怖気《おじけ》づいたらしく、文科省が「待て」と言えば素直に待機した。  更地の脇に白いワゴンが止まった。国立脳科学研究センター所有の車両だ。権藤のセダンは槌神五月が乗っていったままだし、部下らの車はキーがなかったので、センターの事務所からワゴンのキーを拝借するしかなかった。エンジンをアイドリングさせたまま、賀谷耕一が運転席から降り立って、更地の外れの権藤を呼んだ。 「車の準備はできましたけれど……」  権藤は振り返った。言い淀《よど》む賀谷を無視して、運転席へ収まる。いい加減、誰かが「震源」に入るしかなかった。でなければ消防も文科省も動けない。 「しかし、本当に一人で行かれるのですか?」  もちろん。一人でなければならないのだ。「東晃大学事例調査委員会」の関係者は、事実上二人っきりになっている。二人して震源へ繰り出して、最悪の「第五波」に襲われた場合、責任者の席が空白になる。上役の送り込んできた使いの連中は、多分その席には座らないだろう。 「五分ごとに携帯で連絡を入れる。連絡が途切れたら、例のパシリどもと連携して、おまえがここの指揮を執れ」  そう言い渡すと、何事かまくし立てる賀谷を無視して、権藤は運転席の扉を封じた。どうせ賀谷の言い分は、聞くまでもないような泣き言ばかりなのだろうし。彼はワゴンをスタートさせると、蒼のモノトーンに沈んだ上高倉へと滑り降りていった。  よくよく考えてみれば、この時間帯は動くには好都合だった。夜の闇はすでに晴れて、まだ薄暗いとはいえ、人を探せないほどではない。そして、どこかで比室アリスを見つけて、こっそりセンターへ回収するとしたら、まだ日の昇らない今のうちのほうが人目につきにくい。この一石二鳥の時間帯は、そう長くは続かないはずだけれど、有効に利用すべきだった。  半壊の救急車をやり過ごし、軒の連なる坂道へとワゴンを進める。例の救急車の周辺は、夜のうちに探し尽くされたはずだ。もう一度やりなおすなら、思いきって離れたところからはじめるべきだろう。権藤は賀谷へ五分おきの連絡をいれながら、坂道にワゴンを徐行させた。やがて権藤が立ち入りを禁止した「震源」の縁が迫ってきた。きっとそこには足止めを食らった消防の連中がたむろしている。権藤は適当な抜け道を見つけて登り坂を離れた。別の坂道を、今度はゆっくり下っていく。ひっそりとした住宅街を見渡しながら。途中にそっと、車両を路肩へ寄せて、サイドブレーキを引いた。エンジンを止めて、賀谷へ連絡を入れる。それから運転席を離れ、彼は路肩の公園へ踏み込んだ。  霧の流れるちっぽけな公園に、比室叡久の電動車椅子が止まっていた。  公園の片隅には、槌神五月、槌神総一郎、本間和輝。仰向けの姿勢で横たえられている。その最後には、十歳前後の見かけない少女の姿もあった。四人揃って、段違いの鉄棒のふもとに整然と並べられて、それがまるで埋葬を待っているかのようで、ちょっと不吉な眺めだった。けれど、それぞれの腕にはサーフロー針が見かけられるし、鉄棒には点滴のパックが四つ吊《つ》るされているから……まだ埋葬には早いらしい。五つ目の点滴を吊るしたキャスターが、比室叡久の車椅子の脇に突っ立っていた。そこから垂れた細いチューブは、比室叡久の腕の中へ、そこに抱かれた霧のように透明な少女の蒼い静脈へと、続いていた。 「先生……」権藤は霧の中にそっと呼びかけた。 「もう大丈夫です」比室叡久は振り返りもしないまま、誰が来たのか端《はな》っからわかっていたかのように、淡々と告げた。「この娘は眠らせました。槌神教授のカバンに道具が揃っていましたから。ずいぶん時間も経過しましたから、もう脳波も落ち着いているはずです。他のみなさんも、命に別状はありません。そのうち目覚めるのではないでしょうかね」 「目覚める? アリスのSに襲われたのに、ですか?」  にっこり、笑顔を振り撒《ま》きながら、比室叡久が振り返った。「彼らを襲ったのは、この娘の世界ではありません」 「……はぁ?」 「最後のヤツはこの娘の仕業ではないのですよ……まあ、とにかくあなた、まずはこの娘を上へ連れ戻すのが先決でしょう?」  そりゃそうですが、と権藤は頭を掻《か》く。比室叡久は、ひょいと邪険な手つきで比室アリスを胸から突き放した。まるで、今まで抱いていたのは嘘だったのよと言わんばかりに。彼は、担ぎ上げたその化け物を、もはや愛着もないような感じで権藤へ手放した。 「連れて行きなさい。わたしの出番はおしまいです」  こうして、七年ぶりの長い一夜は終息を迎えた。  パニックには、一夜のうちに四度のピークがあった。最初の二つは「かみたかくらアカデミック・エリア」、国立脳科学研究センターにて発生。被害総数二十四。うち一時的な意識変容程度の軽症が、四。重度の意識障害、十五。急性致死性緊張病と類似の死亡例、五。  第三のピークは上高倉市街地、通称「かみたかくらガーデニング・エリア」にて発生。一時的な意識変容、千六百五十五。重度の意識障害、二百十四——うち、抗てんかん剤の対処的使用により意識障害の軽減した例、八十九——。急性致死性緊張病と類似の死亡例、三十七。  四度目のピークは、前の三度とは趣が大きく異なっている。三度目と同じく、ガーデニング・エリアの住宅街を中心に発生したのだが、その影響の及んだ人間は極めて広範囲に見出《みいだ》され、しかもそのすべてが一時的な意識変容のみで終わっている。一部、当時被災地中心にいた文科省関係者五名だけが、中程度の意識障害に襲われているが、この五名も抗てんかん剤による回復が見込まれている。この第四のピークの被害者に関しては、規模が膨大かつ症状が曖昧《あいまい》なため、完全な把握は不可能。少なくとも三千は越えているものと思われる。  七年前の経験から、このパニックの意識障害には抗てんかん剤が有効、という対処法が確立されていたため、かつてのようにずるずると死亡例を増やす事態には至らなかった。第三のピークの被害者と思われるもののうちには、この抗てんかん剤の使用によって意識状態を回復した例が多数見られる。ただし、その八十九名は、いずれも十代半ば以前の児童に限定される。また、すべてのピークにおいてこの年齢の死亡例はない。  総合すると、被害者のうち一時的な意識変容に襲われたものが、五千程度。回復の難しい重度の意識障害、二百二十九。回復の見込まれる中程度の意識障害、九十四——第三のピークに襲われた「児童」に、第四のピークに襲われた五名の文科省関係者を加えた数字——。死亡例、四十二。  原因は、未だ不明。 [#改ページ]  in the left hemisphere[#「in the left hemisphere」はゴシック体]     一、  呆《あき》れたことに、当面の事態の終息と同時に、権藤勲の勤務は苛烈《かれつ》を増した。  彼は「東晃大学事例調査委員会」班長として、事態の収拾に失敗した。「アリス漏洩《ろうえい》」という不祥事を起こした上に、その回収に手間取って、三百名以上を病院送りにした挙げ句、四十二名の尊い生命をあの世かどこかへ葬り去った。この不手際には、二万近い市民の大量避難という異常事態や、それにより方面消防隊、警察、自治体の蒙《こうむ》った大迷惑というおまけもついてくる。権藤は当然、退職金のつかない懲戒かマスコミ向けのさらし首かさもなければ裁判|沙汰《ざた》を覚悟していた。いずれにしろ、もはや班長だ何だと呼ばれることは二度とないと思っていた——皮肉や口頭弁論は別にして——。  が、文科省幹部の決定は「続投」だった。  幹部に言わせれば、今権藤を放り出しても「東晃大学事例調査委員会」班長の席が空白になるだけなのだった。継投したがる人間は一人もいないわけだし。一度現場の「責任者」としてマスコミの前に引きずり出したのだから、どうせならその役回りを擦り切れるまで演じてもらおう、というのが文科省上層部の意向だった。権藤勲に言い渡された「現状維持」は、時限爆弾つきの「現状維持」なのだった。  こうして「現状」とやらが「維持」されてみると、むしろ役職が格上げされたかのように、権藤の手元には難題が山積していった。  まず、事態を世間に説明しなければならない。しかもその「事態」の中には、今回のパニックの発端が「国立脳科学研究センター」だったという事態も含まれる。その施設は文科省直轄の情報センターであり、ちょっと踏み込んで調べれば、そこに「東晃大学事例調査委員会」関係者が足繁《あししげ》く通っていたこともすぐに明らかになる。そんな施設が今回の発端となったのはまったくの偶然、なんて言っても、誰も信じちゃくれないだろう。権藤は、その施設に七年前のパニック被害者が管理されていたことを、先手を打つかたちで公表した——管理していたのは一名のみ、名称、年齢、性別については一切非公開——。その管理について権藤は、「国内で発生した中枢神経系に関する特筆すべき症例——というのはもちろん、七年前のパニックのことだ——を収集し、科学的検証に利用できるサンプルの状態で保存し、将来的には国内の研究者による原因究明に広く利用してもらうため」であったと説明した。回りくどいが、センターの設立目的からそう離れてはいない、と言いたいわけである。  この文科省施設の存在に関しては、「東晃大学事例調査委員会」に属する大多数の委員が知らされていなかったわけだが、それについて権藤勲は、「あくまで『保存』が目的であり、治療行為も科学的検証も行っていなかったから」と釈明した。とにかく、「今回のパニックの発生地点には、七年前のパニックのサンプルを保管した施設があった」、というところまでは、文科省も正式に認めたわけである。逆にいえば、「千葉のパニックは、そのサンプルから端を発した二次的災害」という核心については、文科省は明言を避けた。「東晃大学事例調査委員会」班長も、「考えられなくはない」と言うに留《とど》めた。その理由は、「過失責任を避けたいから」ではない——いずれ避けられやしないのだろうし——。「パニックの原因は未《いま》だ不明」だからだ。パニックの原因——要するに、物的証拠——が不明だとすれば、「今回のパニックの発生地点には、七年前のパニックのサンプルを保管した施設があった」としても、あくまで状況証拠にしかならない。この状態で「考えられなくはない」以上のコメントを文科省側が出してしまうと、逆に、「何か物的証拠に関する情報を握っているのではないか」と勘ぐられる。「パニックの原因は未だ不明」という建て前を堅持する以上、これ以上のコメントを出すのは不自然なのである。  とどのつまり、文科省は今後も、この前代未聞のパニック現象の原因を、世間に公表するつもりはないのだった。だから施設が保管していたのも、あくまで「一被害者」であり、「七年前のパニックの原因となった化け物」ではなかった。なぜそこまでして「原因」を隠したがるのかは……もはや文科省の人間にもわからなくなっているのかもしれない。七年前の時点では、東晃大学の不祥事を隠蔽《いんぺい》する、というニュアンスが強く働いていた。一方で、初代調査委員も呆れてそっぽを向くような「原因」を、わざわざ「公表」する必要があるのか、という意見もあった。「東晃大学事例調査委員会」班長も、この「原因」は強烈すぎて「公表」に耐えられない、と判断した。「原因」の隠蔽は、隠蔽というより放棄に近かったわけだ。  それから七年が過ぎて、もはや省内の見解はぐちゃぐちゃだ。東晃大の不祥事なんて今となっては誰も知ったことではない。「公表」すべき「原因」がかつて解明されたことすら、省内ではうやむやになっている。いまさら権藤が幹部に「原因」を説明しても、理解してもらえないばかりか、「史上|稀《まれ》に見るくだらないサイエンス・フィクション」として却下される。要するに、文科省は現時点においても「公表」できるような「原因」を知り得ていない。「原因」は確かに、隠蔽されたのではなく、放棄されたのである。  結局、権藤勲の繰り返したコメントは、この「放棄」の部分を回避するための、張りぼてのこけ威《おど》しだった。で、彼の任務はこのマスコミ対策がすべてではなかった。むしろ本当の激務は、この張りぼて業務の後に待っていた。  とりあえず、四十二名の死亡例の補償問題を片付けなければならない。補償、という言葉を使うかどうかは別にしても、何らかの経済援助は必要だ。文科省としては総務省に頼りたいところだったが、しかし文科省の責任が明確になっていない時点では、総務省も積極的には動いてくれない。とはいえあまり傍観を決め込みすぎると、今度は行政府全体が世論の総攻撃を受ける。結局総務省は、「特別災害」扱いでの見舞い金の検討をはじめた。権藤の仕事は、この動きに文科省として首を突っ込むことだったが、しかし相手は後々の責任問題を考えて文科省との接触を避けようとする。介入は並大抵のことではなかった。  それから、三百名を越す負傷者の扱いを決めなければならない。このうち八十九名の児童に関しては抗てんかん剤による回復が見込まれているが、意識障害から回復しても精神的ショックは拭《ぬぐ》いきれない——「世界を見失う」という経験自体がショックな上に、彼らの大半は回復と同時に両親の不在に直面するのだ——。これを継続的にケアする体制を築かなければならないし、さらには、彼らや彼らの両親に使われる「抗てんかん剤」の扱いを決めなければならない——なにしろ現時点では、正当な医療行為とは認められていない——。権藤は厚生労働省に掛け合って、被害者支援態勢への協力と「抗てんかん剤」の医療保険適応を働きかけた。こちらは、七年前にも多少の連携を取った相手だったので、比較的都合がわかったし、医療保険適応については例外的なスピードで決まりそうだった——もちろん、どっちに転ぼうが治療費を被害者に負担させることはできないわけだが——。  さらに、「東晃大学事例調査委員会」本来の業務が待っている。「原因の究明」だ。これについては、すでに片がついている上に「片がついた」という事実を放棄している状態だったので、今後もカムフラージュを続けるしかなかった。権藤は、「調査対象を生物学的要因に絞り込む」という歯の浮くような方針をぶち上げて、調査の続行を宣言した。そして厚生労働省と国内の有力な感染症研究者に、協力を依頼した。こちらは今後、厚生労働省の主導権を増しながら推進されることになりそうだったが、どっちにしろ感染症の専門家なんかに何もわかりっこないのだから——誰かのカードキーを使ってどこかの資料庫に忍び込みでもしない限り——、やりたがる連中にやらせておくだけの話だった。  さて、そんなこんなで駆けずり回っているうちに、あっという間に一週間がすぎて、残暑の殺人的な熱気も息切れをはじめた。その間に、槌神五月やその父親、それに本間和輝など、第四のピークに巻き込まれた意識障害例五名は、その現場に居合わせて第四のピークに何らかのかたちで関与したと思われる少女——渡瀬春奈——とともに、都内某所の国立病院に隔離された。で、霞ヶ関を奔走する権藤には、彼らを見舞う暇はおろか、その存在を思い出す余裕すらなかった。  次元の狭間《はざま》のほの暗い虚無をさ迷ううちに、槌神五月はふと、掴《つか》みどころのない奇妙な世界へ流れ着いた。  白に支配された、圧倒的に静まり返った空間。  傍らにオーロラが棚引いている。オーロラは、ゆっくりと移ろっていくかのようであり、同時に微動だにせず凍りついているかのようでもあった。別の傍らには、銀色の光線が放射状に拡散していた。けれど二つの「傍ら」は、どんなに見比べてみても、どちらにあるのか見当もつかないのだった。どちらの傍らも、方向感覚の途絶えたような「どこでもない」虚空でしかなかった。そこに三つ目の「どこでもない虚空」が現れて、ひく、ひく、と鼓動のように脈打つものだから、世界は完全に方角を見失って曼陀羅《まんだら》のように渦巻いた。  きっと……それぞれの傍らに「名前」を与えられれば、それらが何なのか思い出せるはずだった。それぞれの傍らが、あるべき方角に固定されて、そうして世界は整然と並べ替えられていくはずだった。世界が並べ替えられたなら、その中央に薄ぼんやりと、「世界の中心」が立ち上ってくるはずだった。世界の中心——「自己」の感覚。その自己にはきっと呼ばれるべき名前があって、語られるべきストーリーがあるはずだ。  そうしたすべてが出揃うことによって、この世界はようやく立ち上がる。夢のような彼方《かなた》から、夢のように立ち上ってくる。すべてのものが逐次的な関係性の連鎖に閉じ込められた、愚鈍で低レベルな幻。現実世界、なんて呼ばれることもあるけれど、この世界は、夢見の力を借りなければ創造できない。  が、今の彼女はその力を失いかけていた。  実をいうと、一週間前の「被曝《ひばく》」以来、彼女がこうして「覚醒《かくせい》」するのは、これがはじめてではなかった。この一週間、彼女は何度も覚醒しては、結局世界を掴《つか》まえられないまま、次元の狭間へ還《かえ》っていった。愚鈍な低次元も、化け物じみたフラクタル多次元も見失われた、虚構と虚構の狭間の虚無へ。今回もそうして、槌神五月は、白い虚空に目を閉じながら、再び世界を閉ざしていくところだった。  が、今回はちょっと様相が違った。  虚構が虚無へと還りかけた、その寸前、閉じかけた世界の扉の向こうから、強烈なイメージが飛び込んできた。  これは……フラッシュバック? あるいはデジャ・ヴ? どっちにしても、夢のような何か。がらんとした空間。その傍らに暖かい、暖かい……太陽? この暖かい光線は、春の日差し? それが窓ガラスいっぱいに反射して……板張りの不思議な教室に、黒髪の少女が一人きり、呆然《ぼうぜん》としゃがんでいる。視線を何もないどこかへ漂わせながら。右手の先に、人差し指をぴんと立てて、それを何もない虚空へと、脈絡もなく振り向けながら。その底知れぬ喪失感は、ほとんど寒気がするほどで……  これは、これは、これは……  ……この娘は誰だ? わたしの何だ? これはいったい、何のおとぎ話の一場面だ? 彼女は閉じかけた瞳《ひとみ》を激しく剥《む》き返した。その勢いでフラッシュバックは消し飛んだ。再び、白に支配された静寂の世界が現れた。傍らにオーロラ。正面に放射状の光。その出所を振り返ると、光のグラデュエーションが幾重にも積み重なっていて……何なんだ、ここは。彼女は、自分が誰かもわからないまま、オーロラと放射とグラデュエーションの狭間に閉じ込められていた。ひく、ひくと、何かを微《かす》かに疼《うず》かせながら。これは、この振動は……音? 電子的な……電子的?  彼女は得体の知れない「電子的」を振り返る。白い箱。黒いスクリーン。緑色の線が跳ねている。その傍らにまた白い箱。透明な袋を二つ吊《つ》るしている。袋には呪文《じゆもん》のような何かが書き殴ってあって……機械から伸びたチューブを、そっと目で追っていく。やがて、機械がどこにあったのかわからなくなり、そもそも、オーロラや放射やグラデュエーションがどこに行ったのかもわからなくなり、ただチューブだけを追ううちに——  ひいっ、と彼女は悲鳴を上げた。  チューブの先に、生白い「彼女の腕」があった。その生々しさに——言い換えれば、彼女の一部の持つ彼女の一部でもないような生々しさに——、彼女はぎょっと総毛立った。思わず視線を逸《そ》らしたときに、傍らのオーロラが再び視界へ飛び込んで……その瞬間、彼女はそれの「名前」を忽然《こつぜん》と思い出した。カーテン[#「カーテン」に傍点]、だ。薄緑色のカーテンが、風のオブジェのように波打ちながら、彼女の左側を閉ざしていた。とすると、正面の壁に映り込んでいる放射線は……右手の壁に窓があり、白いブラインドに閉ざされている。放射状の正体はブラインドから漏れる光だ。再び「電子的」を振り返る——次第に「位置」や「方角」が掴めるようになってきた——。スクリーンの中の緑色のラインが……取り憑《つ》かれたような勢いで跳ね上がる。跳ね上がるのは……彼女が興奮に取り憑かれているからだ。これは心拍。とするとあれは呼吸数。だったらこちらは点滴を自動でコントロールする装置で……ここは、ここは、  病室[#「病室」に傍点]、だ。  世界が「名前」に染まっていく。「関係性」の中に閉じ込められていく。幻のような「名前」や「関係性」が、世界にびっしりと張り詰めて、濃厚な存在感を放ちはじめる。まるで「夢」が満ちていくかのように。その濃厚さに、彼女は吐き気を催した。この感覚は……ずっと前にも味わった。たぶん七年くらい前、同じように世界を見失って、そして再び取り戻す際に。「現実世界」と呼ばれるものを取り戻すときの、言いようのない気分の悪さ。世界が再び立ち上がるときの、噎《む》せ返すほどの濃密さ。濃厚に立ち込めるのは、すべて「夢」のかけら[#「かけら」に傍点]であって……これじゃあまるで、「現実」とは「夢」そのものだ。世界は盲目的な夢の中に閉じ籠《こ》もっている……  ところで、「わたし」は誰だっただろう? その夢だけが、未《いま》だに判然としない。  が、一週間も眠り続けた彼女には、いきなりその「世界で最も濃厚な夢」と対決するほどの体力は、残っていなかった。それを今ここで無理やり思い出そうとすると、本当に胃液を搾《しぼ》り出してしまうはずだった。「わたし」なんてものは、泣こうが喚《わめ》こうが胃液を吐こうが世界の中心に居座り続けるものなのだから……後回しでも構わない。とにかく、ここは病室で、ということは彼女はどうやら病人で、その病人が目を醒《さ》ましたということは……  彼女はベッドの頭の側を振り返った。ここが本当に「現実世界」とやらに違いないのなら、そこにナースコールのスイッチがあるはずだった。  ナースコールのスイッチが押されて、ナースが駆けつけるまでの、つかの間の静寂。  その間にも、世界には猛烈な勢いで夢が立ち込めていった。彼女は病室の静寂の向こう側に、病院の持つ独特の気忙《きぜわ》しさを見つけた。騒がず、慌てず、けれど気を抜かず、そんな足音が、幾つも交差していく感じ。窓を閉ざしたブラインドの向こうに、じりじりと焼けるような虫の声が響き渡って……病室と、それを包み込んだ病院が、熱狂的な「夏の終わり」に包み込まれた。昼下がりだな、と彼女は思った。時計なんか見なくても、昼下がりの昼下がりらしい気怠《けだる》さが——そんな「夢」が——、世界中に立ち込めていた。  そして彼女は、「わたし」のかけら[#「かけら」に傍点]を思い出した。  さっき、再び次元の狭間へ墜《お》ちかけたときに見えた、フラッシュバックのような景色。  七年前にもあれを見た。七年前も、あの景色によって、彼女は「わたし」を思い出したのだ。あれは、彼女のストーリーにとって重要な一場面。彼女の人生を大きく動揺させた、ある日の出来事。目の前にいる「輝かしい少女」が、実際のところ輝かしいどころかとんでもない化け物なのではないかと、はじめて思いついた瞬間。  わたしは、槌神五月だ。化け物の教育係。  ぼた、と白いシーツになけなしの胃液がこぼれた。     二、  看護婦たちは涙ながらに引きとめたのだけれど、五月はそれを振り切って、点滴のキャスターを引きずりながら病室を離れた。  どうやらそこは、大学病院の片隅にある、危険度の高い感染症専門のサナトリウムだった。七年前に目覚めたときには、そこは国内有数の高度隔離施設だったのだけれど、今回はそれほど高度な施設ではなかった。七年前の経験から、この中枢神経系障害には二次感染のないことが判明しているからだろう——実際のところ一次感染すらないわけだが——。この病棟には、ほかに槌神総一郎や本間和輝、権藤勲の三人の部下、それに彼らと一緒に保護された十代前半の少女も隔離されているらしい。今のところ目を醒ましたのは、その少女と槌神五月だけということだった。  なるほど。七年前も、最初に目を醒ましたのは五月だった——というか、自力で目を醒ました人間に限れば、最後の一人だった——。これにはちょっと理由がある。彼女の中枢神経系にはアリスに対する「耐性」が宿っているのだ。子供の中枢神経系にもそれが宿っているらしいけれど、五月の耐性はそれとは違う。なにしろメカニズムがまったく違う。子供の耐性が生命力そのものだとすれば、槌神五月の耐性は、人口の一割程度に許される持って生まれた幸運だ。  といっても、そう神がかりな話ではない。単に、右半球に言語野が宿っている、それだけの話なのだった。  普通、言語野は左半球に偏在している。左前頭葉のブローカ野と、左側頭葉・頭頂葉接部のウェルニッケ野。言語野として代表的なのはこの二つなのだけれど、槌神五月にはそれが四つある。右前頭葉と、右側頭葉・頭頂葉接部。対称の位置に同じものが揃っているわけだ。これはもちろん異常ではないし、さほど特殊な話でもない。右半球に言語野を見出《みいだ》せる人間は、だいたい人口の一割程度に上るし、その一割には「左利き」が目立ったりする。けっこう月並みな現象なのだ。  この月並みが、槌神五月を比室アリスの異次元から救い出した。右側頭葉・頭頂葉接部といえば、「アリスシステム」には重要な拠点だ。そこがすでに「左半球的言語」用に組織化されているため、アリスの多次元への感受性が制限されるのである。おかげで比較的「こちらの世界」を思い出しやすい。こんな馬鹿げた理由によって、槌神五月は「帰還者」に選ばれた。  といっても本人には、もとの世界に「帰還」した実感はないわけだが。  まったく別の世界を垣間《かいま》見てしまった以上——それを「理解」できなかったにしても、少なくともそういうものが存在することを身体で[#「身体で」に傍点]覚えさせられた以上——、この世界は、ひとつの読み取り方に過ぎない。  愚鈍で低レベルな読み取り方に固執した、ひとつの「夢」に過ぎない。  この世界には、もはや「唯一無二の現実世界」としての地位は、ない。  サナトリウムをまっすぐに突っ切る、夢のように長い廊下を、彼女はふらふらと進んでいく。 「今回は、一番乗りは取り逃がしたようですね」  権藤勲は、きっと最初にどんな言葉をかけるべきか、いろいろと思い悩んだのだろう。言うに事欠いてこんな戯言《たわごと》から切り出した。 「五月さんより先に子供たちが続々と『帰還』してます。そりゃもう、嘘みたいな勢いでしてね。この病棟でも、最初に『帰還』したのは渡瀬春奈でした」 「……ワタセ?」五月は、聞き慣れぬ「名前」にほとんど頭を抱え込んでしまった。 「あの晩、上高倉の公園で女の子に会ったでしょう? 憶《おぼ》えてらっしゃいませんかね? 五月さんたちと一緒に保護されたんですけどね」  女の子……五月の脳裏に、ちらりと、アリスの言葉を口にしようとする見知らぬ少女の姿が過《よぎ》る。 「で、その公園で何があったのか、なんですがね。未だによくわからないんですよ。比室先生から何度かお話をうかがったのですけれど、それでもやっぱりわかりません。あの第四のピーク、結局いったい何だったのです?」 「第四の……何ですか?」 「ピーク。その、あの晩アリスのSは四回発生したのでこういう呼び方になったんです。五月さんたちを襲った四回目のSのことですよ」  という権藤の用語解説を聞きながら、五月は頭痛持ちみたいに顔を歪《ゆが》めた。ついさっき、「この世界」に降り立ったばかりだったので、こう矢継ぎ早に「この世界の言葉」を繰り出されると、もう一度|反吐《へど》が出そうだった。結局五月はふらついて、傍らのソファへ頽《くずお》れた。そんな彼女を権藤がおっかなびっくり介助する。 「……やっぱり話は後にしましょうか」  いえ、と五月は首を振った。「大丈夫です。そのかわり、あんまり急《せ》かさないでください」  と注文つけられて権藤は、どの程度急かせばいいのかわからなくなったらしく、すっかり口をつぐんでしまった。仕方がないので五月の方から口を開く。 「わたしを襲ったフラクタルは、アリスの生み出したものではありません」 「らしいですね。比室先生もそうおっしゃっていました」 「さっきあなたのおっしゃった、なんとかいう名前の女の子。あの娘がやらかしたことです」 「なるほど、渡瀬春奈が。……比室先生がおっしゃるには、第四のピークは『震源』にいた複数の子供が一緒になって生み出したものだ、ということなんですが」 「複数の子供が一緒になって、かどうかは、ちょっとわかりません。とにかくわたしは、そのワタセという娘がアリスの言葉を口にして、それが街を包んでいくのを目撃しました。その娘の言葉に応《こた》えて、街のあちこちから、虹《にじ》色の柱が立ち昇ってくるような……」 「虹色の……柱?」 「それが比室先生のおっしゃる『複数の子供が一緒になって』という意味なのでしたら、そうだったのかもしれません」 「アリスのSに接触した子供たちが、一緒になって同じフラクタル次元を生み出した、と」  肯《ふむ》、と五月はうなずいた。 「けれど……みんなただの[#「ただの」に傍点]子供でしょう?」 「槌神総一郎が言っていました。十歳半ば未満の子供には、アリスのフラクタルに対する『親和性』があるって。子供の中枢神経系は、大人のものとは生理学的条件が違いますから。比室先生も似たようなことをおっしゃっていたのですが、どうやらその予言が当たっていたようです。『最後の扉を開く前の子供なら、あちらがわの世界に扉を開くのかも』」 「最後の扉[#「最後の扉」に傍点]?」 「思春期前の、まだ大人の身体に変化する前の子供、という意味です。その年齢の子供たちは、大人に比べてアリスのフラクタルに対する感受性が格段に高い」 「で、みんなで手分けしてアリス抜きで[#「アリス抜きで」に傍点]そいつをでっち上げた?」 「まあ、出来映えとしては比室アリスにはとてもかないませんでしたけれど」 「完成度では比室アリスのレベルには達しない、ということですね? それも、比室先生のおっしゃっていたことと同じです」 「それでも子供たちは確かにやってみせました」  うむむ、とまだ納得できない感じで、権藤勲は鼻を鳴らした。「ま、結局五月さんの話を聞いても、よくわかりませんね。要するに、もはやわたしの理解を超えている、ということなんでしょう。とにかく……出来損ないで助かりました。第四のピークの被害者は、規模こそ膨大でしたが、みんな一時的な変容程度で終わっています。本格的にぶっ倒れたのは当時『震源』に踏み込んでいた五月さんたちだけでしたし、それもやはり、あのSを目の前で食らったわりには症状が軽いんです。みんな傾眠か、朦朧《もうろう》程度ですから。意識的な受け答えは見られませんが、急性致死性緊張病の気配もありませんし、『PCRを賦活する音声』も確認されません。実はこの状態が、第三のピーク——こっちは正真正銘、アリスのSです——に襲われた子供たちの容態と酷似しているんです。その子供たちは、さっきも言いましたけれど、すでに次々と『帰還』を果たしています。ですから我々は、槌神先生や本間くんもそのうち『帰還』できるんじゃないかと期待しているんですけれどね」  とすればそれは吉報、のはずなのだけれど、五月は不穏に表情を曇らせた。気配を察した権藤が、「まあ、そう甘くはないかもしれませんが」と付け加えたけれど、五月の不安はそういうことでもなかった。それが決して甘い見込みではなく、期待どおりに事が運んで、残りの四人も次々と「帰還」を果たした、としても、だ。 「もうひとつの世界」を覗《のぞ》いたその四人にとって、「帰還」したこの世界は、「現実」としての地位を失っている。 「その……渡瀬春奈さん、ですか? 彼女はすでに『帰還』を果たしているわけですね?」 「彼女以外にも、続々と、です。十代半ば未満の児童に関しては、重症例はゼロです。恐ろしいことに、全員揃って『帰還』を果たしています」  全員揃って「帰還」を果たした。  その全員が、「唯一の現実」ではなくなってしまった世界に、直面するわけだ。槌神五月が経験したように、それは「帰還」などではなく、むしろ世界の果てに追いやられたようなものだ。そこは「真実」も「現実」も虚《うつ》ろに消えてしまった世界。立ち込める「夢」の濃厚さに、呆然《ぼうぜん》とするしかないような世界。  この虚脱感に、まだ「最後の扉」も開いていないような子供たちが、はたして耐えられるのだろうか? 「……で」しばらく沈黙が続いた後、五月が尋ねた。「『全員』って、具体的にどれくらいなんです?」 「……八十九」 「八十……」五月は言葉半ばにして声を失った。 「実は……」権藤は申し訳なさげに告白した。「今回の重症例は二百五十を超えているんです。大半は、『帰還』してくる子供たちの、両親になるわけで……そのうち死亡例は四十二に上ります」  とすれば、後はもう、二人揃って言葉を失うしかなかった。     三、  同じ頃、渡瀬春奈は文科省の賀谷耕一に付き添われて、一週間ぶりに上高倉の実家へ戻っていた。  渡瀬春奈に対する文科省の対応は、他の被害者とは別格だった。隔離先も、他の被害者から切り離されて、第四のピークに襲われた文科省関係者だけが集められた特別な施設をあてがわれた。実をいうと、「帰還者」の中で一次帰宅が許可されたのも、今のところ彼女だけだった。文科省は渡瀬春奈を慎重に取り扱おうとしている。なにしろそれは、あの化け物のメッセージをはじめて「理解」した人間、そしてそれを他の子供たちに「翻訳」した人間、言わば「アリス二世」……  ま、文科省の都合なんか、春奈の知ったことではないわけだが。  七日ぶりの自宅へ、彼女は怯《おび》えながら踏み込んだ。  なにしろ、玄関先のステップに並べられた鉢植えの群れ、彼女はまずこれに面食らわなければならなかった。それらは、丁寧に手入れされた「ささやかな幸せ」の数々……彼女の母親のみみっちい小市民ぶりの真骨頂……娘の春奈に言わせれば、いつかきっとことごとく蹴散《けち》らしてやりたいような、惨めったらしい小芝居の群れ……  といった連想が次から次に押し寄せるのだけれど、今の春奈はただその濃厚さに戸惑うばかりだった。それらの「夢」を一つにまとめて、「ストーリー」に練り上げることができないのだ。おかげでその鉢植えの群れは、何のストーリーも与えられないまま、ただの鉢植えとして呆然と並んでいた——ほとんど「鉢植え」でもないような、非現実な印象で。 「鉢植え」が何だったのか、まるで忘れてしまったかのような自分に、彼女は蒼褪《あおざ》めて凍りついた。  屋内へ進む。居間のテレビが、スイッチを切られて、位牌《いはい》か何かのように佇《たたず》んでいる。実際位牌かもしれない。彼女の父親はこのテレビの前で死んだ。あの惨めに膨れた横っ腹が……蹴り上げてやりたいくらいの……  うまく思い出せない。軸がぶれてしまったみたいに、すべてのイメージがばらばらに逃げていく。結局……何が「蹴り上げてやりたい」なのだろう? そんな苛々《いらいら》を抱えていたあの頃の事が、まるで遠い昔のことのように感じられる。  台所へ逃げた。  流し台が静まり返っている。冷たい虹《にじ》色に反射しながら。傍らの冷蔵庫が、ことんとひと揺れして、念仏のように唸《うな》りはじめた。春奈は冷蔵庫をじっと見凝《みつ》める。女性タレントが、小皿を小脇に、満足そうに微笑んでいる。春奈の母親は、その小皿を獲得するために、応募シートにパンのシールを二十三枚貼り並べている。  ……それがどうしたというのだ?  二十三は、一と二十三以外のどんな数でも割りきれない。  ちなみにその母親は、「宝塚」だか何だかのご利益によって、例の奇怪な一夜を免《まぬが》れた。今は、大黒柱を失ったこの家を手放すつもりらしく、どこかの部屋でめそめそしながら荷造りを進めている。  春奈は、母親のいる部屋へは立ち寄らなかった。母親の姿は見たくなかった。なにしろあの惨めな姿を見ていると、一緒に泣きたくなってしまう、あるいは、逆に蹴り上げたくなってしまう……  というわけではない。実をいうと、泣きたくもならなければ蹴り上げたくもならなかった。母親の泣いている理由を、その悲惨なストーリーを、ほとんど実感できないまま、呆然と傍観するしかないのだった——まるでステップの鉢植えか何かのように——。しかもそうしていると、まるで春奈自身が自分を傍観しているみたいな、嫌な感じに襲われるのである。  二階を目指した。  春奈の部屋は一週間前と何も変わっていなかった。女の子らしいピンクやオレンジに溢《あふ》れていた。春奈はその濃厚さにひとしきり噎《む》せた。こんなに「色」を張り巡らせて、いったいぜんたい、「わたし」はこの部屋をどうしたかったのだろう? 縫いぐるみの熊が笑っている……笑っている? どういうことだ? あれが「笑っている」? 悩んでいるうちに、そもそも「笑顔」が何だったかすら、わからなくなってきた。その部屋は、一週間前と何も変わっていなかった。なのに春奈は、それを「わたしの部屋」だと信じることができなかった。  きっと、「わたしの部屋」を夢見ることができなくなったのだ。  ピンクやオレンジは、それこそ夢でも見ていなければ、「素敵」だと思うこともできない。大好きだった熊の笑顔も、そこに「笑顔」の夢を重ねられない限り、記号のように凍り付いて、笑顔どころか熊にすら見えない。ステップの鉢植えも同じだった。父親の横っ腹も同じ。おかげでそれを失っても、何を喪失したのかぴんと来ない。その喪失を巡って母親が涙を流したとしても……もはや手の届かない遠い世界の出来事だ。小皿を手に入れるためにパンのシールを集めるのと同じくらい、遠い世界のおとぎ話。あるいは、終わってしまった夢のお話。  渡瀬春奈は世界の夢から醒《さ》めてしまった。  窓辺に立つ。湾曲しながら海へと下る、上高倉が一望できる。かつて、「燃えてしまえ」と願った景色だ。確かに、「燃えてしまった」。この景色を「燃えてしまえ」と呼ばせていた何かは——夢は——、ばらばらに焼け落ちて、残り火のように取り留めもなく立ち込めるばかりだ。  今となっては、どうして「燃えてしまえ」なんて願ったのか、それすら思い出せない。  ……わたしは、誰だったのだろう? ここで、どんな夢を見ていたのだろう?  見知らぬ病棟で見知らぬ連中の看護を受けても気が滅入るばかりだったので、槌神五月は千葉へと逃げた。  国立脳科学研究センターは、今も封鎖されたままだった。「あまりにも危険な施設」なので、未《いま》だに文科省関係者以外の出入りはなかった。ということは、「被害総数五千超」という前代未聞の事態の舞台が、「第三者による立ち入り検査」もないままに放置されているわけで、世論やマスコミはもちろん国会議員までもが文科省の対応を責め立てていた。防戦一方の権藤勲は、「百パーセントの安全が確認されるまでは誰も入れられない」の一点張りで踏ん張っていた。で、そのうちこっそり比室アリスを移送してしまえ、という魂胆なのだろう。まあ、槌神五月にいわせれば、権藤勲の魂胆はもちろん、世論もマスコミも国会議員も全部ひっくるめて知ったことではないわけだが。  午後八時。五月はセンターへ到着した。センターには、文科省の若手の職員が何人か詰めていたけれど、みんな勝手がわからないまま徘徊《はいかい》するばかりだった。五月も、センターに来てはみたけれど、ただサナトリウムを抜け出してきただけだったので、しばらくはやる方なくうろついていた。そのうち、地下三階の廊下で、比室叡久の車椅子と巡り会った。 「おやおや」車椅子の老人は相変わらず朗らかだった。「そろそろ来るんじゃないかと思っていたところですよ」 「権藤さんから連絡があったのですか?」 「いいえ」  じゃ、どうして「そろそろ来る」なんて思ったのだ? 相変わらずおとぎ話のような老人を、五月は怪訝《けげん》そうに藪睨《やぶにら》みした。 「で、……あの娘はどうなんです?」 「眠っていますよ。もう大丈夫です。……もう二度と、目醒めることはないんじゃないでしょうかね」 「……二度と?」  ええ、と老人がうなずく。 「何か根拠でも?」 「ないですよ」  駄目だ。またおとぎ話の類《たぐい》だ。しかもこの年寄りのおとぎ話、けっこう実現してしまう。 「とにかく、あなたが来てくださって、助かりますよ。文科省の助っ人どもは、まったく何をやるにもおっかなびっくりで」 「別にお手伝いに来たわけでもないんですけど」  でも手伝ってくださるのでしょう? と比室叡久は五月の顔を覗《のぞ》き込んだ。「わたしは頃合いを見てここを引き払います。後のことはあなたにお任せしたい。わたしの出番は、もうおしまいなんです」 「出番が、……おしまい?」  と五月が尋ね返しても、無頓着《むとんちやく》な比室叡久はにこにこと微笑むばかりで、何も説明しなかった。 「さて、……それでは、行きましょうか」 「行きましょうかって」五月は、踵《きびす》を返す比室叡久の車椅子を、不可解そうに呼びとめた。「どこへ行くのです?」 「あの娘のところです。あなた、あの娘に会いに来たのでしょう?」  ……そうだったっけ?  違うと思うのだけれど……そう言われると、端《はな》からそのつもりだったような気もする。  なんて悩んでいるうちに、比室叡久の車椅子はするすると廊下を進みはじめた。五月は、そのおとぎ話のような背中を、夢見心地で追っていった。 「わたしはここで待っています。二人で一緒に入りますと、出られなくなりますからね。出るときにはノックなさい……おや、ノックなど聞こえない設備でしたね。わかりました。五分後にこちらから開きましょう」  と、比室叡久がどんどん勝手に決めていくものだから、あとは五月がドームへ踏み込むだけになってしまった。  五月は、赤い警告灯の駆け巡る闇を離れ、目を刺すような純白のドームへ降り立った。  目を細めながら周囲を見渡す。何もない。中央にベッド。それだけだ。他には何もない……何もない? そんなはずはない。  ベッドの脇に真っ白な少女が潰《つぶ》れていた。何もないように見えたのは、その少女にあまりにも気配がないからだった。  ゆっくりと歩み寄る。  少女は振り返らなかった。振り返る以前に、どこを見ている気配もなかった。白しか見えない壁面へ、風穴のような黒目を漂わせるばかりだ。これが、槌神五月のかつての「生徒」。その傍らに立ち止まり、あとはもう、声をかけるか、抱き寄せるか、それくらいしかやることがなくなって、  五月は何もできずに立ち尽くした。  そう、この娘にしてあげられることなんて、何もない。声をかけても、無意味。抱き寄せても、無意味。この娘は人じゃない。人になるためのすべての「夢」を、この娘は放棄している。この娘の中に人は宿っていない。9・7次元の蝶が無限に宿っているだけだ。  ……化け物め。  この娘に人が宿っていないことは、槌神五月がいちばんよく知っている。もしかしたら比室叡久以上に知っている。なにしろ彼女は、この化け物の教育係だった。化け物に「左半球的言語」を授けようとしていた。今になって思えば、異次元の化け物を「愚鈍で低レベルなこの世界」へ引きずり降ろそうとしていたわけだ。そして道半ばにして、彼女はそれが徹底的に無駄であることを知った。この娘に人間らしい反応を期待するのは、絶対に不可能だと悟った。化け物には、この世界の言葉は聞こえないし、この世界の人々も見えない。蝶《ちよう》を9・7次元で無限に捕まえるような、超越的な知性を用いて、この娘は「この世界」を振り切ってしまっている。  五月がそれを悟ったのは、比室アリス七歳の春、ちょうど「蝶」がスーパーコンピューターによって解析された頃だった。彼女は、自分の教育の成果を「客観的に」確かめようと思いついて、教室の隅に隠しカメラを置いた。さらに教室に、比室アリスを一人きりにして、どんな行動をとるか観察した。彼女が執念深く叩《たた》き込んだ「指差し運動」が見られれば、それは比室アリスが言語的な世界観と戯《たわむ》れていることを意味する——なにしろ、自分の注目したものを指差す行動は、まだ言葉を操れない子供の見せる「前言語的行動」、いわば言葉の兆しだ——。あるいは、そこで比室アリスが誰か「他人」を探すような仕草を見せただけでも——もちろん五月が期待したのは、他でもない「槌神五月」を探す仕草だったわけだが——、訓練の成果としては充分だ。それは「社会性」の兆しを意味するはずだから。この自閉症的子供にとっては、たったこれっぽっちの変化でもかなりの救いになる。  要するに、当時の五月はまだ、比室アリスが「ヒト」であることを信じきっていた。そして、自分の力で人に「成長」させることができるはずだし、その成果を「客観的に」確かめることもてきるはずだ、と無邪気に信じきっていた。  が、その信頼は脆《もろ》くも崩れた。  四時間に亘《わた》って撮影されたそのテープには、何も映っていなかった。ただ、窓ガラスを染める春の日差しと、呆然《ぼうぜん》と佇《たたず》む比室アリスが、延々と続くだけだった……いや、ときどき比室アリスは腕を上げた。人差し指を、何もない虚空へ差し向けた。視線は、別の何もない虚空へ漂わせたまま。やがて腕は、だらりと脱力して転がり落ちる。そんなことを、ちょうど百秒に一度くらいの割合で、延々と繰り返す。  前言語的な兆し……と読み取ることは、槌神五月にはできなかった。何かを指差したとしても、視線はそちらを向かないばかりか、「観察」の証拠としてのサッケード運動すら見当たらない……「客観的に」見て、彼女の自慢の訓練スケジュールは、比室アリスの腕の筋肉に機械的な繰り返しを擦り込んだだけだった。  さらに比室アリスは、ときどき笑った。一人きりで、ふと笑った。笑顔とも呼べないような、妙なタイミングで。周囲に誰か研究員がいたら、きっとその笑顔に大喜びで反応したことだろう。自分が求められたと勘違いして、駆け寄り、抱き寄せたかもしれない。何が欲しいのかと問い詰めて、無理やりクッキーを手渡したり、積み木遊びへ誘ったりしたかもしれない。槌神五月もずっとそうしてきた。自分といる時がいちばんよく笑う、なんてことを密《ひそ》かに誇りにしてさえいた。  が、比室アリスは誰もいなくても笑った。誰もいない教室でひっそりと笑った。それはもう、とびっきりの神々しさで。神々しいのは間違いないのだけれど、誰もいないし、誰も駆け寄らないものだから、その神々しさはかなり寒々しかった。「客観的に」観察すると、それはどうやら、そもそも笑顔ですらなかった。やけに痙《ひ》き攣《つ》り過ぎていて、筋肉運動としては「威嚇《いかく》」に近い。もちろん威嚇の意味もないわけで……  要するに、ただのチックだった。  これが槌神五月の教育の成果だ。機械的な筋肉運動と、辺縁系の過敏。それ以外、その隠し撮りのVTRに見出《みいだ》せるものは何もなかった。そこに人は映っていなかった。  人はどうやらすでに振り切られてしまっていた。  この娘は……きっと人も世界も振り切ったのだ。ただ超越的な知性だけを内に秘めて、この世のものではないフラクタル次元へ舞い上がろうとしている。  化け物だ。  七年前も今回も、槌神五月に「この世界」を思い出させたのは、この景色だった。おかげで、それとはあまり関係のない景色のことは——例えば、「伊豆の海を描き殴る子供のわたし」などは——、いまだに自分のこととして思い出せなかった。そうしたエピソードは「死んだ蠅」のように世界から消え失《う》せた。今の槌神五月にとって、この世界を「蠅のように飛び回るもの」は、あの化け物だけだ。彼女の夢には、もっぱらあの化け物ばかりが暴れ狂っている。  槌神五月は、彼女の世界をぶち壊した化け物ばかりを夢に見ながら、生きていく。  五分が過ぎて、ドームの扉が開かれた。もしかしたら本当に、もう二度と目醒《めざ》めないかもしれない、そんなことを考えながら、五月は化け物の前から去った。     四、  世界を拒絶したかのような白のドームを離れた直後、五月の胸に携帯の呼び出しが鳴り響いた。  権藤勲からだった。例のサナトリウムから、槌神総一郎が目覚めたという連絡が入ったらしい。で、どういうわけか、彼は五月に「面会しろ」と急《せ》かすのだった——まあ、考えてみれば、五月はその男の実の娘なのだから、本来急かされなくても「面会」を希望すべきなのだろうが——。結局五月は、どうしてわたしが、と小首を傾げながらも、逃げ込んだばかりの千葉を離れて首都を目指した。  面会、といっても病床の父親と対面して、それを父親とも実感できない五月には、特にかける言葉もなかった。 「先生のおっしゃられたことは、どうやら正しかったようですね」なんて、事務的会話から切り出すしかなかった。  ふむ、と槌神総一郎が振り返る。もっとも、それが「ふむ」に見えたのは、五月が二人の関係を事務的に夢見ているからなのかもしれないが。相手は相手で、こんな時にこの娘はいったい何の話をはじめるつもりだ、と目を見張ったのかもしれない。 「子供の中枢神経系には、比室アリスのフラクタルに対する耐性と、その上に成り立つ親和性がある、という話です。もうお聞きになったかもしれませんが、十代半ば以前の児童が次々と『帰還』を果たしています。これが、先生のおっしゃった『耐性』なのでしょう。それから、『親和性』。先生やわたしを襲った四度目のフラクタルは、比室アリスの生み出したものではありません。先生のおっしゃった、『アリスのSを自分の世界観として吸収した一部の子供たち』が、呼吸を合わせて——ということは、要するに、『アリスの言語』でコミュニケーションを図りながら——生み出したものです」  という五月の話を、総一郎はぼんやりと聞いていた。聞いている、というよりは、眺めている、といった雰囲気で。世界に帰還したばかりの彼は、五月の並べたてる「この世界の言語」についていけないのかもしれないが、五月はそれならそれで構わず続けた。 「まあ、徒党を組んでもアリスの足元にも及びませんでしたが。子供たちのフラクタルには、我々を異次元へ放り出すほどのパワーはありません。それでもよくやった方だとは思いますが……しかし、わたしには、やはり、理解できません。どうして子供たちにだけ、『耐性』や『親和性』が秘められていたのか」  槌神総一郎は、口を挟みもしなければ、相槌《あいづち》さえ打たない。ほとんど五月の独り言になりかけていたが、これ幸い、一人で続けた。 「子供の中枢神経系の生理学的条件が、大人のそれと違うことは、わかります。けれど、それがどうして、耐性や親和性という方向に向かったのでしょう? 大人とは反応が違う、というだけなら納得するのですけれど……どうしてあの異常な世界観を『理解』してしまうのか……」 「生命力だ」  槌神総一郎が呟《つぶや》いた。寝覚めの、嗄《しわが》れた声色で。 「子供の生命力だ。連中は……これから世界を——キミらの言う『一次元的世界観』を——吸収しようという存在だ。そこに別の世界観が現れたのなら、そちらを吸収しても不思議はない」 「それが生理学的に危険な状態だとしても、ですか?」 「その生命力が、危険も脅威も知ったことではないとしたら、な」 「けれどそうだとしたら……皮肉ですね。子供たちは、その『生命力』とやらの仕業によって、『この世界』を吹き飛ばされます。『耐性』によって『帰還』したとしても、その世界はもう『現実』ではありません。一つの読み取り方でしかない。彼らの生命力は『彼ら』そのものを脅かす……」 「キミは」長ったらしさに痺《しび》れを切らしたみたいに、総一郎が口を挟んだ。「『生命力』をまるでわかっておらん」 「……といいますと?」 「彼らの生命力は『彼ら』そのものを脅かす——それは、当然のことではないか。キミだってそいつに『自己』を脅かされながら成長へと駆り立てられたはずだ」  はあ? と五月は小首を傾げた。  ふん、と総一郎は鼻を鳴らす。「ま、心配はいらん。子供の生命力は大人の想像を超えている。それは、原始に根ざした野蛮なエネルギーだ。比室アリスのSを吸収したことなど、まだ序の口だろう。連中は、『一次元的世界』に戻ったのなら、もう一度それを吸収しなおす。もしかしたら、比室アリスの多次元的世界観を交えながら、まったく新しい何かを捻《ひね》り出す。あるいは、うまく交えることができなくても、両者の狭間《はざま》でどうにか世界を立ち上げる。それが、生命力だ。大人には真似のできん野蛮さだよ。連中は常に大人を振り切るわけだ……おまえ[#「おまえ」に傍点]もそうだったではないか」  ぎくり、と五月は凍りついた……おまえ[#「おまえ」に傍点]ですって? その瞬間、他人の夢に無理やり引きずり込まれたみたいな、気色の悪さに襲われた。 「おまえの夢を見た」  総一郎は、がらりと口調を変えて、呟いた。まるでその口調を、これまでずっと我慢してきたかのように。 「夢の中におまえが現れた。伊豆の七色を塗りたくっていたよ。それが見えたとき、わたしはわたしを思い出した」  ちらり、と総一郎は五月を睨《にら》んだ。 「おまえはどうなんだ? どの夢が、おまえをこの世界に連れ戻した?」  そのことは、あまり話したくないのだが……どうせ相手は他人だし、と五月は咳払《せきばら》いして、告白した。 「比室アリスです。あの娘が、すでに人を振り切ってしまっていることに気づいたときのこと……その景色を夢に見ました。七年前も、今回もそうです」 「わたし[#「わたし」に傍点]は、おまえの夢には出てこないわけか」  うぐ、と五月は喉《のど》を痙《ひ》き攣《つ》らせた。 「おまえはいまだに、わたしが誰だかわからないのか?」 「わかってはいます、ただ……」 「ただ?」  相手は、ここぞとばかりに五月の答えを待ち構えている。そうなるとますます、言いにくいことなのだけれど……五月は、ため息の裏に隠すように、その答えを囁《ささや》いた。 「あなたが誰なのかは理解している、という程度です」  伏せた視線の向こう側に、五月は深い吐息を聞いた。吐息はそのまま病室の白いベッドに落ちる。どうやら総一郎は、長い話に疲れ果てて身を横たえたらしい。とすれば、長居は無用だ。五月は総一郎の寝顔にことわりを囁いて、病室を立ち去ろうとした。  が、戸口で囁きに呼びとめられた。 「おまえは……どうして比室アリスを『化け物』と呼ぶ?」なんてことを、総一郎は白いベッドに伏せたまま、寝言のような感じで呟いた。 「別に、知的障害者を侮蔑《ぶべつ》しているつもりでは……」 「そんなことはわかっておる。で、どうしてだ?」 「……あの娘の知性は超越的です。人のレベルを軽々と超えていきます」 「それで?」 「わたしたちの理解なんか及びもしない。化け物、と呼びたくも……」 「おまえが化け物呼ばわりしている相手は、生命力だ」  総一郎は、自分で自分に子守|唄《うた》を唱えるような、虚《うつ》ろな調子で囁いた。 「生命力なんだよ。おまえの教え子は化け物ではない。人の子と同じ、手に負えんほどの生命力を宿していた、それだけのことだ」 「あの娘は……人の子であることなんかとっくに振り切ってしまったんです」 「人であることを振り切るほどの生命力を宿した人の子、だったのだろう?」  五月は口を閉ざす。反論は、あったのかもしれないけれど、子守唄が相手では反論する気にもなれない。 「やはりおまえには、『生命力』がわかっていない。それは必ず何かを振り切る」  と続ける頃には、その口調は子守唄の向こう側に寝入ろうとしていた。 「わたしもそれに振り切られた。おまえがあの少女を夢に見るのなら、おまえもやはり、振り切られたんだよ」  そして病室は静まり返り、後には槌神総一郎の寝息が繰り返されるだけだった。まるで今の会話、すべて夢だったといわんばかりに。五月は、起こさないように足音を忍ばせながら、父の病室を離れた。     五、  結局、あの男は何が言いたかったのだ? それともただの寝言だった? 寝言と会話するのは精神衛生上好ましくない、という噂があるけれど……五月はしきりに小首を傾げながら、静まり返った夜の病棟を進んだ。  廊下の終わりのソファに、権藤勲が待っていた。彼は五月が近づいてくるのに気づくと、薄暗がりにやつれた顔をほころばせながら、立ち上がった。 「ずいぶんお疲れのようで」他にかける言葉もなかった。「あなたが来られる必要はないと思いますが」 「いちおう、槌神先生からも当時の——というのは先週の、第四のピークのことです——事情を聴いておかにゃなりませんから」 「けど、寝ちゃいましたよ」  そうですか、と権藤は、安堵《あんど》のようなため息を漏らした。「じゃ、そちらは後日、ということで」 「そちら、というと、まだ何かあるのですか?」  うむむ、と権藤は鼻を鳴らす。「本間和輝が目を覚ましました」 「まさかそっちにも『面会しろ』と?」 「違います……ま、結果的にはそうなんですが。実は、目を覚ましたといっても、どうも様子がおかしい。意識的な反応が見られないんです」 「……じゃ、まだ目を醒ましていないんじゃないんですか?」 「しかしベッドには起きあがっている。誰かが入室すると、そちらへ視線も向ける」  五月はちらりと視線を巡らせた。「で、その誰かが彼の周囲を歩けば、それを目で追う。けれどやっぱり、意識的な反応はない」 「……よくおわかりで。何か手がかりでも?」 「『無動無言症』」 「は?」 「外に対する反応はほぼ正確なのに、内からの反応がない。自由意志の欠落、みたいなものです。ま、前頭葉深部の帯状回がうまく働いていないのでしょう。例の異次元に吹き飛ばされたばかりですから」 「とすると……あの男、ずっとあのまま?」  ひょい、と五月は肩をすくめた。「外傷はないわけですから、ショックで一次的にシステムが混乱しているだけでしょう。そのうち立ち直って、『周囲のことはわかっていたけれど何をする気も起こらなかった』なんてとぼけたことを言い出すと思いますけど」 「そうなんですか……七年前とは違って、次から次にいろんな事が起こりますね」権藤は呆《あき》れたように肩をすくめた。「じゃ、五月さんに診てもらう必要もないわけですか」  どうしましょう、と五月は腕組みをして考えた。「……診てみましょうか」 「けど、心配ないのでしょう? 五月さんは、『帰還』されたばかりなのですし、そろそろ身体を休められた方が」  と、権藤に促されて腕時計を覗いてみると、もう深夜の二時になっていたのだが、「どうせ今日は眠る気もしません。それに、ちょっと本間和輝に会ってみたい気がします」 「会ってどうするのです?」 「何か話しかける」 「話しかけるって……それに対する反応がないから心配していたのですよ?」 「本間さんも、それが聞こえていないわけではないはずです。脳全体のシステムが一つに繋《つな》がれば、反応できるはずですし。話しかけているうちにそれが繋がるかもしれません。ま、彼を『一次元世界』へ引きずり戻してみますよ」 「……そんなことできるんですかね?」  ちらり、と五月は、ちょっと怖いような感じで笑った。「わたしはその昔、9・7次元の化け物を一次元へ引きずり降ろそうとした人間ですよ?」  本間和輝は、五月の入室と同時にちらりとそちらを振り返った。五月が彼のベッドの周囲を歩けば、その姿を目で追った。立ち止まると、じろじろと見守っている。視線をちらちら、上下左右へ散らしながら……サッケード運動だ。視覚系の運動機能が正常に働いている証拠。比室アリスの、虚空を漂うだけの風穴のような黒目とは、まったく違う。  五月はベッドの脇にパイプ椅子を並べ、腰を下ろした。 「聞こえていますよね?」一見普通の人間なのに、どことなく気配がなくて不気味な本間和輝へ、五月は静かに語りかけた。「ま、聞こえても何も感じないでしょうが。それならそれで、聞いてください。今のあなたは、外側の世界に対する反応に、内側の世界が対応していません。今あなたの見ている景色は、『あなたが出かけた後のあなたの部屋』を眺めているようなものです。『内側の世界』を思い出せば、世界は一つに重なります」  ちらり、と本間の首が傾いた……ま、特に脈絡はないのだろう。可愛らしく小首を傾げるハムスターにでも語りかけている気分だ。 「何かキーワードがあるはずです。わたしの場合は……比室アリスでした。あの娘を思い出したとき、世界が一つに繋がった。ま、それに関係ない世界がなかなか一つに繋がらなくて、今も困っているところですけど。あなたのキーワードは、何です? 何か、あなたの内側に『景色』が眠ってません? それを思い出してみてください」  これじゃまるで、神経科医の仕事というより、臨床心理士かいんちきサイコロジストの仕事だが……五月はかまわず続けた。 「何か『記憶』が過《よぎ》るのであれば、とにかくそれにすがってみてください。嘘でもかまいませんから。その代わり……世界が一つに繋がった頃には、あなたが嘘になっているかもしれませんけど」  過るイメージ。とある景色。想像の産物か、記憶なのかはしらないが。  実は本間は、この一週間、何度も世界を取り戻しかけては、そのイメージに足止めされていた。  そこは……とある処置室。点滴を投与されながら横たわる、術後の患者。麻酔が醒《さ》めるのを待つだけの患者。特に何のリスクもない患者。  が、それが突然激しい痙攣《けいれん》に襲われる。看護婦が飛び交う。当直医が駆けつける。未熟な研修医が、その景色を呆然《ぼうぜん》と眺める。  そんな恐ろしいイメージが、本間和輝を世界から遠ざける。  本間和輝。楽観的で冒険好きなパーソナリティ。  嘘っぱちだった。  臨床の現場を志した彼は、ある経験をきっかけに、その最前線からおっかなびっくり遁走《とんそう》した。術後の患者に規定量の千倍の点滴を与えるという、いわゆる医療事故に遭遇したのだ。もちろん、アルバイトで詰めていただけの本間のミスではない。当直医か看護婦のミスだし、死亡診断にどう記入されたのかは知らない。とにかく彼は、そこでそんな事故に遭遇して、そして恐ろしくて何もできなかった。  アルバイトを辞め、研修にも身が入らないうちに、臨床から切り離された研究室へと逃げ込んでいた。  そこで彼は魅力的なパーソナリティを発揮した。研究者としての実力はなかったが、担当教授には気に入られた。担当教授の全面的な協力を得て論文を仕上げ、学会から専門医の認定を受けた。その後は、もっぱら雑用を回されたが、彼はそれを喜んで引きうけた。楽観的で気のいい男、というペルソナを失うわけにはいかなかった。なにしろその裏側には、臨床の景色に怯《おび》えて逃げ出したという、もうひとつのペルソナが隠れている。  やがて、彼はもうひとつのペルソナを忘れていった。  わたしは本間和輝。楽観的で冒険好きなパーソナリティ。     六、  千葉を出る時に借りてきた国立脳科学研究センターのセダンを駆って、五月は千葉へととんぼ返りしていた。  助手席には本間和輝がいる。  脳波に異常が見られないことを確認して、五月は彼をサナトリウムの外へ連れ出した。病棟の連中はずいぶん反対したけれど。けれど今の彼は、サナトリウムみたいな閉鎖的な世界に閉じ籠めておくべきではない。忘れかけた『この世界』に触れさせたほうがいい。こうして目覚めてしまったのなら、一週間の栄養剤暮らしによる体力の消耗を別にすれば、特に身体に問題はないわけだし。  本間和輝は、助手席の窓を流れる首都の光の渦を、不思議そうに見送っていた。  ときどき彼は自分の腕時計を覗《のぞ》き込んだ。それからハンドルを握る五月の横顔を覗き込んだ。きょろきょろと、少し落ち着きがなかった。きっと世界に戸惑っているのだろう。少々夢見心地なのかもしれない。実際ここは夢の最中《さなか》なのだが。 「ふらふらします?」五月は、元気付けに話しかけた。「やっぱり病棟にいたほうがよかったですかね?」  いえ、と曖昧《あいまい》に返事して、本間は軽く頭を抱えた。 「でも、わたし自身、こううまくいくとは思いませんでしたよ。適当に話しかけてみただけで、あなた、あの状態から抜け出されるのですから」 「あの状態って」本間は痰《たん》を引きずるように呟《つぶや》いた。「『無動無言症』、ですか?」 「それってどんな感じなんです? わたし、経験したことありませんから」  が、本間は教えてくれなかった。悩ましげに頭を抱えただけだった。 「わたし」抱えた腕の隙間から、本間はぽつりと尋ねた。「何かあなたに話しませんでした?」 「といいますと?」 「何か話したような気がするんです。けれど……」 「何だったか思い出せない?」 「……やっぱりわたし、何か話したのですね?」  ふむ、と五月は鼻を鳴らした。「ま、思い出せないのなら気にしないことです。そのエピソードは、今のあなたには必要ない、ということなのですから。楽しく思い出せる時に、思い出せばいいことです」 「……と言われるとますます気になるのですけど?」 「とにかく」五月は極力気楽に語りかけた。「たいしたことじゃありません。全身麻酔を施された患者さんは、麻酔の切れ際にありもしない話を口走ることがあるでしょう? で、麻酔医たちは、話の相手はしますけれど、内容は真に受けない。後々本人に伝えることもない。その内容は、完全に覚醒《かくせい》した本人とは無関係な話なのですから。ま、ちょっとしたエチケットです。とすればあとは、いちいち気にしないことです。こちらも気にしていないわけですから」  という適当な説得に、納得したのか、それとも長ったらしすぎて嫌気がさしたのか、本間は五月の言葉を途中から聞き流して、窓の外の流れる景色を見入っていた。  五月は本間を脳科学研究センターのコントロールルームへ連れ込んだけれど、そのモニター群の一角に捉《とら》えられた比室アリスの姿に、彼はこれといって興味を示さなかった。きっとそれどころではないのだろう。夢のように静まり返ったモニターの群れに、やがて彼は頭を抱えた。 「おかしいんですよ」  ぽつりと告白する。 「どうもおかしい。まるで嘘のような気がしてならない」 「何がです?」  何がだって? と本間は五月へ肩をすくめた。その肩は、全てが、に決まってるじゃないか、と呆《あき》れていた。 「実際のところ、こうやってあなたと話していること自体、気味が悪い。なにしろ、あなたの言葉が、どういうわけか……いちいち『理解』できてしまう」 「そりゃ、当たり前のことじゃないですか」 「その『当たり前』が腑《ふ》に落ちないんですよ……ほら、わたしもわたしで、あなたの言葉に、言葉で返している。当のわたしは、その『言葉』自体に、どうやら半信半疑なのに……何なんですか、これは」 「わたしたちの世界、です。あなたは、戻ってきたんですよ。比室アリスの世界から、わたしたちの世界へ」  どうやらそれを「わたしの世界」だと信じられない本間和輝は、はあ、とどうにもならないようなため息をついて、またひとつ頭を抱えた。「……蝶《ちよう》を見ました。あの、夜の公園で」 「そちらは、『わたしたちのものではないフラクタル多次元の世界』ですね」  ええ、と本間はうなずく。「夢か幻のようでした。実際、信じられませんでしたよ。けれど……」  ちくり、と鋭い感じで、本間は五月を睨《にら》み返す。 「こっちの世界に戻ってみたら、どうです? ここもまるで、夢か幻……信じられないような何か、じゃないですか」 「そりゃ……どちらにしても、『ひとつの読み取り方』に過ぎないわけですから」  かた、と五月は椅子から立ち上がった。狭いコントロールルームをもどかしげに徘徊《はいかい》する。 「比室アリスの世界は」五月の姿を目で追いながら、本間が続けた。「9・7とやらの馬鹿げた次元の話でしたよね? とすると、この世界は何なんです?」 「この世界は……あの娘の世界が9・7次元のおとぎ話なら、『この世界』は、馬鹿げた一次元の夢物語です」 「……一次元?」  ええ、と五月はうなずく。「わたしやあなたが『帰還』したのは、アリスの多次元の足元にも及ばない、『一次元的世界』なんです」 「……そういえばあなた、以前にも、一次元がどうのこうのと言ったことがありましたね?」 「別の次元を見たことのなかったあなたには、まったく相手にされませんでしたけれど」 「今も相手にしちゃいませんよ。この世界の、いったい何が[#「いったい何が」に傍点]、一次元だっていうのです?」 「何もかも、です。『この世界』の、何もかも……言葉も、理屈も、時間の進行も、『わたし』の概念も……この世界ではすべてが一次元的に語られます。要するに、わたしたちの『世界観』そのものが、一次元」 「一次元……」本間は、まるっきり腑に落ちないらしく、ふん、とあさっての方向に鼻を鳴らした。「比室アリスは9・7次元、で驚いていたら、今度はわたしたちが一次元、ですか」 「納得できない?」 「できるはずがないでしょう?」 「比室アリスの9・7次元は納得したのに、ですか?」 「だったら[#「だったら」に傍点]」本間はやおら語気を強めた。「『この世界』の『一次元』とやらも、あのときのように説明してみせてください」と、できるものなら、という皮肉を込めて言い放つ。 「あのときのように、と言いますと?」 「比室アリスの『9・7次元』の説明には、解剖学的部位の名称と、生理学的な解説が出てきた。前頭葉、後頭葉、側頭葉、9Hzの異常脳波……あなたがこの世界を『一次元』と言い張るのなら、その一次元やらも……」 「解剖学的部位の名称と、生理学的な解説で、語ってみせろ、と?」 「ですね」 「この一次元的世界を……解剖しろ[#「解剖しろ」に傍点]、というわけですか」 「もちろん[#「もちろん」に傍点]」  と迫る本間の目つきは、なんだか知らないが、本気だった。きっと……夢のように擦り抜けはじめたこの世界が、心底恐ろしいのだろう。で、科学の文法を使って論理的な「一次元」へと引きずり降ろすことで、「世界」を「わたし」へ繋《つな》ぎ留めようとしている……それほど怯《おび》えているわけだ。  この世界に、「世界」としての信頼を置けなくなったことに。  この世界が一次元の夢に過ぎないという、事実に。     七、 「……ま、学術的に承認された話ではありませんが」五月は本間の目つきに応《こた》えて、解剖学的な口調で切り出した。「わたしたちの『一次元的世界観』は、おそらく『視覚の空間的方向定位』機能に端を発しています」 「……視覚?」 「新生児において最初に発達する高次機能、です。視覚の捉えた注意の対象が、空間の『どこ』に存在するか、それを把握する能力……」 「そんなものが、『世界観』の発端?」 「それは、生まれたばかりのわたしたちが、初めて世界に接するときの、『世界の眺め方』です。その後の世界に影響を及ぼしても、当然といえば当然でしょう?」 「……ま、先を聞きましょう」 「『視覚の空間的方向定位能力』は、解剖学的には、間脳系にある視床の一部、中脳の上丘、それに皮質の頭頂葉、という三つの部位の機能になります。新生児の皮質において最初に働きはじめるのは頭頂葉ですから、生まれたばかりの新生児はまず、世界の『どこ』を把握することからはじめるのです。一つずつ説明しましょう。まず、視床。ここは、視覚が何かに注意を注いだとき、その対象にスポットライトを当てて、情報量を増幅します。注意を注いでいないものからの情報を削っちゃうんです。何かひとつのものを見凝《みつ》めた時に、その周囲が背景になるのは、この視床の仕業です」  ふむ、と本間は軽い相槌《あいづち》で先を促す。 「で、次が頭頂葉。ここは、『視覚の方向定位システム』においては、『解放』をつかさどっています」 「解放?」 「視床は注意の対象を増幅させてくれますけれど、そのままではいつまでもひとつの対象に注意を注ぐばかりです。他のものには目もくれません。注意の対象を振り替えるには、『解放』の指令が必要です。その指令を出すのが、頭頂葉、といわれているのですが……わたしはもうちょっと、踏み込んで考えたいですね」 「というと?」 「今視覚の注意の対象となっているものが、注意の対象から外れても——背景、あるいは視界の外に追いやられても——、この世から消えてなくなるわけではないということを、意識する機能、です」 「……何のことだかさっぱりわからないんですがね?」 「背後が視界に入らなくても背後の世界が消えてなくなるわけではないことを、わたしたちは信じているでしょう? あるいは、あなたが電車を眺めているとして、その電車がトンネルの中に隠れても、電車そのものが消えてなくなったわけではないことを、あなたは信じている」 「今度は話が単純すぎて、かえってわかりませんよ」 「じゃ、真ん中を取って、具体例を挙げましょう。新生児です。生まれたばかりの新生児は、間脳系の視床の機能は整っていますが、皮質の頭頂葉の機能はもうひとつです。だいたい四ヶ月くらい待たなければ、頭頂葉の『解放』の機能は整いません。とすると……生後四ヶ月以内の新生児に——その視覚の能力に——、特徴的な現象がありますよね?」 「……強制視?」  上等、と五月はうなずいた。「新生児には、一度目に入ったものを辛抱強く睨み続ける癖がある。心理学的には『母親の顔を記憶するため』なんて言われますが……まあ、そういうご利益もあるんでしょうけど、生理学的には、『解放』機能の未完成です。一度視覚上の何かに注意を注いでしまうと、その注意をなかなか解放できなくなる。だから新生児は、一つのものを執拗《しつよう》に見凝め続ける……この時期の新生児を相手に、母親が『いないいないばあ』を繰り返すと、どうなります?」 「どうなるって、……喜ぶんじゃないですか?」 「『ばあ』の瞬間には、ね。けれど『いないいない』の間は——母親の顔が隠されている間は——、新生児は顔をしかめて『不快』を表します……実は、このとき新生児は『母親がいなくなった』と認識しているのです。四ヶ月未満の新生児は、注意の対象が視界から消えると、『この世から消えてなくなった』と認識します。電車がトンネルに隠れたら、そこで電車はこの世から消えてなくなるのです。要するに、今この瞬間視床の注意の対象になっているものしか、この世に存在できない。目に見えるあらゆるものが、注意の推移に従って、現れては消滅していく。これでは世界は『世界』として成り立ちません。そこを補足するのが、頭頂葉の仕事なんです。頭頂葉は、対象から注意が逸《そ》れる際に、その存在を『保存』します。直接注意を注いでいないものでも、この世に存在していることを、保証するのです。だから、わたしはわたしの背後の世界を信じている。新生児は、やがて母親の顔が隠れても『不快』の反応を示さなくなる」 「両手の裏側に母親の顔が『隠れている』ことを、意識できるようになる?」 「ま、母親の顔の『普遍性』が頭頂葉によって保証されるわけです」 「……そういう言い回しをされると、またわからなくなってしまいそうですが」と本間は一つ愚痴をこぼして、「で、もう一つありましたよね?」 「中脳の上丘。ここは、頭頂葉からの『解放』の指示を受けて、注意を新しい対象へ移動させる。ま、『注意』と『解放』を仲介する橋渡し役です。他にもいくつか視覚に関する運動機能を持ってますけど、ここでいちいち話す必要はないでしょう。とにかくこれで、トライアングルが出揃いました。視床の強力なスポットライトで、何かに注意を注ぐ。別の何かに注意を振り替えるときは、頭頂葉が最初の対象を『保存』し、その『普遍性』を保証した上で、『解放』を指示する。中脳の上丘が両者のバランスを整える。三つが連携プレーを取ることで、わたしたちはやっと世界を『見渡す』ことができます」 「『見渡す』だけでもひと苦労、というわけですか」 「なにしろ相手は、得体の知れない『世界』ですから。で、そのうち頭頂葉のどこかに、保存された注意の対象が整然と並べられていきます。ま、世界の鏡像、です。これが、人が生まれて最初に手に入れる『内的世界』です」 「なるほど、『普遍性』の保証された『空間情報』」 「ただしこの機能、ひとつだけ欠陥があります」 「というと?」 「頭頂葉は空間情報をストックして、視床がそのひとつに注意を注ぐ。これだと、注意の対象は常に『ひとつ』に限られます。要するに、『一度にひとつのものにしか注意できない』」 「……当たり前のことのように聞こえるんですが」 「わたしたちの注意は、『ひとつ』から『ひとつ』へ……一次元的な推移しかできなくなるのです。ひとつの注意の対象を、手に取っては、頭頂葉にストックして、また別の一つを手に取る。『注意』そのものは直線上を一次元的に移動するばかりです」 「でも、頭頂葉に蓄積される空間把握は立体的なものでしょう?」 「その空間把握はストックに過ぎないんですよ。要するに、『倉庫』です。倉庫から注意の対象を取り出すことはできても、倉庫そのものに注意することはできない。できたとしても一苦労です。三次元方程式を解くみたいに、頭がこんがらがってくる——それこそ、『注意が散漫になる』——。例えば、あなたの部屋を説明してくださいと頼まれたら、どうします? あっちにベッドがあって、そっちに机があって、そこには本棚があって……ひとつずつ指摘するしかありません。注意が一次元的にしか推移しないものだから、部屋の様子も一次元的に並べていくしかない」 「そりゃ、他に説明のしようがないわけですし」 「比室アリスがそんな泣き言を言うと思いますか? 『全体像』しか見えない彼女は、ベッドも机もないようなどこかで、全体のバランスだけを歌い上げるんじゃないですか?」 「……それが、世界観の違い、だと?」 「その基礎だと思うんです。もちろん、世界観を云々《うんぬん》するには、具体的な視覚世界から離れる必要がありますけれど——抽象世界に踏み込む必要がある、ということです。抽象世界といえば、その司令塔は前頭葉です。というわけで……新生児の話に戻りましょう。子供の前頭葉が働きだすのは、だいたい一歳くらい、乳児と呼ばれる時期です。この頃になると、乳児はものの名前を憶《おぼ》えはじめる。少なくとも、車のことを『ブーブー』と擬音で表現するくらいのことはできるようになる。このとき、視覚の空間的方向定位能力が、極めて重要な役割を果たします」 「確かに、『ブーブー』と言う前に、車を視覚的に捉《とら》えなければなりませんから」 「簡単に言えばそうなんですが。車を『ブーブー』と呼ぶときには、たいていの乳児がある象徴的な動作をします。『指差し』です。何が『ブーブー』なのかを、まず指によって具体的に方向定位する。そうして注意を注いだ対象を、頭頂葉に保存して、『普遍性』を保証して、そうしてはじめてラベルを貼ることができる」 「ま、『普遍性』が保証されなければ、それに『名前』を与えても仕方がないですからね。だから、『指差し』は『名前』にとって象徴的……そういえばお宅、比室アリスに言葉を教えていましたよね?」 「ええ、まあ……」突然何の話かと、五月はたちまち口籠《くちご》もった。 「そのときにも、『指差し』を採用していた。比室アリスを、背後から羽交い締めにして、何かを無理やり指差させては、その名前を喚《わめ》いて……」 「方向定位を意識させてラベルの概念を埋め込もう、という魂胆でした。ま、方向定位能力の正常を保証するサッケード運動すら見られないあの娘には、無駄でしたけれど」と、アリスの話題を適当に片付けると、五月は本題に戻った。「とにかく、『名前』には視覚の方向定位が重要なんです。視覚そのもの以上に、それを方向定位する『感性』が……三重苦の女の子とその家庭教師の、有名なエピソードがあるでしょう? 盲目の少女が、水に触れて、それをWATERと呼んだ瞬間、世界の全てが忽然《こつぜん》と名前に染まっていく。それはきっと、WATERという名前のカテゴリー分けに成功しただけではありません。そのとき同時に、手で水に触れていたこと[#「手で水に触れていたこと」に傍点]が重要なんです」 「なるほど……視覚そのものは奪われていても、方向定位とラベル貼りが同時に発動すれば、『名前』は可能になる……お宅、サリバン先生を真似てたわけですか」  その話題はもはや無視して、五月は話を進めた。「視床が注意の対象を一つ選んで、その情報を増幅する。前頭葉がその特徴からラベルを選ぶ——例えば、『ブーブー』——。頭頂葉がその空間的配置を保存して、『解放』を指示する。ラベルの方は、おそらく側頭葉に保存されます。『車』に注目すれば、それは『電車』と近いところに配置されるでしょう。その車の『赤』に注目したなら、『青』や『黄色』の近所に配置されるはずです。『車』の隣に配置しても、役には立ちません。車は赤ばかりじゃありませんし、それに『リンゴ』だって赤ですからね。車の走る姿に注目したなら、『ビューン』なんて擬音を試す。もし母親か誰かが、その『ビューン』に『走る』というラベルを貼ってくれれば、その後は『電車』も『走る』になるかもしれない。こうして側頭葉に、注目した対象の姿や振る舞いが、意味や関係性に振り分けられながら配置されていきます」 「頭頂葉に空間的な配置が保存されるとしたら、……側頭葉には、抽象的な配置が保存される?」 「視覚の方向定位能力は、空間的な世界の鏡像を構築する。とすれば前頭葉や側頭葉は、意味や関係性によって整理された抽象的な世界の鏡像を構築するわけです。言い換えれば、視床や頭頂葉が世界を『眺める』ときに成功したやり方を、前頭葉と側頭葉は世界を『語る』ために模倣する[#「模倣する」に傍点]」 「で、……『言葉』が生まれる」 「『赤い』と『車』と『走る』がうまく側頭葉に配置されれば、『赤い車が走る』という表現が可能になる。するとその瞬間から、わたしたちの頭の中にも赤い車が走りはじめます。目の前に赤い車が走っていなくても、です。その表現に触発されて、前頭葉が側頭葉の鏡像を検索し、同じイメージを再構築する——もっとも、あなたの思いついたのはフェラーリで、わたしは国産車かもしれませんけれど」 「赤い車が目の前になくても、『言葉』で互いのイメージが擦り合わされるとしたら……抽象世界に一歩近づきましたね?」 「で、イメージ同士の擦り合わせは、幼児期からはじまる膨大な言葉のやり取りによって、飛躍的に整備されていきます。要するに、あなたの鏡像とわたしの鏡像の間のブレを、『言語』が調整していく……前頭葉と側頭葉に牽引《けんいん》されて生まれた『言葉』が、今度は前頭葉と側頭葉を牽引するわけです。そのうちわたしたちは、目の前に具体的な対象がなくても、側頭葉に蓄積された意味と関係性だけで、ものごとを操作できるようになります。『抽象的概念の操作』です。この能力は児童期に急速に発達して、青年期の混乱を経て落ち着いていきます。どっちにしても——というのは、発達するにしても混乱するにしても——、その間に接する様々な『言葉』によって引きずりまわされるわけです。側頭葉の鏡像から生まれた『言葉』が、その鏡像を引きずりまわす……我が子に取って食われたような話ですね」 「それが、わたしたちの『世界』の成り立ちだと?」 「『言語』によってニワトリ—卵的に強化されていく、意味や関係性で構築された鏡像世界、です。そのもともとのアイデアは、『視覚の空間的方向定位能力』を模倣したもの……ということは、わかりますよね?」 「わかりますよねって……何がです?」 「それが、視覚の方向定位能力と同じ欠陥を引きずっているはずだ[#「視覚の方向定位能力と同じ欠陥を引きずっているはずだ」に傍点]、ということ」 「……というと?」 「一次元[#「一次元」に傍点]、です」  五月は語気を強めて言い渡すと、ちょっと咳払《せきばら》いで間を取って、続けた。 「『赤い車が走る』を思い出してください——それと、『一度にひとつのことにしか注意できない』ことを——。ここで注目しているのは、『車』とその色——『赤』、そして動きです——『走る』。一度に三つのことに注目している、と言いたくなりますが、三つの注目点を逐次的に並べただけです。わたしたちの注意点は、言語の進行——赤い・車が・走る——に従って、ひとつずつ、逐次的に、推移していく」 「なるほど、『赤い・車が・走る』……あっちがベッドで、こっちが机で、そっちが本棚、と同じ動きになる……」 「『ひとつ』から『ひとつ』への単純な移動しかできないわけです。とすれば、わたしたちの言語は、どうあがいても、一次元的な推移に閉じ籠められる」 「赤い・車が……ま、一次元、と言えば一次元ですが……」 「さらに、『赤い車が走る』における注意点は、三点のみです。とすると、それ以外の情報は完全にこの世から消えてなくなる——トンネルに入った電車みたいに、ね。ですから、あなたはフェラーリを思いつくかもしれないし、わたしはもっぱら国産車を思いつく」 「そりゃ、車種には言及していないんですから当たり前じゃないですか」 「そこが一次元の限界なんですよ。そこをはっきりさせたいなら、『車種』という新しい注意点を付け加えなければならない。じゃ、スピードは? エンジン音は? 何もかも、逐次的に積み上げていくしかない……比室アリスならどうすると思います?」 「どうするって、比室アリスは『全体像に秘められたパターンのみに着目する』わけですから……」 「きっと注意点をひとつずつ積み上げるようなことはしません。もともと『ひとつの注意点』を選択することすら、できないのですから。彼女は、その形状と速度と音を一緒くたにして、『全体像』からパターンを探ります。『形』も『音』もないまぜになった多次元上に、自己相似のパターンを見つけて、それで全体像を一気に折り畳むのです。スパコンに解析させれば『9・7次元上を疾走するあらゆる加速状態の何か』が出現するかもしれません……それが『赤』かろうが『フェラーリ』だろうが、彼女の知ったことじゃない。そういうカテゴリー分けは、全体像を自己相似で折り畳む彼女の世界には存在しませんから」 「『赤い』も『車』も『走る』も、『フェラーリ』も見当たらないようなどこかで、すべてを一緒くたにした運動状態を言い表す?」 「その運動状態における無限のパターンを、です。で、わたしたちの場合は、『赤い』や『車』のカテゴリーを抽出して、『走る』という動きを与えるしかない。そうやってひとつずつ筋道をつけていくしかない」 「『ひとつの注意点』を『ひとつずつ』指摘していくしかない……」 「それ以外に、わたしたちは、世界を『語る』手段を持ちません」 「それが、『一次元的世界観』だと……?」  肯《ふむ》、と五月はうなずく。「『言語』は、『この世界』を成り立たせるにはかなり重要な要素です。それが決して一次元から離れられない、とすれば……他のすべてが一次元に引きずり降ろされていきます。たとえば論理——言い換えれば、児童期から発達をはじめる、『抽象的概念の操作』——。要素を抽出して、ひとつの筋道の上に逐次的に並べ立てて……どう転がしても一次元でしょう? 帰納を試そうが、演繹《えんえき》を試そうが、同じ一次元の一本道なんですから。で、わたしたち自然科学者は、その論理の確度を、数式によって強化しようとする。数式は、左から右へ整然と操作が連なっていく、完璧《かんぺき》な一次元です。わたしたちは、一次元によって思いついたことを、一次元の小道具で強化する……最後に手に入る『理解』は、ぴっかぴかの[#「ぴっかぴかの」に傍点]一次元です」 「『注意』が一次元的にしか推移しないものだから、『理解』される内容も一次元に閉じ籠められる?」 「わたしたちには一次元以外に『理解』の手段がないのですよ。そういう意味では『時間』が典型的です。わたしたちの感覚では、過去と、現在と、未来とが、整然とまっすぐに、そしてすべての人に普遍的に、進行していく——もちろん、科学はそれを否定しましたけれど——。この一次元的な時間感覚が頑固に染み付いて離れないのは、そういうもの[#「そういうもの」に傍点]にしておかないとわたしたちには時間経過が理解できなくなるから[#「にしておかないとわたしたちには時間経過が理解できなくなるから」に傍点]、なんです」 「……しかしまあ、そういうことにしておいて、特に不都合はないわけですし」 「そのかわり、『9・7次元上を舞う無限パターンの蝶《ちよう》のはばたき』は、永遠に理解できません。無限の自己相似に閉じ込められたあの娘の世界では、時間も永遠まで引き延ばされるか、さもなければ無限少に消滅します」 「……」その無限と永遠を身体で覚えている本間には、そんな世界があり得るものか、なんて否定はできなかった。もちろん、身体しか覚えていないものを言葉で肯定することもできなかったけれど。 「『時間』は」五月が続ける。「一次元のわたしたちが、わたしたちに理解しやすいように、わざわざ一次元でこしらえた概念——幻なんですよ。『この世界』のものは、みんなそうです……『人生』にしてみたって」 「……人生?」 「わたしもあなたも、自分のことを語るとき、どうしても『ストーリー』に仕立てようとする。『あのときわたしはああだったから、今のわたしはこうで、この先わたしはこうだろう』。『自分』を相手にしたときすら、要素を抽出し、逐次的に並べ立て、ひとつの筋道を描かざるを得ない。側頭葉がすべてのものを『関係性』の上に配置し、それによって必要以上の『普遍性』を保証するものだから、人の存在自体が関係性の上に逐次的に並べられなければ普遍性を保てないのです」 「一次元に頼らないと……トンネルに入った電車みたいに『自分』が消えてなくなる?」 「ま、そんなものでもでっち上げ[#「でっち上げ」に傍点]なければ自分がそこにいる気がしない、というものが『人生』の正体です。それは、『確かにそこにあるもの』ではなくて、『それしか理解できないから便宜的にそうでっち上げているもの』、なんです。本当は、そんなもの、この世のどこにも存在しない……9・7次元の比室アリスにどんなライフヒストリーも感じられないように」 「『人生』が……それもこれも、わたしたちが視覚の方向定位の欠陥を引きずっているからだと?」 「方向定位の欠陥は、わたしたちの『語る』世界の大部分を拘束しています。世界観の基礎になってしまってるんです——あんまり愉快な話じゃありませんけどね。典型的な例を挙げましょうか? わたしたちの使う『言語』には、三つの人称代名詞、というものがありますよね?」 「ああ、その、……『あなた』、『わたし』、それに『彼・彼女』ですか」 「世界のほとんどの言語が、この三種類の人称を採用しているはずです。ということは、それは側頭葉の鏡像世界において典型的なカテゴリーになるわけで……ところでどうして『三つ』なんです?」 「……は?」 「どうして人称代名詞は、世界の全ての人々を『三つ』のカテゴリーに分けてしまうのです?」 「どうして、と訊《き》かれても……」と塞《ふさ》ぎかけたところで、本間ははたと思い出した。「ま[#「ま」に傍点]さか[#「さか」に傍点]」 「まさか?」 「『視覚の方向定位能力』のトライアングル!」  ふむ、と五月は満足そうに鼻を鳴らした。「視床は、今目の前にあって注意の対象となっているものに、スポットライトを注ぎます——『あなた』のポジションを決めるわけです。頭頂葉は、トンネルに入っても電車が消えてなくならないことを保証する……直接注意の注げない対象でも、この世に存在することを保証する——『彼』や『彼女』の位置です。そして中脳の上丘は二つのポジションのバランスを取る。あるものを『あなた』の位置に置いたら、別のものを『彼・彼女』の位置に引っ込める。そうやって『あなた』と『彼・彼女』の間を、てきぱきと仲介する。そのうち操作主体の感覚が生まれてきます。『あなた』や『彼・彼女』を取り仕切る、世界の中心の感覚です……それが、『わたし』なんです。『わたし』は中脳の上丘のポジション、というか、視床の『あなた』と頭頂葉の『彼・彼女』を並べ替えるうちに生まれてくる、便宜的な主体感覚……ま、鏡像の中心に浮かび上がる幻、みたいなものです」 「とすると……三つの人称は視覚の方向定位能力から発生する?」 「視覚の方向定位が関与するのはあくまで視覚情報です。それが実際、言語上にあらわれるのは、前頭葉と側頭葉がその振る舞いを模倣しはじめたとき、なのでしょう。そのトライアングルの振る舞いが、前頭葉や側頭葉によって、そのまま『あなた』『彼・彼女』『わたし』に振り分けられる……さらに面白い例があります。自然科学は全ての記述を『彼・彼女』の視点で記すよう、義務付けているでしょう? それによって『普遍性』が保証されるから……ところで、視覚の方向定位能力において、対象の普遍性を保証しているのはどこでした?」 「……頭頂葉」 「そのシステムを模倣したのが、側頭葉です。『彼・彼女』の視点で記述すれば普遍性が保証される、という発想は、もとを正せば視覚の方向定位能力が決めたルールなんですよ。電車がトンネルに入っても消えてなくならないことと、同じ仕組みなんです」 「ということは……この世界が視覚の方向定位から発したという痕跡《こんせき》が、『三つの人称』という形で、『言語』に埋もれている?」 「『化石』みたいに、ね」 「じゃ、わたしたちの『言葉』だとか、ものの考え方だとかは……」 「どこまでいっても、生まれて最初に世界に接したときの『眺め方』に、縛られます」 「おかげですべてが、一次元的な振る舞いに引きずり降ろされて……」 「その世界観は、『逐次的言語』という一種の幻によって、執拗《しつよう》に強化されます。言語が取り交わされれば取り交わされるほど、その世界観は普遍性を増していく。フィードバックがフィードバックによってがんじがらめになっていく……ま、互いで互いを一次元へ引きずり降ろすわけですよ。結局、引きずり降ろされるのは、『世界』そのものです」 「フィードバックがフィードバックによって……」  と、言い掛けたところで、本間ははた[#「はた」に傍点]と顔をしかめた。 「てことは……ちょっと待ってくださいよ」  本間は五月へ手のひらを向け、口を挟むなと訴えながら、自力で考えた。「比室アリスは、持ち前の『フラクタル世界観』を、『言語』というフィードバックのフィードバック機能によって強化していた。そのフィードバックのフィードバックによる強化は、他人を彼女の世界観に引きずり込んで……」 「子供たちに至っては——あなたがあの夜の公園で見たように——、互いで互いを9・7次元へ巻き上げた」 「一方でわたしたちも、持ち前の『一次元的世界観』を、『言語』というフィードバックのフィードバック機能によって強化していて……そのフィードバックのフィードバックによる強化は、わたしたち全体を同じ世界観に引きずり込んで……」 「互いで互いを一次元へ引きずり降ろす」  がば、と本間は勢いをつけて顔を上げた。 「何も変わらないじゃないですか……比室アリスと、わたしたちのやっていることは、何も変わらない。比室アリスのあの世界が、生理学的な要因に裏打ちされた異常な異次元だとしたら、わたしたちのこの世界だって、それに負けないくらい……」 「異常な異次元[#「異常な異次元」に傍点]、です。もちろん、その異常さは生理学的な要因によって裏打ちされています」 「じゃ、わたしがあのとき公園で目撃した『蝶』を、夢のようだと感じるのなら……」 「『赤い・車が・走る』によって浮かぶイメージが、夢でないはずがありません」 「しかしその夢が見えなければ、たぶんわたしには……」 「『世界』が見えない」 「……これか。これなんですね?」 「というと?」 「わたしが、目を醒《さ》ましてからずっと引きずっている、不愉快さ。わたしがこの世界にいることの、夢のような感触。言葉が取り交わされるたびに襲ってくる、虚《うつ》ろな感覚……」 「あなたは」ふう、とひとつ、五月は吐息を漏らして、静かな調子で告げた。「『もうひとつの世界』を経験しました。今までとはまったく違う『世界の捉《とら》え方』に、接触したのです。だから、あなたにとって『この世界』は……もう『唯一無二の現実世界』ではない。この『ある特殊な解釈法に固執した異次元』では……一次元にしがみつかなければなりません。自分の人生を一次元のストーリーに引きずり降ろさなければなりません。嘘でもいいから、でっち上げなければならないのです。でないと『わたし』の普遍性が失われます。相手の投げかけてくる『逐次的言語』を、逐次的に処理しなければなりません。それで何かが取り交わされたのだと『信じ』なければなりません。でなければ、世界の普遍性が失われます。もちろん、失われてはならないその『普遍性』そのものが、頭頂葉を模倣した側頭葉の仕業で発生する『幻』に過ぎないわけですが」 「幻を、守るために、幻を、信じろ……と?」 「でなければ、あなたはもう一度、世界を見失います」 「……他の連中はみんなそうしている、というわけか……」 「そうしていることに気づきもしないで……あなただって、『もうひとつの捉え方』に接触するまでは、気づきもせずにそうしていたでしょう?」 「夢のようなこの世界を、盲目的に信じていた……」 「夢のような、というか、夢そのものなんですよ。この世界は夢です。他に何も有り得ません」  二人の会話が、忽然《こつぜん》と、夢のように、途絶えた。  コントロールルームの傍ら、十七番目のモニターの片隅に、化け物のように美しい比室アリスが、風穴のような黒目を世界へ漂わせていた。もしもこの娘に、『9・7次元上を無限に舞う蝶』くらいしか宿っていないとしたら、ヒトには、生まれてはじめて世界と接したときの、愚鈍で低レベルな『一次元』くらいしか、宿っていない。  本間和輝を相手に「この世界」を解剖するうちに、自分がそのグロテスクさに改めて打ちのめされて、なんだかぐったりしながら、五月はコントロールルームを離れた。  国立脳科学研究センターの白い廊下が、忽然《こつぜん》と静まり返っている。夢見心地で見守っていると、センターに詰めている文科省の若い職員が、血相を変えて駆け込んで来た。探したんですよ、なんて夢のようなことを喚《わめ》きながら。  槌神総一郎の容態が急変した。五月と別れた後、急に精神運動興奮の錯乱に陥って、「急性致死性緊張病に酷似した症状」を発症。やがて心肺機能を停止させ——  午前三時四十七分、夢に呑《の》まれるか、あるいは夢に振り切られるかのように、息を引き取った。 [#改ページ] Yea, all which it inherit, shall dissolve, And, like this insubstantial pageant faded, Leave not a rack behind. We are such stuff As dreams are made on. And our little life Is rounded with a sleep. [#ここから1字下げ] (そう、地上に築かれたすべてのものが、やがては消えゆき、 夢物語の終わりのように、後には一片のちぎれ雲も残らない 人は、夢と同じところから生まれてくる そのささやかな一生は、眠りとともに幕を閉じる) [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——the TEMPEST, act IV・sc.1—— [#改ページ]  and Which Dreamed it?[#「and Which Dreamed it?」はゴシック体]  九月。  島崎千裕は、見知らぬ街の、見知らぬ校舎で、見知らぬ級友たちとともに、新学期を迎えた。  彼女の両親はいまだに「眠って」いる。千裕は父方の親戚《しんせき》に預けられた。その新しい家族も、新しい街も、新しい学級も、いい人ばかりだ。みんな千裕に気を使っている。  それが夢のように遠く感じられる。  三時限目。クラスは図画工作室に移動した。二学期最初の課題は、「動物のデッサン」。図書室の図鑑から好きな動物を選んで、自由に描け、という趣向だった。  自由に描け、と言われても、そこは小学五年生、自由を満喫するばかりで一向に描こうとはしなかった。図鑑を拾いに図書室へ逃げ込んでは、大騒ぎして追い出され、「かなぶんは『動物』に入るのか?」と若い担任教師を悩ませ——担任としては、「かなぶん」なんてつまらないものを生徒が描きたがるとはまさか思いもしなかったし、生徒は生徒で、べつに「かなぶん」を描きたいわけではなく、たぶん「かなぶん」くらいしか描く気になれないだけだった——、ようやくスケッチブックを開いたとしても、今度は他人のデッサンを冷やかすばかり。四時限目を待たなければ、課題の完成どころか製作開始さえままならない様子だった。  が、そんなクラスの雰囲気が、ある瞬間、凍りついた。  島崎千裕が、モデルを選んでものの五分で、ぞっとするほど精密な「早駆けの馬」を仕上げたのである。  彼女の新しいクラスメートたちは、その見事さに、どうやら見惚《みと》れてはいなかった。文字どおり、凍りついていた。なにしろ「早駆けの馬」そのものが、この世のものでもないような精巧さの中に、凍りついていたから。生徒はもちろん、担任さえもが、誉め言葉すら失って、蒼褪《あおざ》めた感じで遠巻きに眺めるだけだった。  違う。千裕はこんなものを描きたかったわけではない。けれど、描けてしまうのだから仕方がない。  新しい級友たちが、すう[#「すう」に傍点]と千裕から引いていく。しばらくは、虚を突かれたみたいに静まり返って、やがて、それぞれの馬鹿騒ぎに戻っていく。こんなことなら……クレヨンの花輪に黒い絵の具を塗りたくった方が、ずっとましだ。あれはあれで、それなりに花火に見せようと頑張った。けれどこの馬は、腕が勝手に仕上げてしまった。おかげで、「わたし」が描いたような気もしない。  嫌だ、こんな作品なら、「わたし」が描く意味もない。  千裕は図鑑に新しいモデルを探した。  巨大な猛禽《もうきん》類が現れた。翼を広げると二メートル。絶滅の危惧《きぐ》される品種。千裕の脳裏に、その切ないような枯れ野色の翼が突き刺さった。とすればもう、図鑑を閉じても、巨大な翼が彼女の脳裏から消えることはなかった。その翼で、彼女は「早駆けの馬」に挑みかかった。  その馬を、「わたしのもの」へと引きずり降ろすために。  木原浩一郎は音楽室にいた。  彼もまた、どことも知れない街の、どことも知れない学校で、誰とも知れない生徒たちとともに、合唱の手ほどきを受けていた。が、彼は島崎千裕よりもちょっと逞《たくま》しかった。あるいは、爪を隠す、ということを知っていた。教師のヘタクソなオルガンに、辟易《へきえき》してはいたけれど——こんな馬鹿馬鹿しいほど単純な曲を、一度もまともに終わらせることができないなんて、どうなってんだ?——、彼は教師を押し退けて鍵盤《けんばん》の前に立つようなことはしなかった。その演奏に耳を傾けもしなかった。どうせ、とっくに全て頭に入っているし。  それに、鍵盤に触れると、またあの誰もいないような恐ろしい世界に引きずり込まれる。  彼は……勇者「コウイチロ」のことを考えて、暇を潰《つぶ》した。先日、ようやくカイラスを倒した。山の聖霊の力を手に入れた。彼と彼の姉を預かった父方の祖父母は、両親とは違って好きなだけゲームをやらせてくれる。そのくせゲームに打ち込む孫の背中を、ときどき心配そうに覗《のぞ》いている。彼らから見れば、きっとそれは両親から切り離された不憫《ふびん》な孫の背中なのだろう。そして、その背中が架空のストーリーに「閉じ籠《こ》もる」ことに、一抹の不安を感じているのだろう。  ま、向こうは向こうで、そんな勝手なストーリーに浩一郎を「閉じ籠めている」わけだ。  ——せえの——オルガンと戦っていた教師がやおら声を張り上げた。歌え、ということらしい。人気グループの切ないバラード。「オレ」が「キミ」を守る、「オレ」が「キミ」を守る、翼を広げて蒼《あお》い都会へ……くだらねえな、おい。そのアイドルグループに熱を上げている女子生徒が、浩一郎の斜め前で必死に声を張り上げている。彼の隣の級友が、本気だぜオイ、と肘《ひじ》をつついてきた。  で、二人はこっそり顔を見合わせて、笑った。  白石淳平の場合、両親の不在を木原浩一郎のように「野蛮に」振り切るには、幼すぎた。  彼は、新しい街の新しい学校に溶け込めないばかりか、不登校を決め込んで拒絶していた。で、学校を避けたとしても、待っているのは新しい家族——父方の祖父母——だった。彼は祖母のこしらえた朝食すら拒絶して——なにしろ酸っぱいやら苦いやら、ちっとも口にあわない——、住みなれない木造屋敷をやる方なく徘徊《はいかい》していた。  実家から持ち寄った荷物の中に、夏の間にやり残した花火を見つけた。  ——おばあちゃん、花火、おばあちゃん、花火——九月の昼間に花火をやりたがる孫の様子に、祖母は目を丸くしたけれど、何も言わずに火消しのバケツを用意してくれた。太陽の下で見る花火は、ちっともきれいじゃなかった。昼間の月か、朝日に曝《さら》された夜の夢みたいに、薄ぼんやりと透けてゆくばかりで、あとはやたら煙《けむ》たいだけなのだった。けれど、祖母が淳平を心配していることだけは、幼い彼にも理解できた。二人で、煙たい煙たいと言って笑った。  十五億年先の日曜日に飛んでしまっていた「自分」が、少しだけ戻ってきたような気がした。  放課後。  島崎千裕は担任の教師に呼び出された。  相談室。担任は、図画の時間に千裕が描いた作品を眺めながら、待っていた。その背後には、スーツ姿の男の人と、女の人。どちらも文部科学省の役人さんだ。例の事件に巻き込まれた子供たちを巡回しているらしくて、千裕が会うのもこれで三度目になる。  やがて、千裕の作品を眺め回していた担任が、ため息交じりに呟《つぶや》いた。 「本当に……すごいね」  早駆けの馬が、猛禽の翼を得て、空へ舞い上がろうとしていた。 「こういう動物が、本当に世界のどこかにいるみたい」  と乙女チックに囁《ささや》くと、若い担任は、窓から差し込む午後の光に視線を漂わせた。まるでその光のスロープに、疾走する天馬を見つけたかのように。 「けどさ」急に担任の口調が現実的になった。「先生、『図鑑の動物を描いて』って頼んだんだけど」  担任は、ちょっと真顔で千裕を睨《にら》むと、やがてぷっと噴き出した。 「ま、塩川くんの『かなぶん』よりはずっと生き生きしてますし……先生、これはこれでいいと思います。島崎さんらしくて[#「島崎さんらしくて」に傍点]」  結局、作品をべた褒めされただけで、千裕は相談室から解放された。  失礼します、小声で呟いて、相談室の扉を閉じる。廊下に出たところで、千裕はくすり、含み笑いに肩をすくめた。  あの程度で、あんなに感心するなんて。  あんなもんじゃない。「わたし」には、もっと描ける。もっといろんな「夢」が。  なにしろ彼女には、超人的なデッサン力と、それを「わたしのもの」へと引きずり降ろす無尽蔵の創造力があるのだ。  島崎千裕が退出したところで、担任教師から彼女の普段の生活態度を聴取して、本間和輝と槌神五月は学校を離れた。  セダンへ乗り込み、霞ヶ関への道を辿《たど》る……ということは、本間和輝はもはや光凜大学医学部生理学科「大八木微生物学研究室」助手、ではなく、文科省の「東晃大・上高倉事例調査委員会」担当技官、だった。権藤勲の目論《もくろ》みで、知りすぎたこの男は藪蛇《やぶへび》に引きずり込まれたのだ。まあ、彼自身、歓迎しないわけでもなかったが。他人の論文のために時間外労働にいそしむよりはずっとやりがいがあったし、それにどうせ首を突っ込んだのなら、最後まで見守りたい、という気持ちもあった。とにかく彼は、安定よりは冒険を好む、ポジティブなパーソナリティなのだ。 「島崎千裕」本間が、助手席で個人データに何事か書き込みながら、呟いた。「『一次元世界に対する適応』は、まずまず、といったところでしょうか」 「アリスからもらったデッサン力を、『自分』のものにしようとしています」五月がハンドルを操りながら答える。何がきっかけになったのか、二人にもよくわからないのだが、移動のときには必ずこの位置関係になった。「逞しいものですよ。わたしなんか、七年前も今回も、打ちのめされるか諦《あきら》めるくらいのことしかできなかったのに……やっぱり彼らの『生命力』はわたしの想像を超えてます」 「ま、右半球を刺激されたから、そこに眠っていた『芸術性』が開花したんでしょ」 「わたしは」五月はふんと、鼻であしらいながら、「右半球が芸術的、なんて話は信じませんけど」 「でも、一般的にはそう言われるでしょう?」 「あなたもあの夜、あの娘が最初に描いた『風景画』を見たでしょ? コピーとして完璧《かんぺき》なだけで、絵心はなかった。サヴァンの能力にはそういうものが多い。絵にしても、音楽にしても、コピーは完璧、けれど完璧過ぎて『余白』がない。その作品の中で何を強調したいのか、という『注意点』が見当たらない。これが右半球の才能だとしたら、芸術的とは呼べないでしょ? 『わたし』や『一つの注意点』に固執した左半球が関わらないと、創造性は生まれないんですよ」 「けど、右半球の一括処理やバランス感覚がなければ、あれだけ見事なペガサスは描けませんよね?」 「ただし、忠実なバランス感覚だけでは馬に翼は生えない」 「なるほど、『芸術性は両半球のキャッチボール』、ですか……じゃ、『右半球は無意識』という話は?」 「無意識って、その……心理学で言う無意識?」 「ええ。左半球は意識的で、右半球は無意識的」 「んなことどこの能天気が言ってるんです? 『無意識』なんて、探そうと思えば右も左も、それこそ脳のそこらじゅうから湧いて出ますよ」  ちらりと考え込み、確かにそりゃそうだと思いついて、本間はこの話題を打ち切った。しばらく膝《ひざ》元のシートに何事か記入を続け、それからおもむろに口を開いた。 「比室アリスに関してなんですがね。いまだにわからないことがあるんですよ」 「とすると、もうわたしにも説明できないかもしれませんけど」  なにしろ本間は、文科省に採用されるにあたって、必要な情報はすべて受け取った。「一括処理、全体のバランス、それが長じて生まれる『フラクタル処理』、そうしたものが右半球に引き寄せられる。で、左半球には、逐次処理、一次元の推論、『逐次的言語』を司《つかさど》る二つの言語野……どうして、こうもきれいに左右に分かれるのです?」 「なぜアリスの世界は右寄りで、わたしたちの世界は左寄りなのか、と?」 「ヒトの中枢神経系って、ある程度白紙の状態で生まれてくるのでしょう? とすれば左右差は、いったいどこから生まれてくるのです?」  く、と五月は苦笑した。「そんなこと知りませんよ。だってそれは、比室アリスとは無関係な、ごく一般的な疑問ですから。とすれば、そのへんの脳神経生理学者にわからない限り、わたしにもわかりません」 「感染症の専門家にはますますわかりませんけどね」 「ま、いくつか言われていることはあります。例えば、そのように遺伝子がデザインされているから、とか——これじゃ何の説明にもなりませんけれど。右半球の神経細胞の方が長いから、という話もあります。だから広範な部位と連絡が取れて……これも、何を説明してるんだかよくわかりませんね。ホルモンの影響に左右差がある、とは確かめられています。例えば、テストステロンが胎児期に脳へ循環すると、左半球を損傷する恐れがある。左半球の損傷は出生後に早期幼児自閉症の原因となる可能性があるわけで……このテストステロン、女児の場合は胎盤でエストラジオールに変化しますから、このタイプの脳障害はほぼ男性に限られます。で、自閉症などの発達障害には確かに男女差があって……」 「男性の方が多い、ですね?」 「ま、そのすべてがテストステロンの影響ではないのでしょうけれど。とにかく、ホルモンの影響が左右どちらかに偏るということは、確かにあります。とすれば、テストステロンのような『障害の原因』だけでなく、より一般的な機能においても、化学《ばけがく》的な左右差があるのかもしれません。もちろんこれも、『なぜ』とか『どんな理由で』なんて話は、わたしの知ったことじゃありません」 「候補はいっぱいあるけれど、どれが正解かはわからない、と」 「ま、全部正解なんでしょう。その上に、まだ誰も知らない理由がたくさん関わっているはずです。そうなると、その振る舞いは複雑系に属するわけで……たぶんこのナゾは、演繹《えんえき》や帰納の一本道では辿りきれません。『要素』を抽出して『一次元』に並べなければ『理解』できないわたしたちには、手も伸ばせないような難題なんです」 「それこそ、『比室アリスにしか理解できない』」 「おまけに、あの娘に理解できたとしても、あの娘はわたしたちに理解できる言葉では語ってくれない」  ぷ、と二人揃って、呆《あき》れたように噴き出した。 「なるほど」本間が肩をすくめながらぼやいた。「確かに、わたしたちに見えているこの世界は、世界のほんの端くれに過ぎないわけだ」 「所詮《しよせん》、一次元に閉じ籠《こ》もって端くれを夢見ているだけですね」 「……そこまでこき下ろすこたぁないでしょうが」 「けど、ほとんど何も見えていないことは確かです。わたしもあなたも、アリスのフラクタルはもちろん、お馴染《なじ》みの一次元すらまともに見渡しちゃいません。お互い、『自分史』からこぼれ落ちて忘れ去られたエピソードが、いっぱいあるはずですから」  というわけで、二人はしばらく口をつぐんだ。お互い、語ったはずなのに思い出せないエピソードのことや、夢に振り切られてしまった誰かのことなんかを、振り返っていたのかもしれない。 「そういえば」やがて五月が、ぽつりと告白した。「わたし、夢を見ましたよ」 「……はぁ?」 「というか、実際眠っちゃいなかったわけですから、一般的には『思い出した』なんでしょうけれど……父の夢を見たんです」  ふむ、と本間は鼻を鳴らす。そういう話題であれば……急《せ》かすのも悪いと思って、本間は口を挟まずに続きを待った。 「ずっと子供の頃のことです。両親と伊豆に旅行して……わたし、その海の色が気に入って、何度も何度も落書きしていたんですよね。本当に、何度も何度も。で、そこに父が現れて……」  くすくす、と五月はいたずらっぽく笑った。 「いちおう誉めてくれるんです。けれど、それからわたしの背後に回って、わたしの両手を羽交い締めにして……『サツキ、右手で描きなさい』。右手にクレヨンを持ち換えさせる。わたし、子供の頃左利きだったんですよ。で、父はわたしの左利きを恐れていた……迷信めいた話じゃないんです。ただ、学校に上がれば、教室の窓は『南向き』になるからって、で、教室自体は絶対に『西向き』になるから……」  くすくすくすくす、五月は一人で笑って続けられなくなってしまった。 「……あの」わざわざ気を使っていた本間だったが、結局待ちきれずに口を狭んだ。「東西南北が何だって言うんです?」 「ですから」五月は咳払《せきばら》いで笑いを追い払った。「『ノートに左手の影が落ちるから眼が悪くなる』」  で、また五月は笑い出してしまったので、本間はもう放っておいた。 「実はね」五月はひとしきり笑ったところで、話を継いだ。「ようやく思い出した父の姿がなぜこれだったのか、心当たりがあるんです」 「……実をいうと、わたしも一つ、思いつきましたね」 「あら、といいますと?」 「国立脳科学研究センターで盗み見した、七年前のビデオ映像」  ふむ、と五月は、ちょっと面白くなさげな表情になった。ということは、本間の思いつきは正解らしい。「……そういえば、あなたもあれ[#「あれ」に傍点]を見ていたんでしたね」 「比室アリスに言葉を教えるあなたの姿、です。比室アリスを、後ろから羽交い締めにして、無理やり何かを指差させては、その名前を繰り返して……」  その話題を口にすると、今までの五月なら不機嫌になったはずなのだけれど……今日の彼女は、さっきのくすくす笑いとはまた違った、穏やかな感じの笑みを浮かべて、その話題を継ぐのだった。「親子で同じことをしていたんですね。一人よがりを、良かれと思って、相手に押しつけて……同じだ、ということを認めたくないから、わたしはあの景色を嫌うのでしょう。まあ、最後はわたしも父も、一人よがりを振り切られましたけれど」 「え? じゃ五月さん、今も左利きなんですか?」  いいえ、と五月は首を振って、「そのかわり、自分の右利きをどこかで恨んでますよ。自分でもどこだかわからないような、どこかで」  恨んでいる、と言いながら、五月の表情はさほど恨めしげでもなかった。それは確かに、懐かしげだった。 「まぁ、」ほ、とひとつ息を抜いて、五月は普段の、ちょっとシニカルな調子に戻った。「要するにわたしは、父のことひとつ思い出すにも、自分の何かと絡めなければ思い出せなかった。言い換えれば、どんなエピソードも、一次元のストーリー上で関係性を成立させられなければ、普遍性を失うわけです。わたしの知ってる『わたし』なんてものは、わたしが自分でわざわざ選んでストーリーに仕立て上げた、都合のいいでっち上げですよ」  なんて面白みのない皮肉で話題を閉じようとする五月の横顔を、本間はぼんやりと見守った。  くすくす笑いに、穏やかな笑み、咳払いでいつもの調子を取り戻して……この短い間に、彼女の表情はくるくると入れ替わった。彼女は確かに、父親とのエピソードを——夢の断片を——取り戻したのだろう。  けれど……  きっと彼女は、その父親がすでにこの世にいないという事実には、まだ行き当たっていない。そこまでのストーリーは、まだ思い出していない。右利きを強制した父親と、先日眠りに就いた父親とは……彼女の中ではまだ「別人」なのだ。でなければ、こう愉快に笑ってはいられないはずだ。そのストーリーを手繰り寄せながら、やがて「父親の死」に辿りついたとき、彼女はどうなってしまうのだろう? それをずっと忘れていた自分自身に、どう決着をつけるのだろう? どんなショックが彼女を襲うのだろう?  ま、彼女を襲うショックも「夢」なら、そこから彼女を救い出すのも「夢」なのだろうが。  ところで……問題は本間自身だ。「こちらの世界」に戻るとき、彼はいったいどのエピソードを思い出したのだ?  オレはいったい、自分の何を見落としている? それは、見落とすことによって成り立っている今の「オレ」には、夢にも思い出せないのか?  確かに槌神五月は、「父親の死」に直面していない。  その死は、他の誰かの死として、これといった感情も呼び起こさないような片隅に、ぽつんと放り出されている。  ただ……  その男の残した最後の言葉は、彼女の中で、少しずつ、脈打ちはじめていた。 「生命力」。  槌神総一郎が比室アリスに見出《みいだ》した、生命力。  ——比室アリスに、『9・7次元上を無限に舞う蝶《ちよう》』くらいしか宿っていないとしたら、ヒトには、生まれてはじめて世界と接したときの、愚鈍で低レベルな『一次元』くらいしか、宿っていない——  けれどもし、その両方に、「生命力」が宿っていたとしたら。  一次元だか9・7次元だか知らないが、とにかく悲壮な勢いで世界に食らいつこうとする、野蛮な生命力が宿っていたとしたら。  あるいは、鼻先を舞ったモンシロチョウや、心に焼きついた海の色を、ひたすら無心に描き殴るような、かたくなな生命力が宿っていたとしたら。  あの娘も、わたしも、その生命力の駆るままに、この世界に食らいついていった——もしもすべてが、それだけのことだったとしたら……  みんな化け物だ。  夢のような化け物。信じがたいほどの化け物。  もしかすると、五月の教え子は、たとえ化け物だったとしても、ごくありきたりな化け物だったのかもしれない。 「父親の死」を見落としたまま、不思議と心を弾《はず》ませながら、彼女は高速にアクセルを踏み込んだ。  夜。国立脳科学研究センター。  比室アリスはいまだに地下三階のドームに眠っていた。移送する、とは言ってみても、ドームのような仰々しい設備を有し、しかも丁度空き部屋になっているような都合のいい施設は、日本中どこにも見当たらなかった。結局、いつか施設の視察が行われるときには、比室アリスはまだドームにいることになりそうだった。ドームの遮音構造が疑問に上げられそうだが……そのときは、「収容患者に余計な刺激を与えないよう、外部からの音を遮断するため」とでも言い訳してやれ、と権藤勲は腹を括《くく》っていた。感染症に対する対処能力がないのも、「上高倉での事故以前には、原因の候補を感染症に絞ってはいなかったから」てなことにでもしておけばいい。あとは「危険」だからといって、あまりドームに近寄らせなければいいのだ。  もっとも、比室叡久に言わせると、もはやその危険はないらしい。というのも、「恐らくあの娘はもう二度と目を醒《さ》まさない」…… 「しかし、どうしてそう言い切れるのです?」  権藤勲は、これが最後とばかり、車椅子の比室叡久に詰め寄った。  が、彼はいつもの朗らかな調子で、「さあ、どうしてと言われましても……」  口籠《くちご》もって、口籠もったとも思えないような楽観的な微笑みを浮かべ続けるのだった。  はあ、と権藤はため息をついた。この御老体、夏の終わりに未明の公園で「出番はおしまい」と告げて以来、日に日に無頓着《むとんちやく》を悪化させていく。ほとんど、ただ楽観的なだけの抜け殻と化していく。なんだか知らないが、とにかく確かにこの御老体、出番は終わったらしかった。 「じゃ、わたしはそろそろ……」  そう呟《つぶや》いて、比室叡久は電動車椅子を反転させた。するすると、地上一階の正面玄関へと進んでいく。実はこの日、比室叡久は長野へ戻ることになっていた。権藤が先ほど「これが最後」と詰め寄ったのも、そのためなのだった。 「あなたも少しは休みなさい」比室叡久が背中越しに告げた。「今夜も、まだ働くおつもりなのでしょう?」 「いろいろこの施設に持ち込まなければならないものがありますからね。いちおう、『国内の脳研究に関する特筆すべき成果を収集』していた形跡を、でっちあげておかないと……」 「そんなもの、すぐに見破られますよ」  はあ、と権藤はため息漏らして、「いいんですよ。いずれ、この施設は『七年前の事故の被害者を一名「保管」していただけだ』と公表することになるでしょう。それでいちゃもんつけられるのが、わたし一人で済むのであれば、安い話です……」  おやおや、と比室叡久は、権藤勲の人身|御供《ごくう》も無頓着に笑い飛ばした。「だったら、『でっち上げ』も必要ないじゃないですか」 「……どっちにしろ、比室アリスに関する資料をここから引き上げなきゃならないわけですし」  という権藤の泣き言は、比室叡久がしまいまで聞かずに正面玄関を抜けていったので、ほとんど独り言になってしまった。権藤は慌てて追いすがる。 「先生、例の件、お願いします」 「もちろん」比室叡久は、ロータリーのスロープを滑り降りながら安請け合いした。 「その際には、検査のために一度東京に出てきていただくことになると思いますが」 「結構」  で、比室叡久は、スロープのふもとで待っていた長野職員に連れられて、国立脳科学研究センターを去っていった。  例の件……実は権藤は、二百を超える「帰還」できない被害者たちに対して、ある救済措置を画策していた。比室叡久の受けた外科処置を、その二百超にも適用する——ある程度の障害が残ることを覚悟の上で、親族の同意の得られた被害者を外科的に「帰還」させようと考えているのだった。そのために彼は、激務の合間に厚生労働省に話を持ちかけ、専門家による「特別委員会」の設置を促し、同時に処置の精度を上げるため、比室叡久の精密検査も計画していた。比室叡久もその申し出を快く受け入れてくれたが……  ——もちろん、結構、か。確かに快いけれど、あれじゃほとんど他人事《ひとごと》じゃないか——  ……まあいい。協力は約束してくれた。その内心まで推し量るほど、権藤勲は暇じゃない。今夜もまた、ここで一仕事片付けたら、霞ヶ関へ戻らなければならない。とすればとっとと一仕事片付けるだけだ。  と、館内に戻りかけたところで、彼ははたと足を止めた。  ……虫の声だ。  背を向けるまで、気がつかなかった。国立脳科学研究センター周辺の更地で、百万ほどの秋の虫が、盛りとばかりに鳴き交わしていた。  ふと、あの夏の終わりに垣間《かいま》見た、虹《にじ》色のドームを思い出す。  あれは……素敵な景色だった。まるでこの世のものでもないようで——確かにこの世のものではなかったわけだが——、あれが見えた瞬間、時が止まった。「わたし」も止まった。言葉も途切れて……  素っ裸のまま、百万の虫の声を百億年くらい聴き続けていたような気分に襲われた。  そういえば……子供の頃は権藤も、「世界って何なんだろう」なんて、漠然と考えたりした。宇宙が大爆発からはじまったのなら、大爆発はどこで起こったのだ? それに「言葉って何なんだろう?」。何もないのに、何かが「理解」できるのは、どうしてなんだ? 「『わたし』って何なんだろう?」、「『わたし』って何なんだろう」と考えている「わたし」って何なんだろう? 「『「わたし」って何なんだろう』と考えている『わたし』って何なんだろう?」と考えている「わたし」って……  ああ鬱陶《うつとう》しい。  こんなことしている暇があったら、一仕事片付けるべきだ。権藤は、ふん、と秋の虫へ負け惜しみのような鼻笑いを投げかけて、館内へ戻った。  わたしは権藤勲。「上高倉事例」処理のために首都圏を奔走する、文部科学省科学技術・学術政策局計画官。  出番は終わった。  ウインチによってバンの後部荷台へと吊《つ》り上げられながら、比室叡久は国立脳科学研究センターの白い壁をじっと見凝《みつ》めた。  さようなら、可愛い我が娘。  器質的な要因と精神的な要因がからみあって、四歳で施設に保護されたときには二歳児の体格にも満たなかった、悲惨な発達障害児。  六歳で、はじめてわたしと出会ったとき、原始の笑顔でわたしを迎えた、「野獣」。  七歳の誕生日、ひたすらハッピーバースデーを奏で続けた、「右半球の天才」。  春にはモンシロチョウを9・7次元で無限に捕まえてみせた、「多次元の天使」。  隔離タンクの闇の底で多次元の産声を轟《とどろ》かせた、「『もうひとつの世界』の創造主」。  その産声で六十八人を吹き飛ばした、「化け物」。  十四歳、最後の扉を解き放ち、再びそれを閉じようとするおまえは、もう立派なレディになった。  さよなら、わたしの、夢のまた夢。  なんて詩人を気取ってみても、比室叡久の胸の内には何の感慨も込み上げなかった。出番は終わった。「世界」も「わたし」も他人事に変わり果てた。あとはただ、誰でもないような誰かが、無頓着に微笑み続けるだけだった。  そして……  朝。  どことも知れない街にある、どことも知れないマンションの一室で、渡瀬春奈は目を醒《さ》ました。  カーテンの向こうに朝日が透けている。おかげで部屋がオレンジとピンクに染まる。枕もとで熊が笑っている。その傍らの目覚し時計に、秒針がちくちくと巡っていく。  何もかもが、凍りついて見える。  春奈はベッドを抜け出した。  居間のテレビがつけっぱなしになっている。アナウンサーが何か呟いている。キッチンに母親の足音が引きずられていく。ダイニングテーブルに空っぽの皿が並べられていく。オーブンでパンが焼かれている。ちりちりと、真紅のヒーターの放つ灼熱《しやくねつ》に曝《さら》されて。ちりちり、ちりちりと……  母親が、食パンの袋からシールをもぎ取って、冷蔵庫にマグネットでとめられた応募シートを振り返った。  ……二十六点だ。二十六は……  嫌だ。  こんな静まり返った世界、嫌だ。どうにかしないと、どうにかしないと……  春奈は、応募シートに印刷された「おしゃれな小皿」と女優の笑顔をじっと睨《にら》んだ。  母親が歩み寄る。冷蔵庫に用があるらしい。が、春奈が正面に立っているものだから、何もできない。どいて、と言えばいいのに……けれどこのヒト、お父さんが死んでから、そんなことすら言えなくなった。ま、そんなことすら言えなくなったのは、春奈も同じなのだけれど。二人は台所の片隅に凍りつく。おかげで台所そのものが凍りついていく……  ——これじゃ、これじゃ……今ここに「わたし」がいなくても、何も変わらない——  世界から、「わたし」が消えてなくなっても、何も変わらない。  どうにかしないと[#「どうにかしないと」に傍点]……  春奈は、おもむろに「おしゃれな小皿」を指差すと、思いきって、口を開いた。 「結構しょーもない小皿だよね」  振り返ると、母親はおっかなびっくり、春奈と小皿を見比べていた。  さんざん見比べた後で、そのおっかなびっくりは、ぷっ[#「ぷっ」に傍点]と微《かす》かに噴き出した。  その瞬間……  どことも知れない街にある、どことも知れないキッチンに、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と朝の光が弾《はじ》けた。ぴかぴかの食器が朝食を待っていて、ほかほかのパンがオーブンにくるくる回っていた。居間のレースのカーテンに、朝の太陽が乱反射して、その虹色がキッチンまで差し込んでいた。虹色の向こうで、母親が笑っていた。さあ、ぼうっとしてると遅刻するよ、母親が春奈の頭をこづく。居間のテレビがファンファーレを奏でる。スポーツコーナーの合図だ。オーブントースターがチャイムを響かせる。パンが焼けたという合図だ。  朝だ。いつもの忙しい朝。そんな夢に、世界が染め上げられていく。  世界が夢に染まっていく。  朝食を掻《か》き込み、ランドセルの仕度をすると、春奈は母親に背中を押されながら、朝の街へと飛び出していった。  けれど……  どことも知れないこのマンションには、なんだか知らないけれど山ほどの人間が暮らしていて、それが毎朝同じような時刻に、一斉に表へ這《は》い出してくる。みんな無言のしかめっ面で、黙々とすれ違っていく。面白くもなければ、哀しくもないような感じで。その景色が、毎朝春奈を圧倒する。それが人の群れには見えなくなってくる。熊の笑顔が、熊でも笑顔でもなくなっていくみたいに。朝の光がきらめきを失う。夢を忘れたピンクやオレンジみたいに。そんな凍りついた景色に……  百二十六人いる、という無味乾燥とした数字だけが、ぽかんと取り残される。  ——違う。これは「わたし」の世界じゃない——  こんな、「わたし」も誰もいないような世界は、「わたし」の世界じゃない……  春奈は、走った。  向かい風を突っ切って疾走した。  その風の中に「わたし」の身体を確かめながら。  揺れて弾けるランドセルに「いつもの朝」を夢見ながら。  母親の笑顔を忘れないために。 「世界」を再び取り戻すために。  いつかまた、もう一度、「燃えてしまえ」と呪えるくらい、「世界」をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と引き寄せるために。  擦り抜けそうな「世界」と「わたし」を、夢へと引きずり降ろすために……  持って生まれたすべての生命力を迸《ほとばし》らせて、  渡瀬春奈は、走った。  百二十六は……七の三倍の三倍の二倍だっ! [#地付き]——おわり——   [#改ページ]   Life, what is it but a dream?   (生命《いのち》は夢、他に何がある?) [#地付き]——LEWIS CARROLL—— 角川ホラー文庫『アリス Alice in the right hemisphere』平成15年3月10日初版発行